白木蓮が香る夜

ファーロの宿屋の窓からは、小麦畑と白木蓮の樹が見て取れた。手を伸ばせば届きそうな女の掌のような花は、くらっとするような香りを放ちつつ風に吹かれてふんわりと舞い落ちていく。ハリーもいるからと夕食は固辞したが、ドノバンの勧めで夕食を共に取り、朝は逢えたら逢いましょう。と別れた。確かにいい縁だった。そう思いながら、ジャンルードはブドウの蒸留酒、「マーレ」を口に含んだ。これもまた『落ち人』の遺産。ブドウの絞りかすを再発酵したものを蒸留させて造るブランデーだ。もったいないと『落ち人』が言ったことから作られ始めたその酒は、ワインよりも味も香りも強く、慣れるまでは口の中でむせるほどに芳香を放ち、焼き付く。むせずに飲めるようになった時、『大人になったな。』と言ってくれたのは優しい笑顔の父上だった。


「デアフィールドに入ってきていた情報だと、アレンはお前を飛ばし、フェルに魔伝バトバードを飛ばした後、まだ目が覚めていない。でも薔薇姫アリステアとフェルがいればクリスは問題ないと俺は思う。問題は、誰が神官長を殺害し、お前に罪を着せたかということだ。最奥の間には王族と神官長しか入れず、氷魔法を使えるのはお前だけだからな。それに陛下とクリスがおかしいのが貴族連中にも伝わってて、とにかくお前を表立って探しているのは王直属の近衛だけだって話だ。軍を動かすとなると大ごとになるからな。」

「それでも俺を殺したければ軍を出すのが一番のはずだがな。」

「お前を軍で追えば、バクストンとの全面戦争になる。それだけは皆避けたいのさ。正直、王軍とバクストトンの私兵なら、バクストンに軍配が上がるよ。うちでも勝てねぇ。」


「『武のデアフィールド』と呼び声の高いお前の家でもか」

「何言ってんだ。相手は国境とワイバーンすら出る山脈の守り人の集団だぞ。実戦経験が違いすぎる。個人なら俺でなんとか隊長くらいは行けるだろうが、現当主に勝てるやつは今のところこの国にはいねぇよ。」

「伯父上に感謝だな・・・。」


ハリスは受け取ったマーレのグラスをくいっとあおると、


「さて。エミリオ。明日からどうする。俺はこのままマノアから順にバクストン領で聞き込みをするのが最良と思うが。」

「マノアか・・・。」


辺境の街マノア。

堀で囲まれた伝統的なバクストン領特有の防衛都市。ファーロまではデアフィールドの牧歌的な小麦地帯の雰囲気がただようが、マノアからはガラッと雰囲気が変わる。魔物と大型獣の出る確率がぐっと上がるからだ。


「あそこはカイド伯父が統治していたはずだ。この姿は知らないはずだが。巻き込むことにならないだろうか。」

「王子姿でさえ、生で見たことないんだろ。カイド様と言えば、王都には一切来ないからな。奥方が平民上がりの冒険者だからという話だが。」

「あぁ。バクストン家は「色付き」カラーズが多いんだそうだ。」

「それもまた強さの秘訣か…」


「唯一」を見つけ出したとき、男は真の力を得る。それを地で行くのがバクストンだ。


「でな。マノアの御領主様に、養女が来たそうなんだよ。」

「養女!?」

「それ以外の情報はないんだが、『落ち人』なら誰かの庇護下に入っていてもおかしくない。花は消えていないんだろ?」

「あぁ。」


右手の甲を見つめる友にハリスは明るく笑顔で言った。


「まずはその「養女」様とやらを調べてみようぜ。違ってたら、バクストンまで旅してまわればいいさ。王都の事はあの『腹黒メガネフェルデン』が何とかするにきまってる。あいつがクリスの事でなんとかできなかったことがあるか?」


ハリスが励ますように肩をたたく。ジャンルードはつくづくこいつが俺付きでよかったと感謝した。

とにかく、状況が解らない以上、自分は唯一の彼女を探して保護しなければ。自分よりも寄る辺よるべのない身の上なのは明らかだった。今頃何しているのだろう。何も解らないにも関わらず、王宮で対峙してきた貴族令嬢たちより心が乱される。守ってやらなければ。と心が急く。これが唯一の力なのか。とジャンルードは恐ろしくもなった。好きになれなかったら。間違いだったら。それなのにこんなにも心が乱されるのか。


「なあ。俺なんかを好いてくれるのだろうか。『落ち人』の彼女は。」


――はぁ!? 何言ってんだ。こいつ。

ハリスは目の前の『冬の宵闇の湖』『氷の貴公子』と評される美貌を持つ友を見た。クリスと人気を二分しているにもかかわらず、他人の前ではめったに笑わず距離を取るのだ。この男は。令嬢が自分に寄って来るのは、地位と金と家のためだと思っている可哀想な男。全く。神々も酷なことをなさる。


「好きにさせるんだよ。そしてお前も構えずにちゃんとその子を見ろ。今はお前は地位も金もない。ただのだからな。」

「そうだな。そうしてみる。」


マーレと白木蓮の芳香で、少し酔ったようだ。あきれたように笑う友に笑いかけると、ジャンルードは窓を閉めてベッドにもぐりこんだ。明日はまた徒歩だ。


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