第10話 ちよとウーのデート
ウーとちよと、そして孝太郎の三人で寝たその日の翌日。
孝太郎とちよがこの世界に来て三日目の朝。日が昇ってすぐの頃。
ルクス城館の客室にて。
「キャアアアア!!クァワイイよぉぉ」
「えっと……あ、ありがと」
ちよはこの国の女性が好んで着るディアンドルという民族服を着させられ、その上にこの世界に来た時に持ち込んだダウンを羽織っている。
短い袖なしのボディス、襟を深く刳ったブラウス、ちよの足が見えないように足首まで伸ばしたスカート、そしてエプロン。
ルクスのどこに行っても恥ずかしくない、普通の女の子の服装だった。
そして着せた本人であるリーナが涎を垂らしながらちよに迫っていた。
「ハァ、ハァ、ちっちゃかわいいねぇ、ねぇ!かわいいねぇ……」
「ひっ……」
「その辺にしておけリーナ。ちよ殿が怖がっている……それにお前もちっちゃいだろうが」
ちよの乗る車いすに這いずる様に迫るリーナの首根っこを掴んだアンナが、そのままリーナをちよから離してツッコミを入れた。
リーナはちよよりも、いや下手するとウーよりも小さい体躯であり、当然のツッコミだった。
「私はこれで大人だからいいの!むしろ小人の中じゃ大きい方だよ!」
「ふむ……。そういうものか」
「そうだよ!」
リーナの言葉に納得してしまうアンナ。
基本的に彼女はちょろい女だった。
「おー。準備できたー?」
ディアンドルを着たウーが部屋に入ってくる。いつも着ている羊柄のパジャマは今日は洗いに出している。
巻き角さえなければこの国の町娘と何ら変わらない。ルクスに溶け込む一般的な格好だった。
しかしたとえ巻き角がなくとも、その類まれな容姿のおかげで目立ってしまうだろう。何しろ、二日続けて規則正しく眠りにつけたおかげで、ウーの目元のクマはすっきり無くなり非の打ち所がない美しさを得ているからだ。
「はい。ばっちりでーす」
「準備、万端です」
リーナ、アンナが答え、ウーがうんうんと頷く。
「うん。いいねー。よく似合ってるよ、ちよ」
「ウーちゃんもすごいカワイイ!なんか新鮮だね!目元のクマも消えてるし、パジャマでもないし。……てか、お揃いでデートじゃん、緊張してきちゃった」
「クマがない自分の顔なんて何年か振りだ。うちもビックリだよ。……おーほんとだ、なんかうちも緊張してきた」
ウーとちよは互いに胸を抑え、見つめあって笑いあった。
ちよに向けて今日はルクスの案内をするのだ。城下へ降りてルクスの街並みを二人きりで見て回る。
ちよの、この国をよく知りたいとの願いを叶えるために、昨日のランチの時には企画されていた。イングリット他、城内の人間は仕事があって案内は難しいとの事で、この企画はちよとウー二人だけの街歩きとなった。
つまりは、デートだ。
車いすに乗ったちよと、それを押すウーが城下街へと続く道を歩いていく。
今日も朝から天気が良く、上へ上へと突き抜けるかのような澄んだ空気を晴れ渡った空が運んでくる。
正面正門から唯一城下街へ続くこの道は、防衛上、敵の侵攻を妨げるために急勾配となっており、到底車いすが昇り降りできるような道ではない。それを押す人物が普通の人間ならばの話だが。
それが魔人の膂力であれば、何の問題もない。
「なんかすごいね……この坂めちゃくちゃ怖い」
「……うん、こりゃ危ないな。ま、うちに任せとけ」
ウーは魔法でちよを車いすごと浮かせる。なるべく傾きを空に平行になるようにして、ちよの安全を確保した。
しかし不意の無重力感に、ちよは手に持っていたスマホを指から滑らせ落としそうになる。
「あわわわ」
空中を何度か切りつつも、なんとかスマホが地に落ちる前に掴み取ることができた。
「おっと、ごめんちよ。……それなに?」
「これ?スマホってゆうんだよ」
「スマホ……?」
イサミからも聞いたことがない。ウーはそれが何なのか全く想像がつかないでいる。
「えーと……なんてゆうか、携帯」
「おお!携帯電話か!へぇー、そっちは技術革新が速いな」
ウーはかつてイサミから渡された携帯電話を思い出す。携帯電話なら聞いたことがあるし、見たこともある。
「そうそれ。これでこの国の写真撮るの!この世界に着いた時はびっくりしちゃって、いろいろ写真撮り忘れちゃったから、今日は忘れずに撮るぞーって思って」
「そっか……。よし!ばっちり案内してやるからな!」
山肌を削り、コンクリートで舗装された急坂を降り切ると、その先には街と王城とを分ける城門と城壁とがあった。
手前には堀があり、山から流れる川の水を引いて水路を形成していた。そして堀をまたぐようにして、馬車一台分ほどの幅をもった石橋が城門まで掛かっている
石造りの重厚な城門は今は閉じられており、完全に外と中とを分断していた。
こちらから城下街をうかがい知ることができない。ちよは果て無く続いているかのような城壁に圧迫感を覚え辟易した。
「おーい」とウーが声を上げると、城門の上に凸のように付いている衛兵詰め所兼見張り台から若い兵士が一人現れた。
「はっ!!お待ちしておりました!」
「いまいけるー?」
「はっ!!今ならだれもおりません!開門いたします!」
「よろしくねー」
会話が終わると数秒もたたないうちに開門が始まる。重苦しい響きが振動となってちよの胸に迫る。
王城に向けて開かれる石門の間から、西洋風のレンガ街を彷彿とさせる赤い城下街が見えてきた。
城門前の大通りには朝早くから露店が立ち並び、大声を張り上げて道行く人にご自慢の商品を買わせようと躍起になっている。
道行く人も商人も、街中を走る子供らも、笑顔と活気に溢れ、理想的な国家の象徴を感じさせるある種の喧騒がそこにはあった。
そうしてガヤガヤと騒がしい城下街からは、しかし昨日、一昨日と襲来した邪神に対しての危機感や悲壮感といったものは一切感じられず、むしろ、どこか浮世離れしたような雰囲気が漂っていた。
誰も彼もみな明るく、笑顔で、快活で――どこか現実味のない不思議な街。
「おおー!すごーい!城門ってこんな感じなんだ!」
そしてちよはそんな事には気づかず、開門の様子を動画にして撮っていた。
石扉の開け放たれる解放感とその振動を心地よいものとして受け止め、その感覚を忘れないようにスマホの中に記録を収めていく。
「……あれ?誰もいないって言ってたけど町の人いるじゃん!」
「んっ?ああ、まあねー。よし、張り切って案内するからバシバシ撮っていけよ!」
そしてウーは車いすを押して城下街に入る。
喧騒がちよの耳に強く主張し、彼女はそれを肯定的に捉えたようで、瞳に未知に対する好奇心を映してうずうずと身じろぎする。
――ルクスの街って楽しそう!なんか賑やかなのってワクワクするよね!
期待を胸にちよはルクスの城下街を望む。
「お帰りの際は近くの衛兵にお呼びかけください!ご準備いたします!」
「頼むわー。うちじゃ足止め食っちまうからなー」
そんなちよの背後で、若い兵士とウーの会話は何ともなしに行われた。
朝は露店で買った物で済ませ。二人はルクスの街中をあちこち回って散策した。
様々な場所を見て回り、そしてお昼の時間になった。
「ふぅぅ……、め、飯の時間にしよう、ちよ。うちけっこうくたくた」
ウーは目元にクマができるかと思った。気疲れのためである。
ウーが思っていた以上に車いすに乗っての街の散策というのは波乱に満ちていた。
まず、このルクスという国は坂が多い。山と海を跨いで広がるこの国は、王城のある山側へ行けば土地が高く、海側へ行けば低い。
よって街を歩いていれば何度も坂を上ったり下ったりしなければならない。もちろん坂の勾配は一定ではなく、坂道の途中で急にきつくなったり緩くなったりする。
常時血の魔法を使って、ちよを浮かせていればいいのだと思うだろう。しかし浮かせる魔法、浮く魔法は、ちよが作り出した熱球を止めたそれよりも燃費が悪い。
――丸一日浮かせ続けたら魔力切れになっちまうな。
よってウーは局所局所でしかそれを使う事しかできず、ほとんど自力で車いすを押し続けた。
しかし、
道端に転がる小石に当たり、バランスが崩れた時。
緩やかな下り道が突然に急勾配になった時。
噴水の前の小さな階段を上る時。
ウーのお気に入りの時計台の頂上へ向かう階段を上る時。
そして、
人ごみの中で車いすが人にぶつかってしまった時。
ちよの足がフットサポート(利用者の足を乗せる支持部)の間に入ってしまった時。
噴水を撮ろうとしたちよが、スマホを落とし思わず取ろうとしてしまった時。
などなど、ウーが思っていた以上に使いどころは多く、そして気を付けなければならない行動は数多く存在した。
結果としてウーは自分の想像以上に疲弊し、この企画を甘く見ていた自分を恥じた。
――孝太郎、お前、すげーよ。尊敬するわマジで。
孝太郎の住んでいた現在日本では、車いすでももう少し動きやすい。何しろエレベーターがある。店の前の段差は極力取り除かれスロープになっている所も多い。
しかしこの国ではそういったバリアフリーは進んでいない。だからこそ魔人であるウーの体力をもってしても疲弊してしまった。
「ごめんね。いろいろ見たいなんてワガママ言って、あっちこっちに行かせちゃった!そうだね、そろそろ休憩しよっか!」
ちよは満面の笑みだった。未知の世界を見ていて楽しいという気持ちが、申し訳なさより遥かに勝っているようだ。
通りすがる人々から奇異の目で見られることにも、なんら問題を感じていないように見える。
その笑顔を見てウーに力が湧いてくる。
――こんなに喜んでくれるなら、ここまでやった甲斐があるってもんだ。
「あっ!あのお店とかおいしそう!あそこに行こ!!」
「……しゃ!任せろ!最後まで付き合ってやる」
そうしてちよの指さしたレストランへ。その門前の小さな段差に引っ掛かりそうになって、また魔法を使ってしまうウーなのだった。
「いらっしゃーい。……おや、魔人さんと小さなお嬢さん、に車いす……珍しい取り合わせだね」
レストランの扉を開くと、胸に名札を付けた給仕の女の子がそう告げた。ウーより背丈の低い、小人だった。
店内はそこそこ賑わっており、すでにほかの客が大小さまざまなテーブルを挟んで談笑している。テーブルの上に並んだ料理を見てみるに、おそらく海鮮料理が売りのレストランなのだとちよは思った。
「小人の給仕も珍しいだろが?テーブルにやっとこさ手が届くお前が何言ってやがる。お客に余計なことを言うんじゃねぇ」
奥にいるコックが給仕に向けて注意した。
「おっといけね!はーいそれでは、こちらのテーブルへどうぞ~」
わざとらしく手を口に当てると、すぐにちよとウーをテーブルまで案内する。
そこにはテーブルを挟んで二つ座席が壁側と道側に設けられていた。
「おー、すまんけどなー。こっちの座席を外してもらえるかな」
「ああー、ハイハイただいますぐに。よっと」
給仕は道側の座席を力づくで引っこ抜いた。呆気なく、なすすべなく自然に座席は引き抜かれた。
「えっ!?ちょ、ちょええ!?」
「おー……。小人はほんと怪力だなー」
給仕はメリメリと、音を立てながら支柱ごと引き抜いたそれを片手に担いで店の奥へと消えていく。
かつて座席があったそこには、歪な丸形の穴がぽっかりと空いていた。
「てんちょぉー!座席取っ払ってきましたよ」
「おう……?……おまっ!?なにしてやがる!!アホか!!」
「え?お客さんに言われたので取ったんですよ。お客に余計なこと言うなって店長言ったじゃないですかぁ」
「大馬鹿野郎!!そういう意味じゃねえよ!!」
「は?あたし野郎じゃないんですけど!?――」
ぎゃあぎゃあと厨房から言い争う騒がしい声が聞こえて、店内のあちこちから「またやってる」、「ほんと飽きないね、二人とも」とクスクス笑う声が沸きあがった。
どうにもいつもの事らしい。
「……こりゃ注文までに時間かかるぞ、ちよどうする?」
ウーは正直この店から出て、ほかの店に行きたいと思っていた。彼女はお腹を満たすよりも、静かなところでゆっくりと疲れを取りたいと心底思っていた。
――その点、この店は最悪だ、店員のあくが強すぎる。ぜんっぜん休めねーよ。
しかしちよは会心の笑みを浮かべ声を上げて喜んでいた。
「ふふっアハハ!!ひぃぃ!まじウケる!!この穴とかヤバイじゃん!」
そう言って穴と、給仕と店長のケンカを交互に写真を撮りまくっている。
「……ちよのツボだったか」
結局、給仕が戻ってくるまでの数十分、二人は水も飲めない状況で待ちぼうけをくらったのだった。
ちよは給仕に無言で板を渡された。ちよは「ありがとう!」と言って車いすの肘掛け部分にそれをかませる。給仕はそれに微笑みと共に親指を上に突き出して答えた。給仕はちよに出す料理をその板の上に並べていった。
今日のオススメ料理を頼んで、出てきた魚料理に舌鼓を打った後。
ちよは自分のお腹を叩いて満足そうに笑う。
「あーくったくったぁー」
「ちよ、なんだそれ。誰のマネ?」
「さっきの給仕さん!まかない食べた後にこう言ってたの!」
「おお……。ほんと好きになっちゃったのね」
どうやらあの特徴的な給仕のやることなすこと、全てちよのツボにはまってしまったらしい。
いま給仕は「もう勝手なことするなよ!何かある時はまず俺に聞け!」という店長の言葉を真に受け「てんちょぉー。お客さん来ました。どうします?」といちいち聞きに行っている。
それが素の行動なのかわざとなのかは分からないが、とにかくウザい。
ウーからすれば、少しおばさん口調の小生意気なガキにしか思えないが、ああいうハチャメチャな人間がちよの好みなのだろう。
「あーあ、この世界にyootubeがあったら絶対人気者だよあの人!かわいいし面白いし!……さりげないカッコよさもあるし!」
「……あっそ」
給仕の話でお昼は持ちきりだった。もちろんルクスを観た感想や、次にどこに行きたいかなどの話もあったが、ほとんどが給仕の話で流れていったように思う。
――なんかむかつくわ。
「あれれ?ウーちゃんもしかして嫉妬してる?」
「ふぉっ!?げほっごほっ」
ウーは口につけていた水の入ったコップをむせて吐き出した。
動揺がもろに行動に表れてしまった。
「大丈夫?……心配しなくても、ウーちゃんのが好きだよ」
「う、うん。いやその、ありがと……」
「あら~。見せつけるねぇ~」
気付けばすぐそばに給仕が来ていた。小柄な体躯に、今はなぜかテーブルを肩に背負っている。
そのアンバランス差がどうにもおかしくて、ちよはまた声を上げて笑った。
「あははっ!なんでテーブル持ってるの!?なんでそんな力持ちなの!?すごーい!」
「小人は種族的に力持ちなのさ。まぁ魔人様には劣るけどね」
「……仕事は終わったのか?」
ぶすっとした顔でウーが告げた。直りかけていた機嫌が給仕の横やりで一気に下向いた。
「あらら、美人さんの渋い顔なんてなかなか拝めないよ。ありがてぇー」
片手で祈るような仕草をされて、ウーはますます不機嫌になった。
――うぜぇぇぇ!!
「おー。いいから仕事は?まだ仕事中だろ?また店長に余計な事言うなって怒られるぞ」
「心配どうもー。だいじょぶ、さっき店長に『好きにしろ!』って言われたから、いま好きにしてんの」
――こいつやべぇな。
給仕の発言に腹を抱えて笑い出すちよを見て、いよいよウーは店をさっさと出ようと決心した。
こいつの名前は覚えておこう、要注意人物として。とウーは考えて給仕の名札を凝視する。
もう休憩は十分だ。
「よし、ちよ、出るぞ。まだまだ見たいところあるもんなー。次は港で船見てみようなー」
「おや、お帰り?ちょいまっててー」
「あっ、まってウーちゃん。わたし――」
ウウウゥゥーーー……ウウウゥゥーーー……
――あのサイレンが邪神の襲来を告げた。
店は騒然として、そして店内の目が一斉にウーを見た。巻き角を持つウーを見た。
期待と混乱と焦燥をない交ぜにした数十の瞳が彼女を射抜く。
それに気付いて、ウーは瞬時に立ち上がると、周囲に大声で余裕をもって告げる。
「よーし!軽く潰して来るわ。このところ多くて面倒だけど、みんないつも通りに避難すれば問題ないからねー」
そしてちよに向き直り告げる。
「ごめん。すぐに現場に向かう。ちよもいいなー?」
「あ、あのごめん。今は無理かも」
思いがけないちよの言葉にウーは驚きを顔に出し、しかしすぐに、けだるげに聞き返す。
「ど、どしたー?」
「そ、その……」
……トイレ、行きたい。
衆目の監視の中、ちよは小さく小さくその言葉を絞り出した。
羞恥に頬に赤みが差し、ウー以外の誰かに聞かれてはいないかとちよは縮こまる。
――し、しまった!城を出る前に行ってからもう何時間だ!?
最悪のタイミングで来てしまった尿意、ちよは長くは保てない。
「あっす、すぐ――」
トイレに行こう、という言葉をウーは肺の中に飲み込んで隠す。未だ数十の救いを求める瞳がウーに突き刺さっていた。
突き刺さる視線にウーは身動きが取れなくなってしまう。
――あっ、いかなきゃ。早く。義務を果たさなきゃ。
――でも、ちよが……。
周囲の期待と責任と義務と、そして大事な友達と、どちらを優先すればよいのか。
――あ、あっ、どうしたら、うち、どうしたら……。
「よし、このお嬢ちゃんはお姉ちゃんに任せろ、魔人のお嬢ちゃん」
そして給仕が二人の窮地に、救援の声を上げた。
「え?お、おい?」
ウーはこの給仕が、今の事態を本当に理解しているのかと不安になった。
あの店長とのやり取りを見る限り、本当にただの勢い馬鹿の発言とも思えたからだ。
「だいじょぶだいじょぶ分かってる。店長とは、ありゃ、ああいう愛の形だから」
「勝手なこと言うんじゃねぇ!」
店の奥から店長の怒れる声が聞こえて、給仕は舌を出してそれに応えた。
「……ほら行っておいで魔人のお嬢ちゃん。あたしはこういう子の扱いは分かってるつもりさ」
「……っちよ!」
「うん!行って!給仕さんはご飯の時に板をくれたから、大丈夫だと思う!」
料理を出すときにテーブルに置かず、車いすに掛ける板を渡してその上に置いたのは、ちよの手からテーブルの位置が高く遠く離れていたからだった。
板が無い場合ウーの介助が必要となり、二人で食事を楽しむような空間にはならなかっただろう。
頼もしいちよの言葉を聞いてすぐ、ウーは彼女と給仕に向けて告げる。
「よっしゃ。……ちよを頼むぞー……ミカ!」
そして風のように、ウーは店を出て戦地へと飛び立っていった。
ウーが出ていくのと入れ替わりに、店内に街中を歩いていた人々が避難してきた。
わらわらと、しかし落ち着いた様子で避難するのを見て、小人の給仕、ミカが舌打ちをする。
「あちゃちゃ、こりゃすぐにごった返すねぇー。整然と来る方が早く詰められるってもんだ。お嬢ちゃん、ちょっと乱暴に行くかもだけどゆるしてね」
「うん……。きゃああ!?」
そう言ってミカは車いすごとちよを持ち上げた。
ミカは片腕にテーブル、もう一方の腕にちよと車いすを担いでトイレへと歩みを進める。
「はいどいてどいてー。ぶち当たるとケガすっぞお客様がた」
わらわらと増えていく避難民だが、ミカに恐れをなして誰もその側には近寄れない。
波のように二つに割れた人ごみの中を悠々とミカは進んでいく。
「すごーい!みんな避けていくよ!」
「すごかろすごかろ。……ほいついた」
店内奥に一つだけ置かれたトイレ。
そこには、
「えっ!?多目的トイレじゃん」
そこには日本で車いすマークで良く示される多目的トイレが置かれていた。
180度に動く手すり、便座の横に一列に配置されたトイレットペーパーとボタン。そしてベビーチェア、ユニバーサルシートまで置かれた、よくあるあの多目的トイレがそこにあった。
「すごいだろ?この国でこの店だけさ。……あたしはこの国に来て日が浅くてね。どこにもこいつやスロープがない事にビックリしちまって。すぐに国に掛け合ったのさ、車いすの人やお年寄り、赤子なんかにゃ必要だろうってね」
そう語りながらミカはテーブルをトイレの入り口に置いて、スライド式の扉を閉め、車いすをゆっくりと便座の近くに降ろした。
「そしたらイサミって野郎がその為の資金をあたしに渡してこう言うんだ、『すまない、国を挙げてその事業に挑むことができない。せめて君の店だけでもそう作り変えてくれ』って、いやあたしアルバイトだっちゅうの」
ミカはアルコールで便座を拭き汚れた部分を清潔にしていく。
「まぁ店長はあたしにホの字だからさ。あたしのやる事に文句言わないでくれるわけ。そのおかげでトイレは整えられた。まぁ完成した頃には、この国には車いすの人間も、この手すりが要るようなご老人もいないって気づいたけどね。……そのせいでトイレだけで終わってた」
便座、手すりを手早く拭き終わり、トイレットペーパーの補充も確認すると、ちよに向き直り宣言する。
「あんたのおかげで大事なことを思い出したよ。……あんた、介助なしでもトイレに移乗できる?」
これはミカの善意だった。いくら同性同士とはいえ、自分の排泄を今日会ったばかりの他人に手伝ってもらうのは、誰であろうと避けたがる。
ましてそれが年若い、小さな女の子であれば尚更。
それをミカはよく理解していた。
「えと……うん。けどもうギリギリだから、トイレに乗せて……脱がすところまでお願いします」
「わかった」
ちよの言葉を聞いてすぐにミカは車いすから、ちよを担ぎ上げて便座に座らせた。
そして片足ずつ持ち上げて、片足ずつスカートを下げ、同じようにショーツも下げた。
「座位はこれでいい?背中の位置なんか変な感じしない?ボタンに手は届く?」
「うん……大丈夫。……ありがとうミカさん」
「よし!じゃああたしは店に戻るよ、全部終わったらボタン押して呼んで。最後までお姉ちゃんをしっかり頼って!」
「ふふっ、はーい!ありがと!ちっちゃなお姉ちゃん!」
******
――強い子だねぇ。
魔法でトイレのカギを占めると、店内の騒々しさがミカの耳に届いた。
どうやら店内にパンパンに避難民が入ってきたようだ。
これで三日連続の邪神襲来だが、慌てた様子はもう見られない。
――この国の人間は本当に、良くも悪くも、魔人の隣人だね。
この国に来てもう三年ほど。邪神への危機感が募り、いとこが働いていることもあってルクスに移住することに決めた。
その日から三年。
この国のシステムや、そこに暮らす人々の人間性にも慣れ始めた頃だと思っていたが。
――過信しすぎだよ、魔人を。あんたらの目に怯えてたじゃないか。
――頼らざるを得ないのは、わかるけどね。
そうして店内の一人一人の顔を見ていけば、安堵、恐慌、楽観、畏怖、様々な表情の中に、共通して一つの感情を読み取れる。
最後には魔人が解決してくれる、という信仰だ。
長い嘆息を吐いて、ミカは横にしたテーブルの上に腰かける。
そして頬杖を突き、未来を憂慮していたミカに近づく一つの人影があった。
「ん?……あんたいつの間に。もう終わったのかい?」
「なんのこと?……ねぇ給仕さん、ここに車いすの女の子は来ていないかしら?」
そこには質素なディアンドルを着て、ウーにそっくりの顔をした、白い髪に紅い双眸を持つ美しい少女が立っていた。
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