第三章(5)


 * * *


 ……死ぬ、という感覚が、どういうものなのかは、わからない。

 死体が燃やされなければ魂は凍りついて、この凍てついた世界に永遠に閉じこめられたままになるというが、それも、どういう感覚なのだろうか。

 ――凍りつくような感覚? 永遠の苦痛?

 けれども、誰かが魂を受け継いでくれたなら。

 ……温かい、のだと思う。

 だがいまは、何も感じられなかった。何も。何も。何も――。

 ――いや。

 ――ひどく、冷えるな。

 唐突に寒気を感じた。ぶるりとルチフは身体を震わせた。とたんに足が痛んで眉を顰める。

 それでも――生きている故の痛みだった。

「……」

 目を開けると、火が消えた焚き火が見えた。粉々に砕け散った鞘は、もう炭と化していた。

 ――そうだ、俺は……。

 徐々に記憶を取り戻していく。そこで気がついた――冷たい何かが、寄り添っている。手を誰かに、握られている。

 ベアタだった。手を握ったまま、目を瞑っている。

 ……その手はまるで、氷のように冷たくて。ベアタ自身も、温度がないようで。

「ベアタ……?」

 まるで自分がベアタの体温を奪ってしまったようだった。

「ベアタ……!」

 その頬に触れる。冷たかった。ベアタは目を覚まさない。凍りついたように、目を開けない。

 それでも。

 ――息を、してる。

 ゆっくりと、ルチフが自分の顔をベアタの顔に近づけると、吐息を感じた。

 生きている。二人とも。

 と、ベアタの瞼が震えた。やがて、青い目がわずかに開かれた。どこまでも深く、清らかな青色。それでも弱っているかのような、力のなさ。

「――ル、ルチ、フ」

 あの耳に心地よい声はかすれていて。

「私……死ぬ、のかな……」

「何を……!」

 ルチフが外を見れば、明るかった。もう吹雪いてはいない。恐らくだが、一晩で吹雪は止んだのだ。そして夜も明けた。ならば。

「村から助けが来るはずだ……弱気になるな、しっかり……!」

 あたかも自分のものではないと思えるほどに重い身体を起こし、ルチフはベアタを抱き寄せた。ひどく冷たい。こんなになるまで、寄り添っていてくれたのか。と。

「――いいよ」

「……?」

「――食べて、いいよ」

 ベアタは、目を瞑っていた。

「私……ルチフに、なら、食べられても、いい……」

 何を言い出すのだろうか。もう吹雪は止んだのだ。夜も明けたのだ。互いに怪我をしているとはいえ、助けが来るはずなのだ。

「しっかりしろ、ベアタ……もう少しの辛抱だろうから……!」

 ルチフはさらにベアタを抱き寄せる。そのベアタの胸元で、あの赤いペンダントが光を反射する。すると、ベアタは、

「それから……この石を……」

「ベアタ!」

 言わせてたまるか。言わせてしまえば、そこでベアタが死んでしまう気がして。

 死なせるわけには、いかない。

 ただただ強く、ルチフはベアタを抱きしめた。完全に力は出なかったけれども。それでも。

 自分の額を、冷たいベアタの額に押しつける。冷気が体内に入ってくるようだった。それでも、彼女が温かいと感じてくれるのなら。

 だが、このままでいるわけにはいかない。

「――外を見てくる。誰かが近くまで探しに来てるかも」

 そっと額を離して、ルチフは手も離そうとする。

 しかしベアタは手を離そうとしてくれなかった。だから。

「大丈夫だ、すぐ戻ってくる……少しの間だから……」

 そうしてそっとルチフが離れると、ベアタはぼうっとした瞳をゆっくりと閉じた。

 ルチフは痛む足を引きずりつつ、外へと向かった。身体は重く、まだ意識ももやがかかっているような気がした。それでも外に出ると、全ては真っ白に染まっていた。何もないように思えたが、目が慣れてくると、いつもの曇り空が天に広がっているのが見えた――雲の様子から見て、しばらくの間は、雪が降ることはなさそうだった。

 真っ白な世界を見回す。そして村のある方角を見つめる。見えないものの、どこに村があるのかはわかっているのだ。ただ距離がある。気候はかなりいいものの、今の状態のベアタを連れて歩くのは難しいし、それ以前に自分も歩けるかどうか怪しい。狼だって、いまこそ姿は見えないものの、どこにいるかわからないのだ――。

 そこで、白い世界で何かが動くのが見えた。白い世界で、その白に溶け込んだ何かが、動いているような。あれは。

 正体に気付いて、ルチフは被っていた黒い帽子をとって旗のように振った。

 ――白い奴なんて、自分とベアタ以外に、一人しか知らなかった。

「チャーロ! ここだ! チャーロ!」

 ルチフ――! と、返事が聞こえた。チャーロも白い帽子を取って振ると、黒髪の頭が雪原に現れた。途中雪に足を取られ転んだものの、チャーロはルチフに駆け寄ってくる。

「ルチフ! ルチフ……! ばあちゃんの言う通りだった! 洞窟かもって!」

 顔を赤くしたチャーロが目の前までやってきて、ルチフも寄るものの、足の痛みに倒れそうになった。だがその身体をチャーロが支えてくれる。そしてチャーロは怪我に気付いたようで、

「怪我してるの? ああ、しっかりして! とりあえずこれ、気付け薬! 身体も温まるから!」

 そうして小瓶を手渡してきたものだから、次にチャーロが「ベアタは?」という前に、ルチフは洞窟の中へと戻っていった。そしてもらった気付け薬を、まずはベアタに飲ませる。

「ベアタ……飲んでくれ。変な味がするかもしれないけど……」

 蓋を取り、血の気のない唇に瓶を当てた。抱き寄せたベアタはぼんやりと目を開けていて、瓶を傾ければ時間をかけて飲んでくれた。

「……ベアタも怪我してるの!」

 洞窟の中に入ってきたチャーロが、心配そうに顔を歪めた。

 薬を全て飲み終えて、ベアタはまた眠るように目を瞑った。チャーロは「じゃあ、これはルチフが飲んで。ルチフも飲まないと」とまた小瓶を取り出してルチフへと渡す。ルチフはベアタを抱いたまま、口で蓋を取ればそれを身体の中に流し込んだ。

 チャーロは洞窟の外まで戻ると「おーい!」と声を上げ両手を振った。

「ここ! ここにいたよ! 二人とも怪我してる――でも大丈夫、二人とも生きてる!」

 ――二人とも生きてる。

「……大丈夫、助かったんだ」

 ルチフはベアタに囁いた。わずかだが、ベアタが頷いたように見えた。

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