第三章(4)


 * * *


 たどり着いた洞窟の中には、冷気が居座っていた。だが吹雪の外よりはずっと安心できる。

 幸いにもまだ火を灯していたランタンで、ルチフはベアタを連れて、暗闇を照らしながら中へ入っていった。そうして吹雪がもう届かないところで、ついにルチフはベアタから手を放した。するとベアタは力が抜けたように座り込み、ルチフも怪我の痛みに声を漏らしながら座り込む。血に染まった足は動かせるものの、まだ出血が止まっていなかった。

 けれども先にやることは。

「腕を見せろ、手当をしないと」

 そうベアタに言い、ルチフは自身のマフラーを外す。

「……嫌よ」

 だがベアタは、腕を押さえたまま、きっと睨む。憎悪も混じった、青い瞳。

「あなた達も国と同じ!」

 その声は、怒りだけではなく、絶望も混じった声だった。ランタンの火が揺れる。

「人間なんかじゃない!」

 ――やっと同じ人間に出会えたのに。

 ルチフはまるで言葉を呑み込もうとするかのように、唇を噛んだ。

 ……一緒にいたいと、思ったのだ。

 だからこそ。

「手当をするんだ……腕を。出血で死ぬぞ」

 だからこそ、何もしないわけにはいかなかった――ベアタの出血は、自分と同じくひどい。

 少し戸惑って、ルチフは剣を腰からはずし、鞘から抜けば傍らに置いた。

 ……これしかないのだ。今はとにかく、共に生き残る手段をとらないと。

「私が死んだら、モルさんみたいに食べるんでしょ!」

 ベアタの甲高い声がまた洞窟に響いた。ベアタはいまにも立ち上がり、吹雪の中に消えてしまいそうだった。

 それが、怖かった。

「……お前が望めばそうする。望まないならそうしない」

 冷静を取り繕ってルチフは答える。そうして剣の鞘を掴んだ。細かな文様が描かれた、木製の鞘――死んだ父親が持っていたという剣の鞘。形見。

「お前が食べてくれと望んでも……食べるか食べないかは、残された者の意思にゆだねられる……それが決まりだ」

 あたかも震えを押さえ込むかのように、ルチフは鞘を握った。

「何よ決まりって!」

 ベアタの顔は恐怖にひきつっていた。さらに声を荒らげる。

「それで? 私を生かして将来食べるつもりだったんでしょう? 家畜みたいに!」

「違う……ベアタ、ちょっと落ち着いて話を……」

「だから私を村に受け入れたんでしょ! 食べ物が増えたって! 家畜が増えたって!」

「――違う!」

 瞬間、ルチフは怒鳴るまま――鞘を振り下ろした。鞘は大きな石に当たり、砕けるように、折れてしまった。

 ……形見の剣の鞘。

 けれども、そうこう言ってはいられない状況なのだ。

 ――命には、代えられないから。いくら大切なものだと言っても。

 ベアタが息を呑み、黙り込む。最初の一瞬こそは、突然の暴挙に出たルチフに怯え驚いていたものの、

「――その剣……その剣の鞘は……あなたの、大切なものなんじゃないの……?」

 ……ベアタが、この剣と自分について、何を知っているのかは、知らない。

 けれどもその通り、剣はもちろん、鞘も、ルチフにとって大切なものだった。形見だった。

 折れた鞘。砕けた美しい文様。ルチフは食い入るように、それを見つめた。無惨な姿になってしまった形見の一部。血の繋がった両親から遺されたもの。

 目が熱くなってきたか思えば、視界がぐにゃりと歪んで、ルチフの表情も歪んだ。

 ……大切なものだったのだ。

 ――だが命より大切なものはないから。そして大切な人がいるから。

 幸い、ルチフの顔は髪で隠れていた。

「……洞窟に逃げ込んだところで、この寒さじゃ、どのみち死ぬ」

 瞬きをすると、視界は元に戻った。

 鞘の破片が胸に刺さったような痛みは、元に戻らなかったけれども。

 それでもやってしまったのだ。ルチフは割れた鞘を一カ所に集めると、欠片の一つを手にし、ランタンの火へと近づける。欠片が燃え始めると、その火を鞘の残骸へ移す。

 少しして、小さな焚き火ができあがった。

 ――鞘しかなかったのだ。下手に衣類を燃やすわけにもいかない。

 洞窟の冷気が、熱にゆっくりと溶けていく。

 ……燃えていく、形見の残骸。

 ――だいぶ脆くなっていたのだ。それこそ、石に思い切り叩きつければ割れてしまうほどに。

 ……だから、ここで割らなくても、いずれ壊れていたと、自分自身に言い聞かせて。

「……手当するから、腕を見せろ」

 もう一度、深呼吸をしてからルチフが言うと、しばらくしてベアタは腕を差し出してくれた。

 ベアタの怪我は、出血のひどい傷だった。くっきりと狼の歯の跡が残っていた。しかし肉がえぐり取られるようなことにはなっていなかった。

 ルチフは、手にベアタの血がつくのもいとわず、その腕にきつくマフラーを巻いた。マフラーは赤く染まってしまったものの、これで応急処置はできた。

 ベアタの手当を終えて、やっと自分の足の怪我の手当に取りかかる。こちらも出血がひどい。蝕まれているかのように痛む。破けたズボンを手で引き裂くと、それで応急処置をした。布が足りなければ、さらに服を裂いた。仕方がなかった。

 そうして、全て終えて。

 ルチフはぐったりと、壁によりかかった。

 ……だがやるべきことは、まだ残っていた。

 ふと思い出し隣を見れば、ベアタは膝を抱えてうずくまっていた。

 乾いていた唇を舐めて、ルチフはやがて、口を開いた。

「……何の説明もしないで、モルさんの、人の肉を食わせて、本当に悪かった」

 ――遠くにある、他の村ではしないと聞いた。昨日まで会話していた人間を、食べるなんて。

 忌むべき行為だと思われていると聞いた。昨日まで生きていた人間を食べるなんて。その上、本来人が死んだなら、その死体を全て燃やし、魂を天に昇らせなければいけないのだから。

 村の外から来たベアタが驚いてしまうかもしれないことは、十分にわかっていた。

 ……それが、これほどにショックを与えてしまうなんて。

「意思を尊重するべきだった……食べるか食べないか聞くべきだし、説明するべきだった……チャーロを許してくれ……あいつは、善意だったんだ」

 ルチフはそう言うが、ベアタからは返事がない。聞いているのか、いないのか。

 焚き火の爆ぜる音が洞窟に響く。外の吹雪の騒音は、遠い。

「……どうして死者の肉を食べるの?」

 と、ベアタがゆっくりと顔を上げた。青い瞳に焚き火が映り、赤い炎が踊っていた。しかしベアタの顔は蒼白で、夢を見ているようだった。

「……この世界に、残されたから。魂を吸収して、共に生きるため」

 ルチフは何もない天井を見上げた。焚き火の光が届かない場所。

「食べることによって、死んだものの意思や力を受け継ぐ。それが村の考えだ。それは人間も同じで、死んでも、魂を残された人に渡すことで……共に生きていけるんだ」

 死んでも共にいるために。死んでも力になるために。

「だから……葬式では、身体の一部をみんなで食べる。死者がそう望んだのなら。そして残された人々もそう望んだのなら……残されたのだからこそ……」

 望んだからこそ。望まれたからこそ。

 残したからこそ。残されたからこそ。

 決して、死んだから食べようという、単純な話ではないのだ。それを知ってもらいたかった。

「魂の一部は天へ。魂の一部はこの世界に残し、みんなの力に……互いに互いの命が尊いからこその、この村での、魂の紡ぎ方だ……」

 焚き火は明るく温かいものの、身体はなかなか温まらない。

 外では相変わらず吹雪が騒がしく、死の白色に染まっている。

 ――こんな世界だからこそ。

 ……だから、ネサの肉も、ルチフは食べたのだ。

 ――ベアタは、理解してくれるだろうか。

「……でも人を食べてるのよ。昨日まで生きていた同じ人を……。獣じゃ、ないのよ?」

 ベアタはじっと焚き火を見つめていた。どこを見たらいいのか、わからないといった様子で。

「……あの雪原にいた狼は、共食いをしない」

 ルチフは淡々と答えた。

「オビスもだ……俺達だけがする。人間の俺達だけが。俺達にしか、できないことだ……」

 魂を受け継ごうと考えられるから、そうする。

 それからしばらくは、外の吹雪の音と、焚き火の音だけが、洞窟を満たしていた。徐々に温かくなってくる洞窟内だが、それでも身体は温まらない。出血のせいだろうか、と、ふとルチフが自身の足を見れば、止血のために巻いた布が、すっかり血の色に染まっていた。

 ルチフはそれをぼうっと見つめてしまって、やがて深呼吸した――焚き火があるからといっても、油断はできない。眠るのが、恐ろしい。

 ベアタを見れば、ベアタはうずくまったままだった。腕に巻いたマフラーは、血に染まってはいない――具合は良さそうだ。だが動かない。ベアタはこちらを見ない。

「……お前がどこから来たのかわからないから、死者をどうしていたのかは知らない……でも、本当に悪かった。もっと早く、話しておくべきだった」

 もう一度、ルチフは謝った。そうすることしかできなかった。

 しかし理解してほしかった。理解してくれたのならば。

 ――もしもの時。食べられたかったし、食べたかった。

 と、寒さにルチフは身体を震わせた。気付けば足はもう痛まなかった。これほどに、血が出ているにもかかわらず。

 ――だめかもしれない。

「……吹雪は、数日続くかもしれない。けど止めば、チャーロ達が探しに来てくれる」

 瞼がゆっくりと落ちてくる。頭がぼうっとする。

 その中で――ルチフはネサのことを思い出した。この血のにおいのせいだろうか。

 ――狼数匹に襲われ、ぼろぼろになってもかろうじて生きていた育て親。雪が降り始めた中、手当をしなければと、ルチフは彼を背負って村を目指したのだ。

 けれどもネサは、血を吐きながらも言ったのだ。

 ――もう、無理だ。俺を、置いていけ、ルチフ。吹雪になる前に、お前一人でも村に……。

 ――何を言ってるんですか! こんなところ置いていったら、また狼がきて……それに弱気になってどうするんですか! まだ間に合う……村についたら、すぐに手当を……。

 そうは言っても、ルチフにも、わかっていたのだ。

 ネサは恐ろしいほどに、血を流していたのだから。

 しかしここで置いていっては、吹雪の間に、狼に遺体を全て食べられてしまうだろう。

 そうなってしまえば、ネサの魂は。

 ――血を……。

 と、ネサはルチフの背で笑っていた。

 ――俺の血を、飲むんだ、ルチフ。俺の、魂を……肉が食えなくても、血だけでも……。

「……血を」

 発した声は弱々しいもので、ルチフ自身で驚いたものの、表情は動かなかった。

 ……ネサはあの後、無事に村まで連れて帰ることができたけれども。

 もしもいま、このまま、自分もベアタも、死んでしまうのであれば。

 そしてもしも、ベアタよりも先に自分が死ぬのならば。

「俺の血を……飲んでくれ、ベアタ。もし俺が先に死ぬようなことがあれば……血を飲んで、俺の魂を……肉をすぐに食べられないのなら、血を……」

 ――魂を受け継いでもらいたかった。

 チャーロ、ケイ、ほかにも繋がりのある村人はたくさんいる。

 けれどもやっと、同じ人間であるベアタを見つけたのだ。出会えたのだ。

 一人きりだと思っていたのだ。

 一人にしないでほしかった。

「ルチフ……?」

 ベアタが困惑した表情でこちらを見て、わずかに口を開けた。

「ルチフ……!」

 ――自分はどれだけ、弱った姿をしていたのだろうか。

「……ルチフ……しっかり……!」

 ベアタはルチフのすぐ隣にくると、抱きつくかのようにぴったりと寄り添った。

 その体温が、温かくて。

「ベアタ……」

 ルチフはそのまま、意識を手放した。

 ベアタの温もりと、握ってくれた手の感覚だけが、最後まで残っていた。

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