第三章(3)
* * *
ルチフが自分の家から飛び出すと、すでに外は暗くなってしまっていた。風も強く、手にしたランタンが揺れた。雪も降り始めていて、もうじき吹雪になることは、誰にもわかった。
荒れ始めた天気の中、牧場へと向かってくる人影二つがあった。ケイとチャーロだ。
「ルチフ、いまから行くには危険すぎる! 無茶をするな!」
風にかき消されないように上げたケイの声は、しっかりルチフの耳に届いていた。しかし剣を手にしたルチフは、牧場の外へと走り出す。
「ルチフ――!」
チャーロも声を上げている。
危険なのは、ルチフにも十分にわかっていた――それでもベアタは、行ってしまったのだ。
「……もし帰って来なかったら!」
立ち止まりルチフは振り返る。その声を、はっきりと二人へ伝える。
「ベアタを見つけてくれ。俺はその後でいい……でも……俺も見つけてくれ――食べてくれ」
魂を受け継いでくれ。共にいさせてくれ。
それだけを伝えると、ルチフはもう振り返らなかった。吹雪き始めた雪原を、走り出す。
チャーロの話だと、いま進んでいる方角に、ベアタは走っていってしまったようだ……吹雪き始めたのは、つい先程だ、本格的になる前に見つけられるといいのだが。
けれども手掛かりは何もない。足跡も何もない。
「ベアタ――!」
それでもルチフはランタンで辺りを照らした。暗闇の雪原に目を凝らす。耳も澄ませる。風はこちらを切り刻むかのように冷たく、痛かった。体温も奪われていく。気付けば寒さに震えていた。先に進もうにも、吹雪がまとわりつくようで、なかなか進めない。
――ベアタを見つける前に自分が倒れてしまうかもしれない。
それでも。
「どこだ、ベアタ――……」
白い丘を急いで下りようとして、ルチフは足を滑らせた。背から倒れて、そのままずるずると下りていく。だが早く立ち上がらなければともがき、また走り出す。もう、村や牧場の明かりは見えなくなってしまった。辺りに広がるのは、暗闇に包まれ吹雪く、極寒の世界だけ。
――やっと、会えたのに。
銀髪に青い目の人間は、自分だけだと思っていた。
……そこに、彼女がやってきた。
ベアタの温もりを思い出す。村人と同じ、血の通った温かさ。しかしベアタは、自分と同じ姿の人間で。確かにそこにいて。
「頼む……」
懇願の声は吹雪にかき消される。死の白色は、まるで染めようとするかのように吹きついてくる。
「――ベアタ!」
弱音を吐きそうになったのを堪えて、ルチフは再びランタンで辺りを照らした。
ベアタを死なせるわけにはいかない。先の暗闇を睨む。
その時だった。
――……。
吹雪の轟音の中、何かが聞こえた。とっさにルチフは立ち止まり、目を瞑って耳を澄ませる。
――狼の遠吠え。
まさか。
遠吠えの聞こえた方へ、ルチフは走り出す。剣を抜く。
……脳裏をよぎったのは、狼に噛まれ、ぼろぼろの姿になった育て親の姿だった。
「ベアタ! どこだ!」
狼の遠吠えに負けないほどにルチフは声を上げる。けれども返事はない。
と。
甲高い悲鳴が、凍てつくような空気を裂いた。
それは間違いなく――ベアタの声だった。
声がした方へルチフは走る。先に、灰色の影いくつかと――それから逃げるように走る人影一つが見えてきた。暗闇でも、長い銀髪は風になびいて輝いている。
刹那、狼の一匹が、ベアタに飛びかかった。
ベアタが腕を構えるのを、ルチフは見た。狼はその腕に噛みつく。そのままベアタは雪の中に押されるように倒れる――赤い滴が、白い雪を染める。
とっさにルチフはランタンを手放した。両手で剣を握れば、倒れたベアタに群がろうとしている狼達に、怒声を上げながら迫った。
ルチフは狼達を蹴散らし、そしてベアタに噛みついたままの一匹の背に、まるで払うように剣の刃を食い込ませた。するとその狼は弱々しい声を上げて雪原の中に倒れる。それでもまだ生きているようで、もがいていたものだから、ルチフはまた剣を構えた。
――怒りのあまり、ルチフの視野は、狭くなってしまっていた。
瞬間、狼の荒々しい吐息が聞こえたかと思えば、左足のすねに激痛が走った。まるで焼かれるかのような痛み。同時に氷の刃物で突き刺されたような冷たさ。悲鳴は上げなかった。だがその痛みに引っ張られ、ルチフは雪原の中に倒れてしまった。剣が手から離れる。
狼の一匹がルチフの左足に噛みついていた。牙を剥いて、飢えた瞳をぎらつかせている。
蛮声を上げて、ルチフは右足でその狼の顔に蹴りを入れる。狼は怯み、足から離れた。
その瞬間、ルチフは手放してしまった剣に手を伸ばせば、倒れたまま、宙にその刃を滑らせた。凍てつく空気と降る雪を切り裂き、そして狼の喉も切り裂く。
足は血塗れになっていた。すでに狼の血で赤く染まった雪に、さらに赤い滴が垂れる。だが痛みにもだえている暇はない、すぐさまルチフは立ち上がれば、また向かってきた別の狼へ剣を振り下ろした。勢いのまま、叩き切る。剣が赤く染まる。そしてまた、剣を構えて。
だが、仲間数匹がやられて怖じ気付いたのだろう。他の狼は、すでに尾を巻いて吹雪の中に逃げ去っていた。ベアタに噛みついたあの一匹も、もう動いていなかった。
辺りには、狼の死体が三体、転がっていた。血塗れた剣を、ルチフは鞘に戻す。と、気が緩むと足の痛みにくずおれそうになった――左足はすっかり赤くなっていた。破けてしまったズボンも赤く、見えた肌も赤い。歩く度に、赤い足跡ができた。
それでも、ベアタのもとへ。
「ベアタ……」
倒れたままのベアタに、ルチフは手を差し出す。けれども。
「――来ないで!」
拒絶の声に、ルチフは震えた。
ベアタは。
「――嫌。来ないで」
噛まれた腕を、真っ赤に染めていた。庇うようにしているためか、噛まれていない方の手や胸にも血がついてしまっていて、頬にも血が飛んでいた。けれども青い瞳はしっかりとルチフを捉えていて――ルチフを見て、怯え、震えていた。
完全な拒絶、拒否。嫌悪――その瞳の青色が、胸に突き刺さるような感覚に、ルチフはゆっくりと、震える手を引っ込めそうになった。
だが。
「……どこかに避難しないと。このままじゃ」
ルチフは、ベアタの怪我をしていない方の手に触れる。
と、弾かれた。暗くなった極寒の白い世界に、音は響いた。
……しかし、ここで彼女を死なせるわけにはいかないから。
その手を、ルチフはしっかりと掴んだ。
足の痛みと、胸に何か刺さったような痛みに耐えながら。
「……村に戻るのは難しい」
なんとかベアタを立たせる。
「洞窟が近くにある。そこに逃げよう」
ベアタの手は氷でできているかのように冷たかった。それでもルチフは、掴んだまま。
――一人にさせるわけにはいかなかった。
――一人に戻りたくなかった。
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