第六章(3)
* * *
次の日の昼過ぎ。カイナが隊を率いて国から離れていくのを、ルチフはあのバルコニーから見届けた。『雪車』が国を離れ、白い世界へと消えていく。
ふと空を見上げれば、雲は厚く色濃く、風がこんなにも吹いているのに動くことがなかった。吹雪く寸前のような空で、『雪車』が丈夫といえどもルチフは少し不安を覚えた。
『雪車』の隊列が完全に見えなくなっても、ルチフはその場から動かなかった。やはり不安で、心細くて。村にいた時には、あまり感じられなかった心地に、ふと疑問を抱く。しかし気付く。これは血の繋がった家族であるカイナに出会えたからこその心地なのだと。
――大丈夫、無事戻ってくる。
カイナが強いことは十分に知っている。だからこそ、そう信じてバルコニーを後にした。
その時にルチフは気がついた。
「……消えてる」
バルコニーにある、あの赤い石の灯り。それが消えていることに。いままでは昼でも光が灯っていて温かかった。それが今日は、凍りついたように輝いていなかった。
玉の中を見れば、そこにあったはずの赤い石は、それこそ凍りついたかのように白くなっていた。と、ぽろぽろと崩れていく。ルチフが軽く玉を叩くと、石は風に吹かれた粉雪のように儚く散ってしまった――どうやらこの石にも寿命はあるようだ。永遠ではないらしい。
やはり不思議な石だ。カイナが戻ってきたら、もっとこの石について教えてもらおう――そう思い廊下を進んだ。さて、今日はこれからどうしたものか、と考える。
――その最中だった。
先の方が騒がしく、ルチフは足を止めた。数人が揉めているようだった。目を凝らしてみると、見知らぬ服装の兵士二人がいた。どうやら彼らと、ルチフももう見慣れたこの塔の兵士達が、何か揉めているらしい。
と、見知らぬ兵士の一人が、ルチフに気がついた。
「――いたぞ! 捕まえろ」
とたんにその兵士は、この塔の兵士を力尽くで払い、ルチフへ走ってきた。
油断していたルチフは何もできなかった。
「な、何だ……!」
剣に手を伸ばすこともできず、兵士に腕を掴まれたかと思えば、背で縛られる。
「放せ! 何なんだお前達……!」
もがいても兵士はルチフを放さない。引きずるようにどこかへと連れて行く。
「――やめろ! 勝手に塔に入ってきて! 一体何のつもりだ!」
揉めていたこの塔の兵士が、ルチフを捕まえた兵士に迫ろうとする。けれども、別の見知らぬ兵士が剣を抜き、その顔の前に切っ先を突きつけた。
「お前こそ何様のつもりだ! 我らはエンパーロ国王ロザ様の兵だ、見てわからないのか! この少年は連れて行く……これはロザ様のご命令だ、逆らおうものなら、反逆と見なすぞ!」
そう言われてしまえば、カイナの兵士達はもう動くことができなかった。それを見て、国王の兵士だという彼らは冷笑する。そしてルチフは連れられていく。
「放せ! どこへ連れていくつもりだ!」
どれだけもがいても、兵士から逃れることはできなかった。やがて先に光が見えてきて、冷たい空気が流れ込んでくる。
そこは塔の出入り口だった。この国の中心、王の塔へと続く渡り廊下が先に伸びている。
「一体何なんだ!」
叫んでも凍てついた空気に響くだけで、兵士はルチフを見ようともしない。ただ王の命令に従っているだけのようで、かつかつと進む。抵抗も虚しくルチフは引きずられていく。
――しかし、王の塔に入った直後だった。
背後で軽やかな足音が聞こえた。それと同時に鈍い音がして、後ろを歩いていた兵士が声を漏らして倒れた。
「何者だ――」
一瞬遅れて、ルチフを掴んだままの兵士が片手に剣を握り、振り返る。だが驚いて一歩退いた。そしてルチフも目を疑った。
「ベアタ様!」
――兵士の叫んだ通りだった。
……ベアタが、そこにいた。火のついていない松明を持って。
「ベアタ……」
その名を、ルチフは口にする。
間違いなくベアタだった。銀の長い髪は乱れているものの、繊細な編み込みがされていた。青いドレスは汚れていたものの、それでも輝いているようで、美しさにルチフは目を見張った。
まさにベアタは「王女」だった――だがいまは、そう思っている場合ではない。
「何故ここに! 昨日、牢に入れたはずなのに……」
兵士の虚をつかれた言葉。それを聞いてルチフはさらに驚いた――牢。ベアタは王女であるから、ひどいことはされないのではなかったのか。
「まあいい。ちょうどよかった……あなたも地下に行きましょう……」
兵士はルチフを突き飛ばし、剣を構えてベアタへと迫った。床に転がったルチフは手を縛る縄を解こうとするものの、縄は鉄のように固かった。
「ベアタ! 逃げろ! そんなのじゃかなわない!」
だから叫んだものの、ベアタは逃げようとしなかった。兵士と対峙したまま、松明を固く握りしめている。と、兵士の剣が風のように動いた。
とっさにルチフは目を瞑り、顔をそらした。
それはベアタも同じで、風を切る音に身をこわばらせた。だが痛みがないことに気付いて目を開けると、手にしていた松明が、その手の上ぎりぎりで切り落とされていた。
――その隙に、ベアタは兵士に腕を掴まれてしまった。
「嫌! 放して!」
その悲鳴を兵士は聞かず、ルチフ同様に、ベアタの手を縛ろうとする。
「やめて!」
ベアタの悲鳴が、ルチフの耳を貫く。
「やめろ……」
そう漏らしたルチフの声は、怒りに満ちていた――兵士はベアタを縛るのに忙しく、ルチフが縛られたままでも立ち上がったことに、気付けなかった。
「――やめろ!」
起き上がったルチフは、勢いのままに兵士の背に体当たりした。どん、と鈍い音。ベアタのかすかな悲鳴。兵士もルチフも、ベアタまでもが床に倒れ込む。
すぐに起きたのはベアタだった。
「ルチフ!」
「剣を! 俺の縄を切ってくれ!」
言われてベアタは、すぐにルチフの剣を抜いた。慌てながらも、その刃で縄を切る。
手が自由になり、ルチフは両手をついて立ち上がった。そしてベアタから剣を奪い取るようにして返してもらうと、いままさに起き上がろうとしている兵士の足に、切っ先を突き刺した。
兵士が悲鳴を上げ、痛みにまた床に伏せる。ルチフは素早く剣を足から抜くと、鞘に納めた。
「こっちよ!」
と、ベアタが手を引く。ベアタは廊下を走り、ルチフも手を引かれるままに続いた。
ある一室の前まで来ると、ベアタはその中に入り、ルチフも入れば二人は部屋の奥に身を潜めた。どうやらそこは、物置部屋のようで、少し埃っぽく、様々なものがあった。
扉の向こうが騒がしい。ルチフは自然と息を殺し、外の様子に耳を澄ませた。何が起きているのかはわからないけれども、よくないことが起きているのは、十分にわかった。
けれどもやがて、外は静かになって。
「……」
隣に立っていたベアタが、まるで貧血でも起こしたかのように、ふらふらと座り込んだ。
「大丈夫か?」
すぐさまルチフは寄り添った。ベアタは目を開いているものの、まるで何も見えていないかのような状態で、ひどく疲れているようだった。けれどもルチフに向けた目の青さは、かつてと何一つ、変わっていなかった。
「ええ……大丈夫」
その青い瞳が揺れる。
「ルチフ……」
温かい涙が溢れた。それはあたかも光そのもののように美しく、白い頬を伝って床に落ちた。
「ルチフ……! 会いたかった……!」
涙を流れるままにして、ベアタはルチフに抱きついた。
――懐かしい温もりが、身体へ染み渡る。そのにおいも懐かしく愛おしく、たまらなくなってルチフもベアタを抱きしめた。こんなにも愛おしいのに、強く、壊してしまいそうなほどに。
「ベアタ……! 俺も、会いたかった……!」
声は上擦ったが、構わなかった。
ただただ、抱きしめ合う。互いがそこにいることを、会えたことを確認するかのように。もう離れないというように。
ベアタの温かい涙を、ルチフは黙って受け止めていた。ルチフの青い目も波打ったが、決して涙は流さなかった――いまはただ、ベアタにもう一度会えたことが嬉しくて、温かさに溶けるように微笑んで、ベアタを感じていた。
「ずっと、見てたの。あなたがカイナのところにいると聞いて。ずっと、会いたかったの……」
ベアタの声は弱々しく、しかし甘く、幸福に溢れていた。
「俺も、王の塔にベアタがいるって聞いて、見てたんだ。お前が、見ているような気がして」
ルチフが囁き返せば、愛した青い目はすぐそこにあった。
「ずっと、会いたかったんだ……ごめん、会いにいけなくて。でも……会いたかったんだ」
顔を近づければベアタの涙にルチフの頬も濡れる。それでも構わなかった。
――しかし。
……扉の向こうから、何か騒ぐ声が響いてきた。すぐさま二人は身構える。
「……逃げなきゃ、何がなんでも」
静かに、そしてしたたかに、ベアタは口にする。
「お父様が、私達二人を捕まえるよう、兵に命令したみたいなの……」
「……何でだ?」
ルチフが尋ねても、ベアタはすぐに答えてはくれなかった。何か言いにくそうに俯き、かぶりを振る。銀の髪がまた少し乱れた。やがて答えてくれた。
「――死者を食べるなんて、悪魔だって」
ルチフは愕然として、顔を青くした。
……確かにケイが言っていた。死者を食べることは、普通ではないかもしれないと。
しかし悪魔だ、なんて。魂を受け継ぎ、生きていくためのものなのに。
だが――もしその事実を知られたのなら、大事になる予感はしていたのだ。
この国の人間であるベアタが最初、驚いたように。
――だからルチフは、カイナにも、そのことを言っていなかった。
「ルチフ、逃げましょう。この国にいては危険よ……」
ベアタは頬の涙を拭う。
けれども、人喰いのことが王に知られたのならば。
「村のみんなは? みんなは……どうなるんだ?」
自分達がこうして狙われているのだ。ベアタでさえも。村人がただですんでいる訳がない。
チャーロの笑顔が脳裏をよぎった。ケイの厳しくも皆を見つめる表情も思い出される。それから村の人、それぞれの顔が思い浮かんでは、消えていく。
「……もう、間に合わないかも」
だが、ベアタの小さな声は、冷酷だった。
首にナイフを突きつけられたような感覚を、ルチフは覚えた。ベアタはか細い声で続けた。
「……昨日の夜、私は牢に入れられたの。その時に聞いたの……オンレフ村の人は、もう全員地下に連れて行ったって」
「地下……? みんな、地下にいるのか?」
ならば助け出さなければ、と、ルチフは立ち上がろうとしたものの、ベアタの白い手が、ルチフの腕を掴んだ。
……その冷えた手は震えていた。ここは寒い場所でもないのに。
「ベアタ……?」
その時ルチフが見たベアタの顔は、まるで。
――世界で一番恐ろしいものを見たというように、恐怖した顔だった。
「どうした……」
ルチフがそっと抱き寄せると、ベアタは倒れ込むように、その腕に抱かれた。
それでもベアタの震えは止まらない。
――思えば、何故ベアタは国を出たのだろうか。その理由をまだ知らない。
「ごめんなさい……」
ふわりとベアタはルチフから離れた。そうして、無理矢理に笑顔を作ったのだった。
「もしかすると……まだ間に合うかもしれない。まだ大丈夫かもしれない……」
震える足で立ち上がる。しかし決意したように、すっくとベアタはそこにいた。
「行きましょう、地下に……『薪の石』生成所に」
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