第二章(5)
――白い帽子は、あまり好まれない。雪の中では見えにくくなってしまうからだ。
それでも被る人物を、ルチフは一人知っていた。足下の雪をすくって球を作れば、ルチフはその帽子に、容赦なく投げつけた。
「チャーロ! お前一体何してるんだ!」
ぼすんと音がして「ひぇぇっ」と声が上がった。積った雪の影から、チャーロが飛び出してきた。
「チャーロ! 何でこんなところに……」
ベアタも拍子抜けしたような声を上げる。チャーロは誤魔化しの笑みを浮かべた。
「……二人が牧場から出て行くから、ちょっとこっそりついて行ってみよーって」
つけていたということか。ルチフは溜息を吐いた。だがこんなことをしている場合ではない。
「そんなことしてる暇あるなら、オビスを探すのを手伝え」
「……えっ? オビス、牧場の外に出ちゃったの? ごめん、話は聞こえてなくて……そっかだから牧場から出たのか! 早く言ってよ!」
完全に好奇心だけでついてきていたようだ。「子供のオビスだ、一頭が恐らくあっちの方に」と手短に説明してルチフは歩き出す。ベアタも続く。チャーロも歩きだし、ベアタの帽子を見ると「似合ってるね!」と笑った。
……チャーロがいた方が、緊張しなくて済む。
だいぶ牧場から歩いたが、一向にオビスの姿は見あたらなかった。三人とも目を見張るが、世界に色はない。耳を澄ませても、何も聞こえない。
「――だめかもしれない」
やがてルチフは立ち止まった。雪は降り続いている。もし倒れていたのなら。
「……もう少し探してみよう、吹雪じゃないんだし」
と、チャーロが、ベアタが無言で下唇を噛んでいたものだから言う。
「もしかすると、すぐそばにいるかもしれないよ?」
その通りかもしれない――ルチフは頷き、もう一度、歩き出した。
諦めてはいけない。たとえもう死んでいたとしても、その死体を探し出すのも自分の役割だ。
牧場から、結構な距離を歩いた。ここまで子供のオビスが歩けるとは思わないが、それでも。
と。
遠吠えが聞こえた――狼の遠吠え。
「伏せろ!」
とっさにルチフは、ベアタとチャーロの背を押し、共に倒れ込むように雪原に俯せになった。
「起き上がるな! 距離は結構ある……でも見つかったら面倒だ……!」
緊張が走る。三人が顔を上げて正面を見れば、遠くに灰色の影がいくつか見えた。横切るように進んでいる……幸い、こちらにはまだ気付いていないらしい。
「まずいよルチフ……!」
せっぱ詰まった声を上げたのはチャーロだった。
「子供のオビス……食べられちゃったんじゃない?」
「でも狼達に血はついてないわ!」
と、ベアタが狼達を指さす。その通りだった。血はついていない――何も食べていない。
狼達はルチフ達に気付くことなく、離れていった。ずいぶん遠くに行ったのを確認して、ルチフは立ち上がった。ベアタとチャーロも立ち上がる。
「あいつらに食べられてはなかったみたいだけど、最近、よく狼がいる……早く見つけないと」
ルチフは狼達が消えていった方角を睨んだ。まだほかの群れがいるかもしれない、気は抜けない。今度こそオビスは食われてしまうかもしれないし、自分達だって。
「――早く見つけなきゃ!」
走り出したのはベアタだった。「待て!」というルチフの制止も聞かずに、雪原を駆ける。
「待ってベアタ! 危ないよ!」
すぐさまチャーロが追って走る。ルチフも辺りを見回しながらベアタを追った――ところで、いなくなったオビスは、本当にどこへ行ってしまったのだろうか。
悲鳴が聞こえたのはすぐだった。ベアタの悲鳴だった。続いて、チャーロの叫び声。
「ルチフ! 来て!」
「何だ!」
狼か。しかし、そんな気配はしなかった。
走った果てに、ルチフはついに子供のオビスの姿を見つけた。
血が出ている様子はなかったが、半ば雪に埋もれるようにして、子供のオビスは白い中に横たわっていた。それでもまだ生きていた。オビスはルチフを、そしてベアタとチャーロを見ると、力なく鳴いた。
「大丈夫……大丈夫よ……」
ベアタが屈み込んで、オビスの頭を撫でた。
「いま雪の中から出してあげるからね……」
優しい声は、泣きそうになっていた。ベアタはオビスの上に積もる雪をどけ始める。
「――チャーロ、牧場に戻って荷車を! 若いオビスにひかせて持ってきてくれ」
「わかった!」
ルチフの指示に、すぐさまチャーロが踵を返した――狼がいるかもしれないが、ここに自分以外の誰かを残すわけにはいかない。
ベアタが動きそうになかったのだ。
「大丈夫よ……大丈夫……いま助けるからね。おうちに帰ろうね……」
――オビスの世話をしている時、ベアタは特に子供のオビスを気にかけ、また懐かれていた。
ベアタは、まるで温めるかのように、子供のオビスに寄り添った。
ルチフは牧場のある方を食い入るように見つめた。チャーロが荷車を持ってくるのを、じっと待っていた。
* * *
子供のオビスを、無事に牧場の小屋まで連れ戻して、数日後の夜。
保護したオビスの体調は、一向によくならなかった。
「大丈夫よ……明日になったら、きっとみんなと一緒に、また外で遊べるから」
小屋の一部を整えて作った、病室と言える場所。そこに作ったベッドに横たわる子供のオビスに、ベアタは寄り添っていた。もうとっくに暗くなり、小屋の中は外よりも温かいと言えるが、それでも冷える。だがベアタは寒さに震えながらも、子供のオビスを撫でていた。
ルチフはその様子を、小屋の入り口で言葉なく見つめていた。隣には、子供のオビスとベアタについて聞いてやってきたケイもいた。
ケイは、ちらりとルチフを見た。
だからルチフは、何も言わないまま、頭を横に振った。何も言わないまま。
「……ベアタ。もうずいぶん暗くなった。帰るんだ」
ケイは一歩前に出た。
「ニヘンが心配していた。このままここにいては、お前も体調を崩す」
ベアタは不安そうな顔をして振り返る。
「でも……」
その時、ベアタははっとしてオビスを見た。
……横たわるオビスが、鼻でベアタの身体を押していた。
「……さあ、帰ろう」
ケイがベアタの肩を叩く。ベアタはそれでも、ケイを見て、ルチフを見て。しかし。
「……わかりました」
やがて、ゆっくりと立ち上がり、ベアタはケイに連れられ、牧場を離れていった。
一人になっても、ルチフはまだ小屋にいた。衰弱しつつある子供のオビスの身体を撫でると、オビスは弱々しい声で鳴いた。
それからルチフが小屋を出ると、外では大人のオビス達が小屋を見守るように集まっていた。だが、ルチフは気にしているのを隠して、家に戻っていった。
* * *
冷え込んだ朝。ルチフは毛布にしっかりくるまり、目を閉じていた。起きるのにはまだ早い時間で、朝手伝いに来るベアタも、まだ来ないはずだった。
けれども、外から響いてきた悲鳴が、ルチフの耳を貫いた。
ベアタの声だった。瞬間、ルチフは飛び起きたものの、何があったのか心当たりがあり、そう急がずに外へと向かった。
――やっぱり。
扉の向こう、雪の上には――あの子供のオビスが死んでいた。
傍らには、ベアタが座り込んでいた。
「わ、私……この子が気になるから、早めに行こうと思って……」
ベアタの青い瞳が波打つ。涙が溢れて、こぼれた。
「この子……夜のうちに、助けを求めてここまで来たんだわ……! それなのに私……帰っちゃって……この子、夜中に、こんな寒い場所で……!」
「――違う」
その言葉を、ルチフは静かに否定した。おもむろに、ベアタは顔を上げる。
そこへ村の方から、一人歩いてくる人影があった――チャーロだった。
「あれ……ベアタ?」
牧場に着いてすぐ、チャーロはベアタを見て首を傾げる。そして隣に横たわる子供のオビスを見れば、曖昧な笑みを浮かべた。
「……ちょっと早いけど、ばあちゃんに様子見てこいって言われたんだ」
「……ケイさんに伝えてくれ、やっぱりだめだったって。それから、解体するから人を呼んできてくれ、数人でいい」
ルチフは淡々と、そうチャーロに頼んだ。するとベアタが目を丸くした。
「解体って……この子を……食べるの?」
「何そんなに驚いてるの? 僕の方がびっくり」
そう返したのは、チャーロだった。ベアタは顔をひきつらせる。
――ベアタは、わかっていないのだ。
……朝の世界は、より白く見えた。
「このオビスは、そのために来たんだ」
ルチフはベアタの隣にしゃがみ込んだ。
「――オビスは、賢い生き物だ」
もう温かくはない獣の身体を撫でると、毛は柔らかかった。
「……オビスは死ぬとき、必ず世話をしている人間の家の前に来るんだ。何でだと思う?」
「……助けてほしくて、じゃないの?」
ベアタは涙を流したまま首を傾げた。ルチフは無表情で続けた。
「オビスは、犠牲を出す生き物だ……それはお前も、知ってるだろ。お前を守るために、一頭が狼の犠牲になったんだから……」
悲しみは見せない。これまでに、たくさんのオビスが生まれ、死んだ。
慣れているわけではない。しかし生き物は死ぬものであり、オビスはこういう生き物だ。
「オビスは人間がいるからこそ、いまの生活が成り立っていることを知っている。毎日ちゃんと餌をもらえて、狼から守ってもらえて、大人より弱い子供の面倒も見てもらって……オビス全員が、そのことを知っている。だから、オビスは人間が死ぬと困るってこともわかってて……死んだときに、身を捧げるんだ」
「身を……捧げる……」
「人間が死ぬと、困るから……だから、昨日の夜、この子もお前に『帰れ』って言ったんだ。あれ以上お前が寄り添ってると、お前も寒さで弱るから。それに……もうわかってたんだ」
ベアタは困惑したような表情を浮かべていた。それでも、口を固く結んでいた。
ルチフは続けた。
「それで夜中、ここまで来た。食べてもらうために。そうして――魂を継いでもらうために。遺された俺達の力になるために。生きられなかった自分の分まで、俺達に生きてもらうために」
「……死んだ者の力や、意思を継ぐこと、得ること?」
……ベアタはどうやら、ケイの言葉を憶えていたようだ。ルチフは黙って頷いた。
「――辛かったね。頑張って元気になろうとしたけど……でも、よく頑張ったね」
静寂が訪れて、チャーロがしゃがみ込み、子供のオビスの死体を撫でた。
「ありがとうね。しっかり魂は受け継ぐよ。僕達、元気に生きていくよ……それに、寂しい思いはさせないよ。君も、僕達とずっと一緒だよ……」
そうしてチャーロは立ち上がれば「じゃあ、行ってくる」と村へと走っていった。
「……帰った方がいい。これから解体をするから」
チャーロを見届けて、ルチフも立ち上がった。ベアタを、見下ろす。
「見ない方がいい……きついだろうから」
そう促したものの、
「……この子がそれを、選んだのなら」
ベアタは涙を拭って、頭を横に振った。
【第二章 雪原に残すは命の足跡 終】
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