第二章(4)
* * *
チャーロの予想通り、ベアタには、ルチフと共にオビスの世話をする役目が与えられた。
「ルチフ、餌やりは終わったわ! みんな元気に食べてる!」
役目を与えられて、もう数日。ベアタは仕事にすっかり慣れた様子だった。今朝も、寒い曇り空の下、牧場まで来てもらって乳搾りや餌やりを手伝ってもらった。
「ありがとう、助かる」
荷車に乳の入ったタンクを積みながら、ルチフは返した。と、小屋からベアタを追ってだろうか、子供のオビスが何頭か、飛び出してきた。
「だめよ! ご飯を食べなきゃ!」
ベアタが笑みを浮かべる。子供のオビス達は、すっかりベアタを気に入っているらしかった。鼻を軽く押されると、皆、満足したように帰っていく。かまってほしかったのだろう。
その光景に、ルチフは微笑んだ。
「俺はニヘンさんのところに乳を届けに行くけど、お前は子供の相手をしてるか?」
尋ねれば急いでベアタはルチフの元へやってきた。
「私も行くわ、ごめんなさい、待たせてしまって」
「いや、大丈夫だ」
ルチフは荷車の持ち手を握った。そうして、二人で村へと向かう。
乳の届け先のニヘンとは、チーズ作りを役目としている老婆だった。そしていま、ベアタの面倒をみている村人でもあった。話し合いの結果、ベアタはニヘンと暮らすことになったのだ。そしてオビスの世話の仕事の半分と、チーズ作りの仕事の半分を、担うことになった。
「あら、おはようルチフ。お帰りベアタ。二人とも朝からご苦労だねぇ」
ニヘンの家に着くと、ニヘンはそう笑って乳を受け取った。ニヘンはケイよりも年寄りで、この村で一番の年寄りだった。
「それじゃあ、私、まだたくさん勉強しなくちゃいけないから、また牧場に行ってきます」
荷物を下ろし終えて、ベアタはニヘンに軽く挨拶をした。
「ああそうそう……ベアタに、これを」
と、ニヘンがゆっくりと家の中に戻れば、何かを手にして玄関先に出てくる。そしてベアタに差し出したのは、茶色の帽子だった。
「あなたの帽子よ。何も被ってなくては、寒いでしょう。それに、あなたの髪はとても綺麗だけど、雪の中だと、わかりにくくなってしまうからねぇ」
茶色の帽子には、かわいらしい模様が刺繍されていた。
「うわぁ……! ありがとうございます、ニヘンさん!」
ベアタはまるで雪の中に咲いた花のような笑顔を浮かべ、帽子を受け取った。早速被ってみる――その様子を見て、ルチフは気がついた。思えば、ベアタはほとんどこの村に来た時のままの格好だった。発見されたその時の格好。コートはそう丈夫そうではなさそうであるし、外で作業するには少し薄着に見える。
「似合いますか……? 温かいです、本当に、ありがとうございます」
ベアタは帽子を被ってニヘンに見せ、またルチフにも見せてくる。よく似合っていた。
それからルチフとベアタは、ニヘンに別れを告げると、轍をなぞるように牧場へと戻ってきた。互いに、仕事に取りかかる。ルチフは雪かきをしつつ柵の点検をし、ベアタはオビス一頭一頭の調子をみる。
ひどく冷えていたけれども、風は吹いていなかった。穏やかだった。
「……ねえルチフ。ルチフはいままで、一人でオビスの世話をしていたの?」
ルチフが柵の点検をしていると、オビスに寄り添ったベアタが、ふと尋ねてきた。
「……基本的には。朝とか忙しい時は、チャーロに手伝ってもらいながら」
ルチフは、手にしたスコップを、ざく、と雪に刺した。
――そういえば、ネサの話をしていなかった。
「その前までは……ネサさんと一緒に世話をしていた……俺の育て親だ。俺を拾ってくれた人」
「そうだったの? ……ううん、この仕事、全部を一人でやってたのなら、大変だったんだろうなと思って……いま、その人は?」
「……死んだよ」
包み隠さずルチフが答えると、ベアタは気まずそうな顔をした。けれどもルチフは続ける。
理由はわからないが、話したかった。
……そうすることで、自分のことを話したかったのかもしれない。
「ネサさんはもともと一人でオビスの世話をしていて……十五年前、牧場から出たオビスを探してたら、俺を見つけたんだと。それから、面倒を見てもらってた。オビスの世話の仕方も教えてもらって……最近まで一緒にオビスの世話をしてたんだ」
ベアタは黙って聞いている。
「でも、狼に襲われて……ちょっと雑なところもあったけど、いい人だったよ。本当に……」
自然とルチフの声は小さくなっていってしまった。けれども頭を振って、またスコップを手にする。ざくざくと雪かきを進める。
「……いい人に拾われたのね」
静かにベアタが言った。
ベアタの隣にいるオビスが、おもむろに空を見上げた。風のない中、白色が音もなく降ってきていた。冷たい白色は、白い大地にさらに積もり、染めていく。
「……雪が降ってきたか」
降ってこないと思っていたのに。ルチフは手を止め、天を見上げた。ベアタも手を天に向け、白色に触れる。と、隣にいたオビスはのそのそと小屋の方へと去っていってしまった。
「……オビス達は雪が降っても外に出たままで大丈夫なのよね?」
「ああ、大人のオビスはな。子供のオビスは寒さに弱い、小屋に戻さないと」
ベアタの問いに答え、ルチフは子供のオビスへ向かって進む。ベアタもすぐに別の子供のオビスへと向かえば、小屋へと連れ戻す。
そうやって、牧場にいた子供のオビス全員を小屋に入れたのだが。
「――一頭足りない」
小屋の入り口でルチフはもう一度、中にいる子供のオビスを数える――やはり、一頭いない。
「外に子供はもういないわ! どこに行っちゃったのかしら……」
もう一度外を見て回ってきたベアタが、眉を顰めながら声を上げる。
――牧場にいないというのなら。
ルチフはスコップを放り出して柵へと走った。頬に冷たい雪が当たる。ベアタもわけがわからないという顔をしつつも、ついてくる。
柵に沿って、ルチフは早足で進む。牧場の雪をかきながら点検していたのだ、柵はまだ半分ほど見られていない――。
と、その部分を二度見して、ルチフは顔を歪めた。
一見すると何の問題もないように思えたが、その柵の下が、壊れてしまっていた。
そしてそこから雪原へ、足跡が続いていた。
「外に出たか……」
ルチフは額に手をあて目を瞑った。大人のオビスならば、柵が壊れていても出ることが滅多にないが、うっかりしていた。子供のオビスを小屋から出す前に点検しておくべきだった――。
「牧場の外に出ちゃったの?」
ベアタも気付き、胸に手を当てた。
「ど、どうしよう……外には危ない動物もいるんでしょ……?」
「狼に襲われる前に、見つけて連れ戻す」
すぐさまルチフは家へと走った。幸い、外に出てしまった子供オビスの足跡は残っている。だが急がなければ。雪が降ってきてしまっているのだ。
家の扉を破るかのように開け放つと、すぐ近くに置いてあった剣を手にした。ベアタが村に来て以来、自然と避けてしまっていた、剣。
そして家の外に飛び出すと、ベアタが顔を雪のように白くして、こちらを見ていた。
思わずルチフは固まった――何をそんなに驚いているのだろうか。こちらが驚くほどだ。
「――その剣」
と。
「その剣は、どこで? どうして……?」
言われて、すっと自分の顔が青ざめるのを、ルチフは感じた。
――ベアタはこの剣について、何か知っている?
この美しい鞘とその中に納まっている剣は、お前の死んだ父親のものだと、ネサに聞いた。
……ベアタは、やはり。
「――何でもないわ」
と、彼女は、何事もなかったかのように。
「もし狼が襲ってきたら……それで戦うのね? さあ急ぎましょ! あの子が心配だわ……」
まるで逃げるかのように、ベアタは雪の中を進んでいく。銀色の髪が冷たさに輝いた。
「――待ってくれ」
待ってくれ。何か知っているのなら――。
ルチフのその声は、震えていた。
――何を知っている? 何に気がついた?
凍りつきそうなほどの寒さであるのに、心臓が熱い。けれども。
――聞きたくない。
……聞いてしまえば、自分がばらばらになってしまいそうな気がしたから。
「――牧場の外は危険だ、狼がいるかもしれないんだし、下手したら迷子になる」
喉元まで出かかった言葉を、呑み込んで。
「お前は帰れ。雪も降ってきた、危険なことは、させられない……」
ルチフは剣を握りしめた。
そもそもベアタは、どこから来たのか、過去のことなど、一切を話したがらない。あたかも忌み嫌っているかのように。
――それなら、無理強いをするのは、よくない。
そうだ。彼女が言いたくないのなら。何でもないと言うのなら――。
少しの間、静寂が漂っていた。ルチフは俯いて。ベアタはどこか苦しそうな顔をして。
その瞬間、互いの思っていることが、互いにわかったような気がした。
やがてベアタは凛とした表情を浮かべた。
「私も、心配だから……私も一緒に行くわ。一人で探すなんて、大変でしょ? こんな雪の中」
断る理由はあったが、ルチフは断れなかった。
「わかった……でも、俺のそばから離れるな、じゃないと何かあった時、お前を守れない」
雪が降る中、二人は牧場を出た。子供のオビスの足跡を追い、何もない雪原を歩き出す。積った雪が足にまとわりつく。先を行くルチフは、ベアタがしっかりついてこられているか、時折立ち止まれば、振り返った――牧場にいた時から何となく察してはいたが、どうやらベアタは、雪の中を歩くのにあまり慣れていないらしい。距離が開いていた。茶色の帽子を被った少女は、下を見ながら必死に足を動かしている。
「ごめんなさい、急がなくちゃいけないのに……」
オビスの足跡は、降る雪にもう消えかかっていた。足跡の先を見ても、毛玉の姿は見えない。だが子供だ、そう遠くへはいけないはずだ――そう考えて、ルチフは、
「無理して転ぶんじゃないぞ……外に出た子供、もしかすると、倒れてるかもしれない」
牧場から出たのがだいぶ前で、戻ろうとして必死に歩いていたのなら。この寒さに、疲労もあるはずだ。倒れていても、おかしくはない。
ベアタはやっと、ルチフの後ろまでやって来た。
「早く見つけてあげなくちゃ……死んじゃうわ――」
その時だった、ベアタが雪に足を取られ、倒れかけたのは。
とっさにルチフは手を伸ばし、その身体を支えた。けれども支えきれず、ルチフはベアタと二人で雪の中に倒れてしまった。冷たい雪が頬に触れる。服や靴の中に雪が入ってきて冷たい。
そして――覆い被さるようにして自分の上に倒れた、ベアタの存在。
ベアタは、温かかった。
「あっ、ああっ、ごめんなさい……」
倒れ込んだベアタが、両手を冷たい雪について身体を起こそうとする。長い銀髪がまるで幕のように垂れた。赤いペンダントも、宙で揺れる。
その中で、ルチフはベアタの青い瞳と目が合ってしまった。
銀髪に青い目の人間が、他にもいる。確かにそこにいる。生きている。温もりを感じる。
……その時、自分がどんな表情をしていたのか、ルチフにはわからなかった。ただベアタはきょとんとして動きを止めていた。
――泣きそうな顔をしていたのかもしれない。
まるで自分がここにいてもいいと許されたようで。
「……ニヘンさんに、新しい上着を作ってもらえ。その格好だと、やっぱりまだまだ寒いだろ」
やっとルチフは目をそらした。けれどもベアタは上に乗ったままで。
「……はやくどいてくれ」
「あっ、ごめんなさい……」
ようやくベアタは身体を起こした。続いてルチフも身体を起こし、服についた雪を払った。しかしベアタはじっとこちらを見たままで。だからルチフは、
「……ペンダント、髪の毛が引っかかってるぞ」
ベアタの胸元にある赤い輝きが、目に刺さるようだった。言われてベアタは慌ててペンダントから髪の毛を解いた――妙に赤い石だ。まるで赤い氷のような石。
――故郷から持ってきたものなのだろうか。
だがもうそれ以上をルチフは考えなかった。聞きもしない。知りたくない。
――いや、知りたい。
でも。
……ふと、ベアタを見れば。
遠くにある絶壁を見上げていた。雪が降り、白くかすんだ向こうを、見つめていた。
――オビスを見つけないと。
「ほら、気をつけて歩けよ」
再びルチフは歩き出した。もう、オビスの足跡は消えてしまっていた。けれどもどの方角に伸びていたかは憶えている。その方角へ進む。ベアタも無言で進む。
――いまさら、自分自身について知って、どうするのだ。
ベアタは話したがらない――ならば、それでいいではないか。
深呼吸をすると、冷たい空気に肺が痛むようだった。ルチフはずれた帽子を、被り直す。
けれどもそこで、ルチフは立ち止まった。剣の柄を、握る。
――何か、聞こえた。
「動くな、静かに」
つられるようにして立ち止まったベアタにルチフが言えば、ベアタは息をも止めるかのように身をこわばらせた。ルチフは耳をそばだて、辺りの白さに目を凝らす――間違いなく、音がした。何かがいる。子供のオビスか。それとも。
目の前に広がるのは、白だけの世界――オビスの茶色も、狼の灰色も見えない。
その白さの一部に、違和感があった。積もった雪の、一部。雪ではない、白さに溶け込んでいるけれども、別の物だ……。
帽子――白い帽子。
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