煌(あきら)=夏空の向こうで

上松 煌(うえまつ あきら)

 煌(あきら)=夏空の向こうで



 ゼミナールにはいつも、混沌とした澱(おり)の上澄みのような空白感があった。

難関を突破した興奮と満足が去った2年生になると、この最高学府独特の排他と閉塞感が見えてくる。

学友はだれもが友好をよそおい、教授たちは平等に期待をよせるフリをする。

画商がさりげなく値踏みをし、有力なOBたちに実力プラスアルファをアピールする学生たちがいる。

たむろする集団や笑いさざめく声、クラブやサークルも当たり前ににぎわう。

だが、そこにはそこはかとなく虚構が漂っている。


 もちろん、努力をしないものは誰もいない。

変人やストイックな世捨て人、それらを装う者、独自の才能の啓発のために理解できないような修練を課す者がいる。

新しい表現、新しい技法、新しい価値創造、新しい、新しいが彼らの口癖だ。

AIと住み分けるために。

AIの及ばない自己を作り上げるために。

人間の人間による人間たる発露のために、彼らは俗物から故意に離れ、能ある天才であろうとする。


 自分はそれにはなじめない。

軽い話をする友達や笑顔を向けてくる女の子、ギャラリーや美術書関係者、マスゴミに紹介したがる教授たちもいる。

周りにはいつもだれかしらの目がある。

それにいちいち応えて行くのは堕落の始まりの気がするのだ。

 

 同じ油科の幡京(ばんきょう)ニッケルを夏休みの間中、1人で行こうとした海辺の別荘にさそったのはなぜだろう?

彼はボッチだ。

登校も移動も昼めしを食うのも。

たいてい、所在なくうつむいて地面を見ているか、軽いデッサンかクロッキーのために軟筆を動かしている。

鬱々とした焦燥と忸怩たる自己不信、その反動としての、表面に出さない驕慢と他者軽賤。

なぜかそれを好ましく感じたのは事実だ。


 彼は普段、変な関西弁を話す。

いや、それを聞くことはほとんどなく、授業や科内コンペで指名されてやっとボソボソした声で意見を述べる。

自信なさげに、時折、相手に迎合した語句すら挟む。

他者を傷つけたくないのか、あるいは自分が傷つきたくないのか?


 入学当初の一時期、彼の描いた油彩が教授たちの注目を集め、学内コンペでも好評を博したことがある。

「美術の手箱」という権威ある雑誌に紹介され、買い手の画商の影もチラチラした。

閉塞した美術業界は若手のスターを切望する。

初心者の陥りやすいワナだった。

彼の傾向は未熟なまま固定され、劣化した二番煎じを量産するようになった。

教授は苦虫を噛みつぶし、ギャラリーは首をかしげ、冊子の依頼もなくなり、マスゴミの足も遠のいた。

それでも一旦固定した画風は改善の気配がなかった。

が、彼は病んでいるわけでも怠惰に逃れていたわけでもない。

寡黙に絵筆を握り続けていた。

幡京ニッケルはそんな画学生だった。


          * * * *


 「バルビゾン派っていいよな」

いきなり問いかけられて、ちょっとビビってもうた。

ワイに話しかけられたと理解するまで、少しの間があったんは事実や。

「え…フォンテーヌ・ブロー?落選王の一派やろ?」

「あはは、当たり。テオドール・ルソーね。いいよな。『森のはずれ』。わたしは木々の声を聞いたってやつ」


 テオドール・ルソーは知らんわけやない。

19いう若さで官展に入選、その3年後にも入選作が買い上げになるいう順調な滑り出しやったお人や。

それが当時の保守的な画壇の嫉妬と中傷にさらされ、以後、15年の間、落選に次ぐ落選。

それでも結果的に名声を復活、晩年には万国博覧会の審査委員長の名誉に浴したん。

ルソーが若くして陥った不遇が、なんとなくワイに似とる思うは自惚れやろか?


 「いっしょにうちの別荘行こうよ。そこで制作三昧。夏休みの最高の過ごし方じゃね?」

屈託なく言われて、なんとなく承諾してしもうた。

別荘なんて、刑務所の隠語としか知らん。

現実にそれを所有している人間が同じ油科にいるだけで、もう負けた気がするんよね。

ドブネズミのワイの、知りたくても知れん世界やった。


 ほとんど話したことはないのんけど、他の科でも煌(あきら)んことは知っとる者もおるんちゃうかね?

教授たちも注目しとるし、話題に飢えとる美術界も貪欲な目を向けとる。

でも、親の七光りを使って、それらを抑え込めるとこが貧乏人のワイと違うところやで。

絵は確かに上手い。

けど、上手いだけなら、ワイもそうやし、ほかにも2,3いる。


 「不穏な色気がある」

どっかのギャラリーのオーナーの言葉や。

だが、ちゃう。

煌んのは狂気や。

それも自分の芸術性を宣揚し昇華し恒常化するための突発的熱情、露呈する本然的内面の本価としての狂気や。

キレイに言や、魅力ある異常性っちゅうやつやな。

悪く言や一種、病的言うこっちゃ。

そんでも、それがのうなったら煌やないん。


 構図や色、筆致の微妙な余白、あるいは狭間、ひょっとしたら痛点。

いや、テーマも含めて、そう言わなおれん微細なポイントに、煌は自身のドグマを打ち込むん。

狂態や不協和音や不整脈を放つ。

それによって絵が不思議に生きる。

だれにでもできることやないで。


          * * * *


 

 千葉県一の宮の別荘は目の前にラグーン(潟湖)が見渡せる。

高潮や津波を防ぐための白い水門が遠くに見えて、一種の点睛になっていた。

海抜1~2m程度の沼沢地のせいか、近隣に点在する別荘は数えるほどだ。

「鳥、いっぱいいるやん。鳥インフル怖い。夏やけど」

幡京ニッケルの第一声には笑えた。


 200坪の庭の一角にあった船着き場と広いウッドデッキの一部は、去年の台風で土地を削られ、ほとんどラグーンに突き出す形になっている。

3,11以降、千葉の海岸べりは地盤が沈下しているのかも知れなかった。

彼に話すと、

「あかんな。んな別荘は二束三文でええから早よ手放し。今度は山側がええワ」

という不動産屋みたいな返事が返ってきた。


 「ニッケルって、本名?幡京も?」

入学時からの疑問を問いただしてみた。

「…あ。うん…本名や。親父がつけたん。ニッケルはとてもおもろい金属なんやて。鉄より重くて錆に強い。アルカリにも侵されにくいんと。いろんな合金の素で用途は広いし、しかも空気中で微粒子になると自然発火するん」

「へ~」

「ま、おかしな名前かも…。でも、ガキんときはこれで面白がられてけっこう人気あったんよ」

「ふ~ん。TVでも珍名さんは話題性があるからね。幡京もはじめて聞いた苗字だし」

「ん…。ああ、まぁ」

彼は何となく言葉を濁して、そっぽを向いた。

自分のことにはあまり触れられたくないのだろう。

基本どうでもいいことだったから、すぐに話題を変えてやると幡京ニッケルはホッとしたようだった。

なにか仔細があるのかも知れなかった。 


          * * * *


 初体験の別荘はほんま、おもろかったで。

ワイは家庭の事情で、中・高と修学旅行にも行けへんかったから、友達といっしょに寝泊まりするなんて小坊以来や。

パントリーっちゅうらしい台所の物置な。

そこに備蓄してあるレトルトや缶詰、シリアルなんかを引っ張り出し、野菜果物、海産物なんかは夏の暑い中、チャリで町に買い出しに出る。

これがけっこう楽しいん。

行き帰りの広々とした田舎と海岸の風景はワイにとって目にしみるほど新鮮で、帰ってから思い出し描きしたりしたな。


 煌は意外に大酒飲みで、ネットであちこちの酒を買いあさっては届けさせるん。

品行方正に見えちょったんでちょっとブルッたで。

ワイは飲めへんし、アル中DVだった親父思い出して、やっぱ不快やったなぁ。

もちろん、口や態度には出さんけどね。

まぁ、クスリなんかやるのんより、はるかにええんやし。


 最初の十日くらい、煌はなにも描かんかった。

朝から晩までいちんち、ラグーンやその向こうの海、いくつか別荘のちらほらする大地とでかい空しか見ぃへん。

酒瓶片手にデッキにころがっとる所に行って聞いてみた。

「なにしとるん?」

「うん。声、効いてるんだ。いろんなこと言ってる。自然が」

「え?聞こえるのん?」

「うん。なんか、このところ機嫌が悪いみたい。8月は荒れるかも」

「は…?」

酔っ払いのたわごとと思うたね。

だって、毎日、澄んだ空と太陽、時折、軽い雷雨が通り過ぎるだけの上天気や。

健康的で陽性な、真夏の海辺の典型的な気候やで。

長期予報でも安定しとるゆうとるし。

髪が潮風でバサバサになるんが、多少、不快くらいやな。


          * * * *


 ニッケルはやっぱり勤勉だった。

軟筆を離したことがない。

もちろん、油科とは名ばかりだから、固定して油彩をやる必要はない。

彫刻でも映像でもやりたいものを追求していい。

でも、2人ともやっぱり絵に固執していた。

彼の作品はダーク系の抽象が多かったけれど、基本の鍛錬は欠かさなかった。

28畳のリビングを持つ3DKの平屋を転々としながら、描いて描いて描きまくる。

画帳はたちまち余白がなくなり、予備のものもあっという間に使い果たす勢いだった。


 そして確実に上手かった。

手堅く対象を把握し、澄みきった線は伸びやかで無理がない。

毎日の練磨に裏づけられた確実性の高い技巧には、まちがいなく他の追従を許さないものがある。

そう、粗削りな途中までは。

だが、完成品となると全く違ってしまう。

心地よさは影をひそめ、表現は定型化して枯渇し、色は濁り、迷いと猥雑な自己主張が鼻についた。

彼をここまでゆがめてしまうとは、学内コンペも罪なことをしたものだ。

いち度、言ってしまったことがある。

「きみの絵はドラクロアだね。デッサンは的確で手堅いのに、色をつけるとただの抒情詩だ」


 それでも、この別荘での制作はかなりプラスに作用した気がした。

「こんなでっかい空と海見たの、初めてって気がするんよ」

うれしそうにそんなことを言いながら、また鍛錬に励んでいた。

それが微笑ましくて、こんな切磋琢磨なら1年中やってもいいだろう。


「ねぇ、煌はん、なんも描かんといいの?」

遠慮がちに言ってきたのは、2週間が過ぎたころだろうか。

「描いてるよ。心や気持ち、目に描き付けてる」

「ふ~ん」

彼は釈然としない面持ちで軟筆を指で弄んだ。

「ま、やり方は人それぞれやから」

そう自分で納得してから「じゃましたん?ごめん」と言って離れて行った。


そんな感じでニッケルとの共同生活は過ぎて行った。


          * * * *


 毎日を楽しんどったワイが変わったんは、煌が突然描き出したころからや。

ラグーンに向かって半ば壊れたデッキの端っこに陣取って、そこでなにかしてるんよ。

お互いに過干渉は避けていたんやけど、気んなって行ってみた。

集中して描きはじめとったな。

小型のイーゼルに小さいF画布つっかけて、下塗りも下絵もせんし、ポイントすら打たん。

強い速乾性のペインティング・オイルで一気呵成や。


 目の前にはまだ午前中の潟湖が広がっていて、颯々と海風が吹いとる。

遠くの白い水門が点景や。

明るい広がりが心地いい反面、なんか物足りない。

そんな風景やった。


 煌はカドミウム系のちょっと濁った黄をそっと水門に置いた。

ほんのわずかや。

あと2~3箇所にもさりげなく塗り広げとったな。

補色の藍紫を強めると、ワイの目の前で絵が変わりよったで。

点景の水門が龍眼を開いたっちゅうかな?


 吹き過ぎるだけの風が蟠って、不穏な厚みを増してきた。

具象の、ちょっと傾しいだ感じの構図が現実風景を越えた存在感を付きつける。

間違いなく煌の絵やった。  

爽やかな夏風景に一抹の不安と胡乱と狂気が漂うん。

胸騒ぎの予感のように。

これがえろうそそるんや。


 はじめて完全完璧に負けた気がしたワ。

これは残念やけど修練で出来ることやあらへん。

多分、一生かかってもかなわんやろな。

煌こそルーブルに行く者や。

夏空の向こうへ行く者や。

悔しかった。

ワイはそん時ほんま、ヤツをデッキから蹴り落としたいくらいに思ったで。


          * * * *


 もう、8月半ばに入っていた。

房総沿岸部は夏の熱帯夜には縁が薄い。

たまに居間の暖炉に火を入れて窓を開け放し、燃える炎をデッサンしたりした。

煉瓦とタイルで飾った暖炉の上壁には、ゾーリンゲンの商標のようにぶっ違いにした2本のサーベルが掛けてある。

幡京ニッケルはそれに興味を持ったようだった。

いや、これにはたいていの客が関心を示す。

取り下ろしてチャンバラをしたいのだ。


 「ダメだよ。刃、つぶしてないから切れるよ」

軽く止めると、彼はびっくりしたようだった。

「ほんまもん?すげぇ」

そう言いながら、しげしげと見ている。

工芸品としても見事な細工だったから、物珍しいらしかった。

「潮風で痛むから半個形油が引いてある。ベタッとしていいなら、触っていいけど?」

言い足したが、彼は微笑しただけで手を出さなかった。


 かわりに、

「集中講義あるやん。出なきゃいけんかね?」

うっとおしそうに、こんなことを聞いてきた。

「あ?自己責任で休めば?おれは出ないけど」

「う~ん。ワイは煌はんみたいにアタマよくないから」

「別に、技術と感性と霊感あるからいいじゃん。今はスランプでちょっとアレだけど、ニッケルは絶対ふっきれると思うよ」


 慰めたわけでも小馬鹿にしたわけでも、上から目線でもなかったはずだ。

それでも彼は陰鬱に顔をゆがめた。

何か言いたそうに視線を泳がしてから、ボソッと言った。

「ワイ、在日やで。幡京ニッケルは通名なん」


 唐突になぜ、そんなことを言い出したのだろう?

沈黙が続いた。

この告白は正直言って不快だった。


          * * * *


 ま、煌が在日を嫌うんは、ワイでも理解できるワ。

日本で毎日起きる犯罪。

これは帰化、通名は日本人にみなされるだけで、本当は在日朝鮮人や。

しかも在日外国人の犯罪率の中でも在日朝鮮人は断トツやで。

2位の倍以上っちゅうのはやっぱ異常やワ。


 おまけに本来は日本人納税者のための生活保護な。

あれ、在日外国人のために門戸が広げてあるんやけど、その善意につけ込んで、もらわな損々と群がっとるのもおかしいで。

日本人のためのもんは日本人が利用すればええ。

日本人でもないんに、それに割り込むんはやっぱムリゲーやろが。

そりゃ、嫌われるがな。


 けど、言いたいんはそんなことやない。

朝鮮人には中国の奴婢奴隷やった歴史しかないん。

独自の文化すら構築することのできなかった屁垂れや。

自由民で世界に通じる日本文化っちゅうもんを創り上げた日本人には言ってもわからんこっちゃろうな。

だけど、これだけは覚えとき。

朝鮮人にあるんは怨念や。

選れたもの、美しいもの、正しいもの、優しいもの、そういった普遍的価値に対する反発憎悪、軽賤蔑視や。

ローマ法王は言い得てるで。

せや、「霊的に生まれ変わらん限り」消えない出生の呪いや。


 ええか。

朝鮮人は秀でた日本人が嫌いや。

歴史的家系をもつ、日本人らしい日本人を憎むんや。

朝鮮人の意識の中では今でも、日本人を殺せば英雄なんやで、煌。


          * * * *


 「自然が機嫌悪いっつうの当たったワ。台風来るで」

幡京ニッケルが言ってきた。

いつも通りの態度だ。

在日の件ではちょっと鼻白んだけど、自分も子供じゃないのでもう蟠りはなかった。


 この別荘にTVはなく、ラジオとスマホでデザリングしたPCだけだ。

さっそくチェックしてみると、静岡あたりを通過中の、中型で並の台風ということだった。

「大丈夫。去年の直撃でも庭先削られただけだから」

軽く返事すると、

「そうなん?なんか非日常ってワクワクするんよ」

と楽しそうだった。


 午後になると余波が届いて、雲行きは怪しくなり波も騒ぎだした。

2人とも俄然、忙しくなる。

雲の動きを追って、軟筆をスケッチブックに叩きつける。

せわしない光の移ろいに気分は高揚し、至福の時に没頭する喜びが指先を奮わせる。

願ってもない自然の演出だった。

やがて雲が厚くなるにしたがって風が吹きつのり、ぶち当たるような雨足がやってきた。

もう、外にはいられない。

リビングに引っ込んでスケッチやクロッキー、デッサンの点検をしたり、ざっと下絵を描いたり、次作の構想を練ったりした。


 「コース変わって、こっち来るってよ。速度も上がって韋駄天台風やて」

その報告も大して気にならない。

水門と堤防が海水の浸入を防ぐだろう。

それでも2人で手分けして家の雨戸を閉めて回った。

まだ、18時前なのに、そのころには辺りは真っ暗になっていた。


          * * * *


 「水位上がったな。今のうちに車で高台に行くか」

煌が言い出した時点で、ものすごい有様になっとったで。

ドドド、ドガガッという地鳴りと地震がミックスしたみたいんが波の音や。

ズゴゴゴゴ~ォウォォォォ~って怪獣めいたんが風の叫びや。

まだ、電気はついとったけど、時折点滅するところをみると近いうちに断線するんやろな。


 千葉も外房沿岸は特に風の強いとこって聞いたが、車庫の電動シャッターを開けたとたん周り中の備品が吹っ飛んだで。

情報収集のラジオとPC、毛布に水とちょっとした食いもん積んで、煌が車を出した。  

とたんにバッシャァッつう、湖にでも突っ込むような音や。

ゆるゆると慎重に町へ向かったけど、周り中、叩きつける雨と波立つ真っ黒な水や。

そうでなくとも少ない街灯がもう消えとったから、ヘッドライトだけではどこが道か沼沢か側溝かわからん。


 「だめだ、戻ろう。危険すぎる」

煌が決断して電柱を頼りに道を特定し、ゆっくり車を回す。

後にした別荘側から波が来てるから、バックだとマフラーに水が入ってエンストするんや。

ワイは助手席でなにもできへんかったけど、祈る気持ちやったで。

ヘッドライトからちょっと目をそらせばほんまもんの真っ暗闇で、なんも見えん。


 ガグンと衝撃で横に傾ぎ、ボブヮッてな音がしてエンジンが止まった。

「たぶん、側溝か潟に落ちたんだ。ウォーター・ハンマー。エンジン殺っちゃたなきっと」

マジ、目の前が暗ろうなったワ。

とにかくラジオとPCを毛布に包んでかかえ、ひざ下くらいの波に浸かって車を捨てたで。

土地勘のある煌が左手を伸ばして、探りながら先頭に立つん。

裏の家のフェンスが続いているらしいんよ。

にわかメクラになった気分のワイは、ただ、必死に付いてくだけや。

時折、フェンスに齧りつかないけんくらいの風が吹いちょったな。


 やっとたどりついた時には、濡れ鼠のクタクタや。

煌がどこからかランタンを持ち出し、アロマテラピーに使えそうなぶっといローソクにも火をつけてくれた。

夏なのにえろう寒かったで。

プロパンガスはまだ生きとったんで、3口のコンロを全開にして部屋を暖めたん。

びっしょ濡れでしづくの垂れてるスマホとPCはダメやったな。

かろうじてラジオはOKやったが、受信が心もとない。

一挙に情報弱者だワ。


          * * * *


 いきなり何かが家にぶち当たる音がした。

多分、デッキが高波に破壊されて、強風に叩き寄せられたのだろう。

雨戸の一部が変形してガラスが割れ、癇に障る音を立てながら雨水が吹きこんできた。

庭はラグーンから1,5m、土台はさらに60㎝ほど上げてあるけど、いざとなれば気休め程度だ。

間もなく、異様な軋み音を上げて床から水が吹き出しはじめた。

いよいよ床上浸水だった。


続いてコンロが奇妙な音を立てながら乱調子の炎を吐きだした。

裏のプロパンボンベになにか異変があったのだ。

危険だ。

ニッケルが飛びついて火を消し、元栓を閉めてくれた。

それにしても、たかだか中型台風くらいでこんなことになるとは。

今まで何事もなかったことへの、甘えと油断があったことは事実だ。


「もう、19時やけど、これから満潮かね?」

一緒にダイニングテーブルに逃れながら、彼が聞いて来た。

「あと、30分くらいかな?高潮さえしのげば、後は通り過ぎるのを待つだけだから。もう少しの辛抱じゃね?」

「うん。せやな。でも、波すんごいワ」

「大潮かもよ。それに満潮と台風の吸い上げとが重なったのかな。韋駄天台風はスピードがあるだけに潮の吹き寄せもすごいって」

その返事を聞くか聞かないかだった。


 瞬時に気圧が下がり、耳がキーンと鳴った。

部屋中がブリザードの中のようにグレーに濁り、そばのランタンとローソクが高速で吸い上げられるのが一瞬だけ見えた。

引きつり捩れるような空気音と、ねじ切るような破壊音、突風と潮の轟、叫ぶ怒涛が周り中を翻弄する。

2人とも壁のような旋風に水中に叩き落とされていた。

なにが起きたのか、それすら認識できない。

溺れながら死に物狂いで海水を掻くと、不思議なものが見えていた。


 月。

煌々とした十六夜の月だった。

いつの間にか台風の目に入っていたのだ。

別荘はすでに形をなしていなかった。

木造の壁は毟り取るように破壊され、屋根が間近に垂れさがっていた。


          * * * *


 ワイは泳げへんから、ものすごい恐怖やったワ。

煌が冷静に捕まえて、頭まで海水に浸かって押し上げてくれた。

壊れた屋根が見えた時、こんな必死になったんは前代未聞や思うくらい死に物狂いで這い上がったで。

びっくりするほど水位が上がってて、高波が寄せてるんで、煌が立ち泳ぎのようにジャンプしながら手を伸ばしていたな。


 ワイはその手を取って引き上げるべきやった。

いや、ほんま、そうしたんやで。

けど、屋根が脆すぎた。

煌が屋根の端をつかんだ途端、ベキベキと音を立てながら傾いたん。

怖かったで。

また、あの苦しい水中に落ちるんかと思うとしがみついたまま、もう手を伸ばせへん。


 「幡京っ、おまえっ」

その声は明らかに非難やった。

それでも、手ぇ出せへんかった。


 ワイはそん時、おかしゅうなってたな。

突然、頭に浮かんだんや。

このまま手ぇ取らんかったらど~なるかって。

海水に冷え切って真っ白になったヤツを突き離したままにしたらって。

怨念や。

秀でた、ワイが遠く及ばない日本人に対する本然的な嫉妬と憎悪や。

そしてそれを実行したん。

だけんど、英雄にはなれんかったな。


 結果、ワイは煌を見捨て、煌は瞬時にそのワイの心根を見捨てたんや。

煌はそのまま身をひるがえすと、果敢に波に身を投じたんよ。

反対側には煉瓦と漆喰とタイルの頑丈な暖炉が、竜巻にもやられんで残っとった。

そこを目指したんやが、あまりにも遠すぎたなぁ。

部屋の真ん中を流れる離岸流みたいに早い流れを越えられへんかった。

うねりに呑まれて見えんようなったんや。


          * * * *


 寒かったで。

夏やのに、ほんまに心底凍るようやった。

風に洗われて水銀みたいに無機的に光る月の下に、黒々としたうねりが幾重にもどこまでも続いとる。

まるで数千匹もの黒龍が蟠りうねり巡って、その背びれが白波となって上下しとるんに見えた。

壮絶な寂しい光景やったな。

煌もどこかを漂いながら、それを見とる気がしたで。


 東京藝大はある意味、怖い所や。

学業や自分自身について行けんようになって、休学や退学、放校に逃げる。

自信喪失や自暴自棄、羨望や嫉妬に駆られて優秀なやつに殺人予告して回る。

どこまで本気か知らんが、煌にはもちろん、一時期のワイにもそんなんが2~3ウロウロしとったワ。

そこまで行かんでも、選評やディスカッションで口をきわめた人格否定しかせんやつも多い。

毎年必ず、発狂や自殺、いや他殺すら匂わせる行方不明者が数人は出るんやで。

紙一重を越えてもうたヤツが、それに気づかれんと放置されとるガッコや。


 ほんま、人間の尊厳ってなんやろな?

人生の価値ってなんなのやろな?


 台風の目が通り過ぎて吹き返しがはじまった時、ワイはもうこれ以上、屋根にしがみついとられん気がした。

手指も肘も膝も足首も、全身の筋肉使って張り付いてんとこが硬直して思うようにならん。

波にあおられてズルッと海に落ちかけたまま、よう這い上がれへん。

あせったけど、どうにもならんもんはどうにもならんワ。


 不意にスコーンと抜けた青空が見えたで。

わけわからんかったけど、えらく気持ちんよくて、ワイは見とれてもうた。

夏空の向こうにだれかが見えとった。

ああ、煌やなと、姿かたちからすぐに見定められたワ。

せやなぁ、やっぱヤツは藝大生の切望する夏空の向こうに行ける数少ない学生やったんやな。

だけんど、今となっては羨ましくもあり、羨ましくもなしや。

ゴキブリのワイにはもう、あづかり知れん世界や。


 潮の引いた夜明けに、ワイは濡れ鼠で溺れた形で、のうなってるんが発見されたで。

そして、煌の身体は還らんかったな。


 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

 煌(あきら)=夏空の向こうで 上松 煌(うえまつ あきら) @akira4256

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ