第五章(5)
懐かしい、とはまた違う感情に目を見開く――初めての感情だったかもしれない。
「あの老婆……ケイからお前の話を聞いた。何故、お前があの村にいたのか」
ゆっくりとカイナの腕が解けていき、ルチフが顔を上げれば、カイナはまだ憂いが漂うものの微笑んでいた。
少し怖いと、ルチフは感じていた。十五年経ったいま、やっと話をされるのが、恐ろしくて。
けれども、安堵とも何とも言えない感覚もあったのだ。
――カイナは、おそらく。
「……あんたは、まさか」
ルチフの声は震えていた。
その瞬間は、想像していたよりも――幸福に胸がざわついた。
カイナは言う。
「私はカイナ……お前の叔父だ、ルチフ。お前の父は、十五年前にお前と妻を連れてこの国を去った、私の兄だ」
その言葉が胸に染み込んでくるようで、ルチフは息を止めて、瞬きをした。
簡単に信じたわけではなかったが、喉の奥に痛みを感じた。まるで言葉や悲鳴がそこで焼けてしまっているかのようだった。唇が震える。
……カイナは、同じ剣を持っていたのだ。
――一人だと思っていた。もう血の繋がった家族、同じ血の流れる家族はどこにもいないのだと、思っていた。
――ネサやケイやチャーロ、村の人に「お前も村の一員で家族だから」と言われたけれども。
――それでも一人だと、思っていたのだ。
「お前の剣は、お前の父が持っていた剣だそうだな……それは、私の兄で間違いない」
何か聞きたいのに、声が上擦るのや涙を押さえるのにルチフが必死になっていると、カイナが目線を合わせるように屈んできた。瞬間、さっとルチフは顔をそらした。泣き出しそうになっているのを見られたら負けだ、そんな気がした。
「先程、身分差の話をしたな? お前の父は、十五年前に……召使いの女性と恋に落ちたのだ……私達騎士、貴族にとって、下の身分である召使いと結ばれるのはいけないことであるのに」
だがカイナは気に留めず、慈しむように笑いかけた。
「それでも二人は結ばれてしまい……子供まで授かった。その子を、二人はディータと名付けたが……それがお前だ、ルチフ」
だからカイナは「ディータ」と呼んだのだ――それが本来の、名前だったから。
そしてわかったことがもう一つ。
「……結ばれたのが、許されないから……と、父さんと母さん、は、ここを出たのか……?」
ルチフのその問いに、カイナは深く頷いた。少し躊躇った後に、
「いつまでも人々に隠してはおけなかったのだ。どんな罰が与えられるかわからない上に……まだ赤ん坊とはいえ、お前もどんな目にあうかわからない……だから二人は、国を出たのだ」
そして二人は、赤ん坊を連れて凍てついた世界をさまよい歩き、オンレフ村の近くまで。
けれども二人はそこで。赤ん坊だけが、間に合った。
――ここが、故郷。
実感は全くなかった。ルチフにとって、ここはまるで別の世界のようだった。
しかしカイナは確かに……自分と顔が似ていた。同じ剣を持っていた。
――同じ血の通った温もりを、感じた。
育て親のネサに抱きしめられた時とはまた違う、温かさ。
「二人のことは残念だった。けれどもお前は……無事にここまで、育ったのだな……しかしまさか、あんな場所で出会うなんて」
カイナは目を伏せる。
「本当に……よかった。こうして会えて……本当に嬉しい……この世界はなぶるように命を奪っていく、もう……もう、いないと、私は思っていたのだ」
けれども彼の表情は、険しさを帯びる。
「……しかし、まだ安心はできない。お前がここにいることを、よく思っていない人間もいる。お前は国の外で育った人間でもあるし……国の決まりを破った人間の子でもあるからな。無理を言って、なんとか私の塔まで連れてきたが……何か仕打ちを受けるかもしれない」
お前に罪はないのに、とカイナは苦い顔をした。
「私の領地区画、この塔内なら、よその者に好き勝手はさせない……だからルチフ、先程の身分の話もあるが……まだお前をこの塔から出すわけにはいかないのだ。ベアタ様はもちろん、村人達にも、会わせるわけにはいかない……他の貴族や騎士の間で、お前のことはもう噂になっている。目立ったことをしてしまえば……」
だがカイナは、改めてルチフを抱きしめた。
熱いほどに、カイナは温かかった。
「それでも、もし何かあったときは……私がお前を守る。お前は……私の家族なのだから」
* * *
ルチフとの会話を終えて、カイナは部屋を出た。
それからしばらくの間、カイナは扉の前から動かなかった。立ち止まったままうなだれ、やがて悩み果てたように深い溜息を吐く。
――家族だと言われて、こちらを見上げたルチフの顔を思い出していた。
――同時にベアタや、村人を心配して怒鳴る彼の顔も思い出していた。
「……すまないルチフ。それでも……お前だけは守る」
その声は誰にも届かない。
「ここにいれば、私がお前を守れる。どうか……近くにいてくれ」
やがてカイナは静かに歩き出した。廊下の途中にいた召使いの女が、主に頭を下げる。その召使いに、カイナは、
「――全員に伝えてほしい、彼をこの塔から出さないように、と。それから、よその騎士や貴族を、彼の部屋に近づけないように」
召使いは黙って聞いている。そしてカイナは、少し苦しむように考えた果てに、
「もし、彼が村人達はどこか、ベアタ様はどこかと聞いても、答えてはならない。そして……『薪』や『薪の石』について、一切教えないように。全員に伝えろ、急げ」
召使いはまた頭を下げると、どこかへと急ぎ足で去ってしまった。
* * *
――家族が、いた。
カイナがいなくなって、ルチフはしばらく動けなかった。扉をじっと見つめていた。
やがて、糸が切れたようにふらつき、そのままベッドに倒れ込んだ。
――あの男が、俺の叔父?
――俺の父さんは、あいつの兄?
――俺はここの人間だった?
カイナの温もりを思い出して、毛布を握った。まるで冷たくない雪のように柔らかくて、顔を埋めると、まだ心臓が速く打っていることに気がついた。そして、頭の中がまるで暴走しているかのように熱いことも。
「俺は……」
思わず声を漏らしたものの、それ以上声が出なくて、また毛布に顔を埋める。
どうしたらいいのか、わからなくなっていた。
自分こそが血の繋がった家族だと言った、カイナ。
……まだこの世界に家族がいたのだという喜びがあったが、不信感は拭えなかった。
……そう簡単に、信じられるわけがない。
しかし、カイナの先程の顔を思い出す――慈愛に満ちた顔。その温かさ。
――俺は、もう、本当に一人じゃないんだ。
家族が、いたのだ。
身体にはカイナの温かさが残っていた。染みついて、決して簡単に消えそうにない、温かさ。
戸惑いはあるけれども。それでも確かに。
……もっと話したかった。
どうしてあの時、聞かなかったのだろうか。自分の父親と母親のことを。この故郷である国のことを――やっと出会えた家族であるカイナ自身のことを。
どうしてあの時、話さなかったのだろうか。いままでの自分のこと。育て親や村人に大切に育てられたこと。それでも寂しさが拭えなかったこと。ずっと――自分が何者であるのか、存在していていいのか不安であったこと。
しかし。
――ベアタや村のみんなは、本当に無事なのか?
新たに湧いた不信感に、何かに締めつけられるようだった心が、淀み膨らむ。
無事だとカイナは言っていたけれども、やはりやり方は強引だ。本当に無事かどうか、わからない。その上、カイナは国の考えについて、村人やケイは理解したと言っていたが、こんな強引な奴ら相手に皆は親しくするだろうか。
村人は皆、温厚で命を尊ぶ。自分やベアタ、見た目の違う人間でも、同じ人間だからと受け入れる――それでも、自分達の意思に関係なく、村から引き離されてしまったのだ。
チャーロやケイ、村の皆に会いたくて、ルチフは堪らなくなった。一体どうしているのだろうか。何を思っているのだろうか。
ベアタにも会いたかった。
……ところで。
――どうしてベアタは、村に?
ベアタはこの国の王女だった。それがどうして、オンレフ村の近くに。
――身分差? 国の決まり?
結ばれたことが許されないから、自分の両親は国を捨てたのだと、カイナは言っていた。
だがベアタにそんな様子は見られなかった。過去を一切話したがらなかった、ベアタ。
わからないことだらけ。混乱することばかり。
そもそもこのエンパーロという王国についても、よくわからない。大きな群れになるために、人を集めていると言ったが、妙なところだ。
しかし……改めて見たカイナは、そう悪い人間には見えなかったのだ。
――誰かに、助けてもらいたかった。まるで雪の中に沈み込んでしまったようで。もがいてももがいても、沈むばかり。そのうち息ができなくなりそうで。
夢なら覚めてほしかった。だが、このまま夢を見ていたい気持ちもあって。
「………」
―――――気がつけば。
窓の外は暗くなっていた。夜になっていた。部屋が明るいままだったため、ルチフはそれまで気付けなかった。
身体をゆっくりと起こしてテーブルを見れば、一口もつけなかったティーカップと、この部屋の鍵があった。
そういえば、カイナは言っていた、この塔内なら自由に歩いても構わない、と。
……少し考えてルチフは部屋の外に出てみることにした。
わからないことだらけなのだ、このまま部屋の中にいてもよかったが、外に答えがあるかもしれない。それに、村人やベアタにはまだ会わせられないと言われたが、もしかしたら。
まるで盗みに入るかのように、ルチフはそっと扉を開けて廊下を見回した。廊下には誰もいない。あの女も、剣を持った兵士もいない。
足音を殺して、ルチフは外に出る。室内が昼のように明るいのが、不思議だった。どこへ行こうかと思い、とりあえず適当に進んでみる。逃げ回り走っていた時、ここが異常に広い場所だと痛感した、部屋に戻れるだろうかと、少し気にしたものの、角を曲がった。
そこで、銀髪の女にぶつかりそうになった。
瞬間、ルチフは身を引いて目を丸くした。女も驚いて目を丸くしていたが、
「も、申し訳ありません……」
と、頭を下げる。ルチフは何も言えないまま、固まっていた。女は首を傾げ、
「カイナ様をお探しでしょうか?」
少し反応が遅れて、ルチフは無言もまま、首を横に振った。すると、女は続けて聞く。
「では、何かお探しでしょうか?」
だがルチフは、人見知りをする幼い子供のように、何も言えなかった。ただそっと下がると、そのまま逃げ出すように女に背を向け、別の廊下へ進んだ。早足で、俯いて。
――慣れない。
進む中、分かれ道に出て、片側の廊下の先を見れば、兵士達が見えた。反射的にルチフは逆の道を選ぶ。塔から出なければいいと言われたが、どうしても、びくついてしまう。
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