第1章 2『人生の在り方』
男はゆっくりとこちらに歩いてくる。そして向こう
側のソファーに静かに腰を下ろし、盆を目の前のテー
ブルに置いた。
今は真ん中にあるテーブルを挟んでその男と相対している。
男はカップの一つを自分の前に置き、もうひとつのカップを持ち上げ美味しそうに啜 る。見るとカップの中には、紅茶が入っていた。
美味しそうな匂いが鼻孔を掠めるが、いきなり目の前に出されたものを飲むほど茂も無警戒な訳では無い。
男は、カップを置くとようやく口を開いた。
「思った以上に驚いてないようだな。いきなりこんな
場所に、連れてこられたってのに」
「驚いてはいるけど、なんて言うかあなたから恐怖が
感じられなくて」
そう茂は返答した。
「はは、人を見た目で判断するのか」
そして男は続けてこう言う。
「地上じゃ何回も会っているけど改めて挨拶しよう。
初めまして、河野茂君。俺の名前は、セルメント·ガ
ブリエル。よろしく」
そう男は、名乗ってきた。
* * * ** * * * * * * * * * * * * * *
「ええと、会ったことありましたっけ?」
「まぁ地上では、柊史也っていう名前だしな」
さすがにこの返答には、茂も驚きを隠せなかった。
「えっ?!史也?」
「そうだよ、まぁあれはあくまで仮の姿だけど」
「でも、顔とか全然違うし···」
「だから仮の姿だってば」
なんか狐につままれた感じがして頬を少し引っ張っ
て見るが、少し痛いだけで、やはり夢ではないらし
い。どうやら現実のようだ。そこまで考えると茂は、
当たり前の質問をセルメントにする。
「ここってどこだ?」
「ここは天界だな」
「は?!」
ついつい声を上げてしまった。しかしいきなり『天
界』という、現実離れした単語で、説明されたら誰だ
ってこんな反応するだろう。
そんな茂の反応など気にせずセルメントは、淡々と
話し始めようとする
「君にはこれからある人生···」
「ちょっとタイム!」
さすがにこのまま話を続けるとよけいパニックにな
りそうなので、茂は、咄嗟にセルメントの言葉を遮っ
て質問する
「まず天界って何か教えてくれ」
そうせルメントに尋ねた。セルメントは、言い忘れて
た様に
「悪い悪い、いきなり本題に入ろうとしちまった。確
かにその説明からしないと何がなんだか分からないよ
な」
そう謝ってからゆっくりと説明を始める。
「ええとここは、天界ってことは言ったよな。天界
は、君らの住んでいる地上とは、異空間なんだ。天界とは本来人の魂を浄化して次の肉体へ移す場所なん
だが、天界ってのは意外と複雑でな。それ以外に
俺らみたいな天人が住んでいて、自治や政治などもあ
るんだ」
そこまで聞いたところで茂は、ある疑問について尋ね
る。
「天界に住んでいる天人?天使じゃなくて?」
「ああそうそう、それよく誤解されているんだ。天界
に住んでいる一般人は、天人って言うんだ」
「はぁ、複雑だなぁ。じゃ天使ってのは?」
「天使ってのは、言わば天界の軍事機関さ」
「軍事機関?天使が?」
「そうさ。君の想像と違ったかな?」
「全然違うな。天使っていえば輪っかが頭にある天国にいる架空の種族だと思ってたから。現実にいたってだけで驚いているのに、その上軍事機関だなんて」
「はは、まぁそうか」
セルメントは茂に軽く笑いかけるとまた、紅茶を啜る。
茂は、やはり紅茶には手をつけず、セルメントに質問をする。
「ええと、それで俺になんの用なんだ?」
その瞬間セルメントから笑みが消え真剣そうな面持ちでこちらに話し始める。
「最初にいでた通り君にとても大事な話があるん、
だ。そう、これからの君の人生のあり方を決めるほど
重要なことがね」
茂は、唾を飲む。次にセルメントが言う一言が本当
にこれからの自分の人生のあり方を決めるものだとい
う確信があった。それは、セルメントの雰囲気から分
かる。 笑い飛ばしたりは、決してできない事柄が、これからセルメントの口によって紡がれるということ
が。
セルメントは、ゆっくりと口を開いて茂に向かってこう言った
「君に天使になって欲しい」
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
突然の言葉に茂の体は、突然硬直した。そして脳がフル回転で働き出す。
(天使?俺が?ただの人間でしかない俺が天使に?まさかそんなこと···いや、もしかしてなんか力が眠ってるとか?その才能が見込まれてここに、というか生まれて。でも天使になるって人間を超越するってことだぞ。悪くはない···いや、そんなわけないだろう。そう、これはきっと夢だ、いい夢を見てるんだ。こんな都合のいい話あるわけない。いや、さっき頬引っ張っても大丈夫だった···)
「おーい、大丈夫か?」
向こう側に座るセルメントが手を少し振ってくる。そしてようやく我に返った茂は
「ええと、なんかの冗談ですよね。こんなただの人間でしかない僕が天使なんて。それに天使って軍事機関なんでしょう。僕がそんな戦えるわけないじゃないですか」
「いや、それが君はただの人間ではないんだよ。人間界では、気づかないだろうし、というか気づけないし。でもね、君は普通の人間とは、かけ離れるくらい天使になる適性があるんだ」
「適性ですか?」
「そう、天神だって誰しも天使になれる訳では無い。強い術や技を駆使して戦うのさ。そして君には、何らかの潜在能力が眠っていることが天界からわかった。だからこうして呼びに来た」
「そうですか、ちなみにその天使への適性がある人ってどのくらい地上にいるんですか?」
「どうだろ。今地上に五人でもいたら奇跡と言えるくらいの確率さ」
「え?!」
その数の少なさに茂は、唖然とする。地球上に人間七十億人くらいだからおよそ十四億分の一くらいになる訳だ。その一人がなんと自分ということに、茂はついつい自分の掌を見てしまう。この普通の人間だと思っていたこの体には、とてつもない奇跡が秘めていたことにまだ、それほど実感出来てはいないが、どうやらこの状況を見る限り本当だと確信せざるを得ない。
「だから君にこう頼むんだ」
セルメントは、そう言う。
茂は、悩む。いくら自分にそんな適性があるとしても、やはり少しばかり恐怖を感じる。天使になるということは、人間では無くなるということだろう。そのうえセルメントの言葉から、能力という言葉が出てきた。ここに突然転移したのも踏まえると、この能力は、想像通りだとすれば人間ではなくなるどころか人間を超越することになる。それはつまり今日まで積み上げてきた『日常』という安心がなくなるかもしれない。そんな不安もある。しかしせっかくのチャンスを無下にするのもなんか勿体ない気もする。なんせ十四億分の一並の幸運かもしれないからだ。
そう悩んでいる茂にセルメントは、
「そう思い詰めなくてもいい。別にすぐ返事を聞こうと思っているわけではないから。なんせ人生の一大選択だ。たっぷり考えるのがいいだろう。そうだな、明日朝返事を聞きに来るから」
(それを先に行って欲しかった)
茂は、そう思うも
「わかりました」
と答えた。セルメントは、満足そうに頷くと
「じゃ一回地上に返すから明日また。時間軸は同じだから今は一限目が始まった頃かな。あ、あと今日は、地上には行けなそうだから地上の俺は、スペアロボットなんでそこんとこよろしく。このこと話しても意味ないよ。それじゃ」
「あ、スペアロボットって何」
そう言いかけたところで茂の意識はとおざかっていった。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
気がつくと茂は、シャープペンシルを片手にノートを書いていた。現国の時間だった。先生が教壇で話している。
たった今戻ってきたはずなのになぜだか、この光景に何ら違和感を覚えない。ついさっきまでいきなり天界って場所に連れていかれて戻ってきたはずなのに。
(夢だったかな)
そう一瞬思ったがすぐに否定する。さっきまで確かにセルメントと話した。とても鮮明に残っている。あんなハッキリ記憶に焼き付く夢などあるはずがない。そう思えるはずか。
しかしそれとは裏腹に、何故か天界に連れていかれてから今までの記憶がある。体験した感触などは、少ししか残ってないが、記憶だけある。今まで体験したことない、不思議な感じだった。
(天使か···)
そう茂は、心で呟く。とても非現実的な話。しかしセルメントは、確かに自分を天界に来させたり、地上に戻すような超常的な力を使っていた。
(もし天使になったら、ああいうことも出来るんだろうか。でも今の日常は、どうなってしまうのだろう)
茂の心は、期待と不安で渦巻く。授業など全く耳に入らずただ窓の外を見つめてそんなことを考える。
現国の先生が自分を注意していることも知らずに。
* * * * * * * * * * * * * * * * ** *
部活が終わり、帰宅した茂はベットに倒れ込む。とても考え疲れた一日であった。ひとつのことについてこんなに悩んだのは、初めてだと茂は思う。まぁ人生の一大決断の時だから当たり前だが。
ここまで来ても茂は、結論を出せずにいた。今の日常をとるか。未知なる領域に踏み込んで、今までの日常に背を向けるか。たったの二択。されど人生のあり方を決めてしまうほどの強烈な意味を持つ二択。
夕食を食べる時も、入浴をしている時も、明日の学校の準備をしているときでさえずっとこのことを考え続けた。そしてついに茂は、悩みに悩んだ言うことを決めた。
それは、結論と言っていいものかは、分からなかったが、とりあえず決まった。しかしよくよく考えてみれば、当たり前の言葉にも思えるが、それより明日セルメントに返答できる答えが見つかったことに茂は、安堵していた。一日も時間を与えられたのに何も返答できないのは、とてつもなく失礼だということは、茂でもわかった。
そして、その安堵に包まれながら茂は、寝床に着いた。
その数時間後に朝日は、ゆっくりと東の空から昇ってきた。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
その運命の朝も、茂はいつもの様に階段から降りて一階の居間に入る。両親が海外で働いてる茂にとって、いつも家では一人が普通だ。しかし、その日は居間に一人先客がいた。
「おはよう、まさか一人暮らしだったとはね。おかげで居間に簡単に入れたよ」
「それ、住居不法侵入罪ですよ」
「堅いこと言わないでくれよ」
そう軽口を叩くのは、もちろん茂の日常を一気に変えた張本人、セルメント・ガブリエルである。
「それで昨日の質問の答えは用意してくれたのかな?」
そう予想通りの質問をしてくるセルメントに対して茂は、昨日出した返答を言う。それは、決して結論というわけではなかったがそれでも言う。
「えっと、一ヶ月間天使の体験とか出来ませんかね?」
こうして茂はこの日の朝、非日常へ半歩だけを踏み入れた。
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