第三章 魂の在処
第三章(1)
今日も昨日も一昨日も、重い曇り空だった。
明日も曇り空だろうと、ルチフは牧場で空を見上げた。夕暮れ時。そろそろと忍び寄るような闇に、世界は染まっていく。
「――ベアタ、もう日暮れだ。丸一日手伝ってもらったし……今日はありがとう。これ以上寒くなる前に帰れ。あとは俺一人で問題ないから」
ルチフはベアタへ振り返った。ベアタはオビスの毛並みを整えていた。
「あら……大丈夫なの?」
「もうほとんどの仕事は終わったからな……お前のおかげで」
ベアタがオビスの世話をはじめて、大分経った。その仕事ぶりはかなり板についてきた。おまけに、ベアタはもう一つの仕事であるチーズ作りもうまくやっているようだから、素直にルチフは感心していた。しかしそれ故に、少し頑張りすぎているような気もしていた。
「ふふ……ちょうどきりのいいところだし、そうしようかしら……いまね、ニヘンさんに編み物を教えてもらっているの。帰ってその続きをしようかしら」
ベアタは器用だ。何でもできるようだ。
「それじゃあ、また明日」
「ああ、気をつけて帰れよ……」
ルチフはベアタを牧場の入り口まで送って、その後ろ姿をしばらく眺めていた――ベアタはもうすっかり、村に慣れたようだ。雪道を歩くのにも、慣れたようだった。
さて、とルチフは牧場へと振り返る。仕事はまだ残っている。先に子供のオビスを小屋に入れて、大人のオビスの調子をまた見て、それから念のため、もう一度柵を確認して――。
そう考えながら白い牧場を歩いていると、赤い光が視界の隅で輝いた。
はたとルチフは立ち止まった。白い雪の中に、血のような赤色の何かが落ちていた。
――これは、ベアタの……。
歩み寄って、それを雪の中から拾い上げる。赤い石のペンダントだった。
いまのベアタは、発見された時の見慣れない服装からずいぶん変わって、村人と同じような服装にすっかりなっている。それでもこのペンダントだけはずっと身につけていた。まるで氷を割ったかのような石で、質素な紐で包まれるようにして、ペンダントにされている。見れば、その紐の首にかける部分が切れてしまっていた。
ベアタが大切にしているペンダントだ、いますぐ届けた方がいいかもしれない。いや、大袈裟か――そうこう悩みつつ、ルチフは赤色を見つめる。
それにしても、血のような赤色だ。一体これは、何の石なのだろうか。
だがルチフは、ベアタに聞こうにも聞く気になれなかった――ベアタは未だに、過去のことを何も話していないのだ。だから教えてくれないような気がした。
もし、石について話してくれたとしても、聞くのが怖かった。
聞きたいと思う気持ちと同じくらいに、怖さもあった。もしかしたら――そこからベアタの過去に、そして自分の生まれに繋がるかもしれなくて。
「――触らないで!」
半ば悲鳴のような怒鳴り声が、唐突に牧場に響いた。
ルチフが顔を上げれば、険しい顔をしたベアタがそこに立っていた。
「返して!」
ペンダントがないことに気付いて、慌てて戻ってきたのだろう、息を切らしていた。ベアタはずんずんとルチフへと進む。ルチフが無言でペンダントを差し出すと、まるでひったくるかのように奪い取った。
そして握って。俯いて。
「……ごめんなさい、怒鳴っちゃって……これ、落としちゃってたのね、私。ありがとう……」
「いや、大丈夫だ……それ、大切なものなんだろ? 勝手に触って、悪かった」
……ペンダントについて、ルチフはやはり、詳しく聞く気になれなかった。
――ペンダントを手にしたベアタが、泣きそうな顔をしていたから。
* * *
……ひどく寒い日のことだった。
村の近くの林に行った村人の一人が、帰ってこなかった。
見つかったのは翌日の朝。林の中に倒れていた。すでに寒さで亡くなっていた。
幸い、遺体は完全な形で残っていたという。多くの場合は、狼に食い荒らされてしまい、最悪の場合は骨の一片ほどしか残っていないこともあるというのに。
奇跡だと言われた。その村人を見つけだした一行は、すぐに遺体を持ち帰ってきた。
そして、その日のうちに葬式を行うと、村の住人全員に伝えられた。
「葬式、なんだって……」
厚い雲が空を覆った夕暮れ前。ベアタは一人、牧場にいた。子供のオビス一頭を撫でつつ、村を見ていた。
『用があるから、ちょっとここで待ってろ』
ルチフと共に牧場でオビスの世話をしていると、村からやって来た一人に、葬式の話を伝えられた。するとルチフはそう言って、ベアタを残し一人村へと行ってしまったのだった。
「……人が死んだらね、その身体を燃やさなくちゃいけないのよ。そうやって魂を空に昇らせないと、魂はこの大地で凍りついて……永遠に凍りついたままになってしまうから」
子供のオビスに話しかけつつ、ベアタは空を見上げた。一筋の煙が立ち昇っている。村の広場、その奥から立ち昇っているようで、死者を燃やしているのだと、ベアタは気付いていた。
「……この村では、誰の魂も救済されるのね」
ベアタの手が、ペンダントの赤い石に触れる。
ところで、と思う。
小高い丘にある牧場からは、村の広場の様子も、そこにいる人も、ぼんやりと見える。皆何か、同じ物を持っているように見えた。椀、だろうか。家族や仲のいい人間で集まっているようで、そろって家の中に入っていったり、丸太に腰かけたりしている。
と、村からこちらへとやってくる人影に気がついて、ベアタは目を凝らした。黒い帽子ではない、白い帽子――チャーロだ。
「やあベアタ!」
チャーロはベアタの目の前までやってくると、屈託のない笑顔を見せた。その両手には、それぞれ椀を持っていた。弱い湯気の立っているその一方を、チャーロは差し出す。
「ルチフにちょっと待ってろって言われたけど……持って来ちゃった!」
「これは、シチュー? もしかして村のみんなが食べてる……?」
「そうだよ!」
ベアタが椀を受け取ると、チャーロは村を向いて牧場の柵に寄りかかった。だからベアタもその隣に並ぶ。
「本当は家族や仲のいい人と集まって食べるもんなんだけど……ルチフもばあちゃんも、何か話してて出てこなくて……でももうすぐ終わると思うよ、終わったら牧場で先に食べてるって伝えてって、家の近くの人に言ったし。ニヘンさんにも声をかけたんだけど、みんなで食べてらっしゃいって」
チャーロはそう、シチューを食べ始める。ベアタも手にしたシチューを見つめる。椀の中のシチューは温かい。食料は貴重であるために、節約して使わなくてはいけないものの、具は多く入っていた。野菜も、肉も。口にすると、温かさが身体に染み渡るようだった。
「……この村では、ちゃんと魂を天に昇らせるのね」
と、ベアタはまた煙を見上げながら言う。直後に口が滑ったといったような顔をしたけれども、チャーロは気付かず、
「亡くなったのはね、モルさんだよ……寂しくなるね……でもみんなずっと一緒だから!」
そうシチューをまた食べ進める。だからベアタも、食べ進めて。
「……お葬式だと、みんなで同じ食事をするのね」
「ベアタも村の一員だからね、冷めないうちに食べた方がいいよ! あ、でもそれだとルチフとばあちゃんが来る前に食べ終わっちゃうかな……遅いなぁ、何してんだろ。モルさんのことかなぁ、ルチフ、柵を直すのにモルさんからよく木材もらってたしなぁ……」
と、はたとチャーロは手を止めた。だからベアタもどうしたのかと手を止めた。
「……ベアタはさ、銀髪で目が青いの、あんまり気にしてないよね」
チャーロは、まるで思い出したように白い帽子をとった。黒髪がふわりと広がる。
チャーロは続ける。
「……ルチフはね、すごい気にしてたんだよ。自分は一人なんだ、血の繋がった家族はいないんだって。それで昔……大泣きしたことあってね。ルチフ、昔はすごい泣き虫だったんだよ。いまはそうじゃなくなったけど……でも、まだいろいろ考えてる時はあるみたい」
そしてチャーロは帽子を被り直した。白い、雪と同じ色の帽子。笑顔をベアタに向ける。
「けど、ルチフ……ベアタが村に来て、前よりよく笑うようになったんだよ? 多分ね、自分がこの村の一員でいいのか、不安だったと思うんだ。だからベアタが村で暮らしてるのを見て……すごく安心したんだと思う――ありがとうね」
そう言われ、少し照れてしまって、ベアタは小さく笑みを浮かべた。
「でも私……」
無意識に、赤いペンダントに触れる。
――ルチフが、彼自身の出自について気にしていることに、ベアタは気付いていた。
――そして、時折「何か知ってるんじゃないのか」という目で、ルチフが自分を見ていることにも、気付いていた。
「何もしてないわ……一緒にいるだけ」
それでもルチフは何も言わない――その理由にも、ベアタは何となく気付いていた。
知るのが怖いといった顔――そして、気遣いの顔。
正直、ベアタはどうしていいのかわからなかった。
話した方がいいのか、話さない方がいいのか。
……できることなら、過去のことを話したくないというのが、ベアタの本音だった。
それ以上は何も話さず、ベアタはシチューのスープを啜った。まるで言葉の全て、不安の全て、もやもやの全てを流し込むように。野菜と肉をスプーンですくって、口に運んで。
「……?」
そこで、ベアタは首を傾げた。
「チャーロ、このお肉は、何のお肉なのかしら。村で飼ってる鳥じゃなさそうだし、狼でもオビスでもなさそうだし……ほかに村で、何か飼ってるの?」
思わず聞いてしまうほどに、不思議な感覚があった。
「何の肉って?」
チャーロが冗談でしょ、という顔で笑う。だが、ふと笑みが消えた。
「……ルチフから聞いてないの?」
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