第三章(6)


 * * *


 ――心地良い温もりに、ベアタは目を開けた。

「……私」

 気付けば、ベアタは柔らかなベッドの上にいた。暖かな室内――少しして、ベアタはそこが、ニヘンからもらった自分の部屋だと気がついた。机の上には、ニヘンに教えてもらっている途中の編み物が置かれている。

 と、腕を見れば、包帯が巻かれていた。

「そうだ……私……」

 狼に噛まれたことを思い出す。そして辺りを見回しながら、身体を起こすと、

「――ああ! ベアタ!」

 扉が静かに開いて、ニヘンが部屋に入ってきた。

 ニヘンさん、とベアタが言う前に。

「ベアタ……! やっと目を覚ましたんだねぇ……! よかった! 本当に……よかった……」

 老婆は優しくベアタを抱きしめた。その抱擁に、どこか懐かしさを覚えベアタは目を瞑った。

「ニヘンさん、私……」

 ――そこでベアタは、部屋の入り口に、人影一つがあることに気がついたのだった。

「……ルチフ」

 ルチフはじっと、ベアタを見つめていた。

 ――あれから丸一日。ベアタが目を覚ますまで、ずっと待っていたのだ。

「ルチフはねぇ、あなたが目を覚ますのを、ずっと待っていたのよ」

 ニヘンがそっとベアタから離れて説明する。それから「ああ、ケイに伝えないと……ちょっと二人とも待っててね」と、部屋から出て行ってしまった。そのまま、家から出ていく。

 残されたのはルチフとベアタだけだった。

 ルチフは、何を言ったらいいのかわからず、ただベアタを見つめていた。あれだけ目覚めを待ったのに、何も言うことができなかった。ただそこにベアタがいて、こちらを見て、息をしているだけで、それだけでよくなってしまって、果てに視線をそらしてしまった。

 本当は、言うべきことがたくさんあった。まだ、全てが解決したわけではないのだから。

 ――この村の文化を嫌って村から出たベアタを、連れ戻してしまったのだから。

「……ルチフ、足の、怪我は」

 だがベアタは、ルチフに嫌な顔をしなかった。代わりに見せたのは、心配した表情。

「……もう、大丈夫だ」

 我に返ったようにルチフは返す。足の怪我はすでに、ちゃんとした手当をしてもらった。出血こそひどかったものの、何とかなるだろうと言われた。

「お前の方は? 腕が痛いとか、体調が変だとかは……」

 ルチフが聞き返せば、ベアタはふわりと微笑んで頭を横に振った。そして、安心したようなまなざしをルチフに向けたのだった。

 ニヘンがケイを連れて戻ってきたのは、しばらくしてのことだった。

「目を覚ましたかベアタ……顔色も良さそうだな」

 部屋に入ってきたケイは、最初こそは険しい顔をしていたものの、ベアタの顔を見て表情を綻ばせた。しかし、ケイの後ろには、珍しく俯いて静かなチャーロの姿があった。

「……すまなかったベアタ。何の説明もしていなくて。とても……驚かせてしまったな」

 ケイがそう静かに切り出せば、チャーロがそっと前に出た。

「ベアタ……ごめんなさい……僕、何も考えてなくて……その……食べさせちゃった、こと」

 チャーロが謝れば、ケイが続く。

「……だが、訳があるんだ。その説明が……遅れてしまった」

 ルチフは黙ってそのやりとりを見つめていた。しかしそこでベアタは、

「――大丈夫です」

 ふと、笑って。そしてルチフを見て。

「全部ルチフから聞きました……どうして……その、肉を食べるのか。魂を受け継ぐことや……その尊さについて……」

 青い瞳が、ベッドの横のテーブルに向けられた。そこにあったのは、あの赤い石のペンダントだった。ベアタはそれに、手を伸ばす。

「……やっぱり、食べる、というのは……抵抗があります。でも……一緒にいたいって気持ちは、私にもわかるんです……魂を受け継げば、そうできるのでしょう?」

 それに、とベアタは部屋にいる皆を見回した。

「……謝るのは、私の方です。本当に、ごめんなさい。村の皆さんは、本当に優しい人なのに……私、その……悪く思ってしまって……それだけじゃなくて、迷惑をかけてしまって……」

 それから、しばらくの沈黙が流れた。

 外はもう夜で、だが非常に穏やかな夜だった。雪も降っていない。風もない。そんな静かな夜で、わずかな物音すらも、その静寂に飲まれて消えるほどだった。

 ルチフはベアタを見ていた。けれどもベアタは、もうそれ以上何も言おうとしなかった。

 一抹の不安が、ルチフにはあった。

 ――ベアタを助けられたものの、彼女はこれから、どうするのだろうか。

「――もう少し休め。それに夜だ。しかし回復した様子が見られて本当によかった。それでは……私らは帰るとするよ」

 静寂を破ったのはケイだった。チャーロを連れて、踵を返し始める。

 ルチフは俯いてしまった――ケイも、何も言わないのだろうか。

 しかし、そこでベアタが耐えきれなくなったように声を上げた。

「あの……!」

 その声に、ルチフはどきりとしてしまう。

 ――人の肉を食う風習がある村。

 ――そのことを、ベアタはどう思うのか。その村にいることについて、どう思うのか。

 ケイが振り返る。そしてベアタの言葉を待つ。だが、その言葉は、

「――私は、村に居続けても、いいのでしょうか……?」

 ……逆に聞き返したい質問だった。

 ――村に残ってくれるのか、と。

「……もちろん。この村では、何者も等しく受け入れる。皆同じ、人間なのだから」

 ケイは言う。

「しかしベアタよ。逆に聞きたい。魂を受け継ぐためといえども、我々は、人を食う。聞けば、ほかの村にはそんな風習はなく、それどころか……お前がまず思った通り、忌み嫌われる行為のようだ。村の一員になったといっても、食べるのが嫌だと言えば、その意思は尊重される……が、それでも村に残ることを選ぶのか? 遠い場所ではあるが、ほかにも村はあるぞ」

 すると、ベアタのまなざしが、ルチフの青い瞳とあった。そして彼女は言った。

「……私は、この村が好きです。皆優しくて、命を重んじていて。この村の牧場の、オビスも好きです……それでは、だめ、ですか……?」

 ……ベアタは、村に残りたいと言っている。

 ――一緒にいてくれる。

 ケイは答える。

「いいや、構わない……村の皆も、オビスも、お前を気に入っているようだしな」

 そうしてケイは再び、チャーロを連れて玄関へと向かっていった。「ありがとうございます」とベアタが頭を下げる。だがケイは振り返らない。チャーロだけが安心したように振り返って手を振り、ケイに続いて外に出て行った。

 それからニヘンが「そうだ、温かい飲み物を持ってこようかねぇ」と部屋を出て行った。

 部屋に残ったのは、ルチフとベアタだけになった。再び、二人きり。

 ルチフはベアタを見据えて、言葉を探した。本当に嬉しかった。彼女が村に残ってくれることが。だが、言葉が見つけられなかった。ただただ、嬉しくて。

 と、ベアタと目が合うと、恥ずかしくなってそらしてしまう。そして、そのまま。

「――もう遅い。それにあんまり長居すると、お前、まだ完全に回復してるわけじゃないんだ、身体に障るかもしれない。俺も、帰るよ」

 そう背を向けた直後に、

「――待って」

 ベアタに、呼び止められた。

 ……何故だか、振り返るのに戸惑った。

 それでもルチフが振り向けば、ベアタは思い詰めたような顔をしていた。その様子に、どきりとしてしまう――何を言うつもりなのだろうか。

「……私、あなたに二回も命を助けられたわ」

 落ち着いたベアタの声――何か決意をしたような声。

「……一回目は、正しくは俺じゃなくて、オビスだ」

 そうルチフは空気を誤魔化したものの、ベアタは変わらず、何か決意した様子だった。赤い石を握りしめている。

「……聞いてルチフ。私……あまり話したくなくて、ずっと黙っていたけど……私、あなたがどこの生まれの人間か、多分知ってるわ」

 ついに、言う。

 ……そんなことは、言われなくてもわかっていたけれども。ついに。

「でも……私が何かの拍子に死んじゃう前に、話した方がいいと思って……ルチフ、あなたは多分――」

「いい。話さなくて」

 ルチフの声は。

 すぐに出た。

 はねのけるかのように。

 ベアタが驚きに声を詰まらせる。

 そして驚いたのはベアタだけではなく――ルチフ自身も、驚いていた。

 ……確かに、気になってはいた。ベアタが自分自身の生まれについて、何か知っていることに関して。剣を初めて見せた時のあの反応から、何か確実に知っていると思っていた。

 けれども。

「……俺はこの村の人間だから」

 そう言うと、胸が軽くなったような気がした。何か溜まっていたものが吐き出せた気がした。

 気になると同時に、知るのが怖い気持ちもあった。そうすると、自分がやはり、村人の一員ではないような気がして。たった一人の銀髪に青い目の人間。やはり違う場所の生まれ。違う場所の人間。

 ……しかしベアタが村に残ると言ってくれた。

 だから、なのだろうか――自身でも驚くほどに、あっさりと言葉が出たのは。

「……そう」

 ベアタはもう何も話そうとしなかった。ただ優しく微笑んでくれて、ルチフもゆっくりと微笑んだ。


【第三章 命の在処 終】

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