105 東山暁VSカル・ヘムズワース 3分1ラウンド ボクシングルール

 ラウツカ市ギルド、その中庭の一角。

 格闘トレーニング用のグローブを装着したアキラとカルが、お互いに体を動かしている。


「左を打った後も、右の防御の手を下げないで。しっかり顎先を守って」

「うん、わかってる」

「いいねえ、その調子。もう少し左の肩をグッと入れて拳を内側に捻ってもいいな」


 カルの伸びのある左ジャブをチェックしパンチを受けながら、うんうんとアキラは満足げに頷く。

 パンパン、パパンと小気味の良い打撃音が中庭に響く。


「ちょっと心配だったけど、大丈夫ですかね……?」


 仕事の小休憩としてお茶を飲みながら、その様子をリズが見ている。

 アキラとカルが今現在、微妙な空気であるだろうということはリズも予想していた。

 しかし、少なくともアキラの方はにこやかに、いつも通り優しくカルに格闘技を教えている。


 ギルドを狙った市内での不穏な動きと、先日の魔物の襲来。

 気が休まる余裕のない非日常を送っていた彼ら彼女らに、平穏な日常が戻ったかのような空気だったが。


「やあ、お邪魔するよ」


 そのギルドの中庭に、衛士のフェイが入って来たことで、空気が一変したのをリズは感じた。

 と言うより、カルの周囲だけ、空気がピンと張りつめたのだ。


「おはようございます、フェイさん」

「ああ、おはよう、リズ。ふむ、アキラどのとカルが稽古をしているのか……」


 フェイとリズは二人、中庭のベンチに腰かけて茶を飲み、アキラとカルの練習風景を眺める。

 そのとき、アキラに指導を受けていたカルが動きを止めて、言った。


「アキラ兄ちゃん、勝負しようよ」


 突然言われてアキラは面食らったが。


「試合形式(スパーリング)か? まあ、たまにはいいけど」

「俺は本気だよ。だからアキラ兄ちゃんも、本気で来てくれよ。じゃないと怪我するぜ」

「ええ? お前、なに言って……」


 どうしたものかと困惑して、思わずリズやフェイの方を見てしまうアキラ。

 

 フェイは、胸が詰まっているような、辛く苦しそうな声で、しかし力強くアキラに言った。


「アキラどの、私からも頼む。受けてやって、くれないか」


 フェイとアキラ、そしてカルの間の空気が、ピシリと固く音を鳴らしたようであった。

 言葉通り、カルは本気なのだ。

 そしてアキラはこの段階になって、初めて気が付き、自分を恥じた。


「カル、お前、フェイさんのこと……」

「うるさいな! さっさと構えてよ! それとも俺が怖いのか!?」


 気迫か、それとも虚勢か。

 大声を出したカルを前に、アキラも真剣な面持ちになった。


「わかった。勝負だ」


 アキラはそう言って、カルと少し離れた位置に立つ。


「リズさん、時間を数えてもらってもいいかな? 3分1ラウンドで」

「わかりました。二人とも、怪我しないように、気を付けて」


 アキラに頼まれたリズは、やれやれと言った表情で軽く溜息を吐き。


「じゃあ、始めてください。カーン」


 自分の声で、ゴングの鐘を鳴らした。


「行くぞッ!」


 始まるや否や、ばっとカルが駆け出してアキラに向かい、距離を詰める。


 彼らが練習していた中庭の一角は、ちょうど四辺を花壇に囲まれたつくりになっている。

 花を踏まないように戦うのであれば、必然的に行動範囲は狭まり、それはまるで格闘技のリングのようでもある。


 その限定された空間で、一足飛びにカルは互いの距離を詰めようとしたが。


「ふッ!」


 ばちぃん! と音高く、カルのグローブが打ち据えられた。

 アキラの高い身長、長いリーチによる左ジャブでカルの突進は完全に阻まれた。


「フェイ姉ちゃんとやってたの見てたから、それは知ってるんだよ……!」


 カルは自分の上体を左右に素早く降り、刻みながらアキラの側面へ回り、懐に潜り込もうとするが。


 バスッ、バシンッ、と重く響くアキラの左右に打ち分けられたジャブにより、まったく近付くことができない。

 アキラは自分の左手を、あまり高く、固く構えずに、胸の前で力を抜いてゆらゆらと動かしている。

 リラックスしてカルの動きをよく見ることで、上下左右のどこへでも素早くジャブで迎撃できるようにだ。


「こう狭い場所では、カルの体でアキラどのには……」


 二人の戦いを見て、フェイはこれからの経過を予測する。

 カルにとって、四角く囲まれた空間は「自分の逃げ場」というアドバンテージを大きく損なう場所でもある。

 これが野原のように、あるいは街中といった広い空間なら、カルの走力でいくらでも逃げられるだろう。

 そうして持久戦に持ち込み、アキラの体力が尽きたところで仕留めれば事足りる。


 しかし、四角いリングにそんな逃げ場はない。

 なにより、逃げようとしてもアキラの長いリーチによって、すぐに隅に追いやられてしまう。


「どうしたカル! 自分から吹っかけておいて口だけか!?」


 本当に珍しいことに、アキラの方からカルを煽った。

 執拗に、重く、早く、長いジャブをまき散らしながら、カルの逃げ場を奪いながら。

 じりじりと庭の隅へカルを追いやり、アキラは叫ぶ。


「お前の本気はそんなもんか!」


 カルを侮ってこのようなことを言っているわけではない。

 本当に、本気をカルに出させるために。

 カルの心がわかった以上、それを本当の意味で燃焼させるために、アキラは言葉と拳を放つ。


「クッソぉ!」


 痺れを切らしたカルが、相打ち覚悟で右ストレートを放つ。


「おっと」


 しかしアキラは非常に小さな動き、自分の左肩を少し顔の方に寄せただけで、肩と上腕でのブロックでカルの攻撃をいなし。


「がら空きだ!」


 そのまま、右ストレートを打って防御を失ったカルの脇腹に、ボディフックを叩き込む。


「ん、ぐぅ……」


 グローブ越しとは言え、アキラは本気に近い力で打ち込んだ。

 自分より一回り以上も体の小さいカルに、手加減することなく、最高の肝臓打ち(レバーブロ)を放ったのだ。


「カル! 構えろ! 10数えて構えられなければ、俺の勝ちだぞ!」

「ちっくしょお……負けねえ、負けねえかんなぁ!」


 気合を入れ直して大きく息を吐き、諦めずにカルが向かってくる。

 体を左右に振って、今度は自分からジャブを打って行く。

 アキラはカルのジャブをグローブで叩き落とし、カルの防御の隙を作り、そこに拳を叩き込む。


 ドス、ドスンと音が響くたびに、見ているフェイも痛みを感じているかのように、顔をゆがめた。


 カルはまぎれもなく運動、格闘のセンスを持っている。

 それはひょっとするとフェイすらも上回っているかもしれない。

 しかしルールの定められたこの状況において、体格差と経験の差と言うのは、非情なまでに残酷であった。


「あと10秒です!」


 カルはまともな打撃を一発も、アキラに当てることなく時間は過ぎて。


「にゃろぅ!」

「うぉっと」


 カルの渾身の左フックが空振りし、そのままカルは足をもつれさせて、地べたに倒れた。


「終わりです。カーンカーン」


 リズが終了の合図を告げた。


 最後の一撃、かけ声がなければ、大きな予備動作がなければまともに喰らってしまっていたな、とアキラは思った。

 気持ちの乗った良いパンチを、カルが最後まであきらめずに打ち続けたことは、相手をしたアキラが一番、よくわかっていた。


「ナイスファイト。頑張ったな、カル」

「う、うう……あと一年あれば、ぜってー、勝つし……」


 仰向けに倒れたまま、カルはグローブをはめた両手で顔を隠した。

 誰にも見せたくない顔になっているからだ。


 そのとき、中庭にパタパタと駆けて入ってくる足音があった。


「か、カル! 大丈夫!? 痛いの!?」

「え、ゆ、ユリーナ!?」


 カルと同じく、孤児を保護している施設で暮らしている仲間の、ユリーナと言うエルフの少女だった。

 だらしなく寝転がっていたカルは、急に電池が入ったかのようにびょんと跳ね起きた。


「ど、どうしたの? カル、泣いてる……」

「べ、別に泣いてねーし! 砂が目に入っただけだっての!」

「アキラお兄さんに、カル、いじめられたの……?」


 ユリーナという名のエルフ少女にキッと睨まれて、アキラは全力で首をぶんぶん横に振った。


「やれやれ、ですねえ」


 その様子を見てリズが優しく微笑みながらお茶を飲み。


「そうだな、まったく、男って言うのは……」


 くっくっく、と今日初めての笑顔を、フェイも見せた。



 カルと行ったスパーリング、もとい勝負以降、アキラの稽古も一生熱を増した。

 男同士の真剣勝負を経て、なにかしら感じ入るものがあったのだろう。


 そのおかげもあってか。

 後日にラウツカ市の公営遊戯会場で開催された武芸大会、その予備選において。

 アキラは自分の技を見せる演武部門と、素手の試合を行う組み打ち部門において、最優秀の成績を収めた。


「まさか本当に優勝してしまうなんてね。正直、かけらも期待はしていなかったんだけど」

「マジ、こいつろくな死にかたしねえ……」


 優勝したアキラを、ロレンツォの失礼な物言いが迎えた。


「男臭い船の中で押しあいへしあいして、わけもわからず死ぬような死にかたでなければ、なんでもいいさ」


 つまらそうに、ロレンツォはそう言った。 

 どうやら地球での彼の死因は船の難破か、もしくは海戦での戦死か、とアキラは思い、尋ねる。


「ひょっとして、ロレンツォってジェノヴァと戦争しに行って、こっちに飛ばされてきたの?」 


 彼の故郷、ヴェネツィア共和国は地中海の覇権、権益を争い、ジェノヴァ共和国と争った歴史がある。

 中には悲惨な闘いも数多くあり、そのうちの犠牲者の一人がロレンツォである可能性は高い。


「どうでもいいじゃないか、そんなことは。とにかく旅支度を始めるとしよう。おまえさんと二人旅なんておいらは絶対にゴメンだからね。せめてもう一人、麗しい女性を捕まえないと」


 ロレンツィオの方は、どうやらアキラと個人的な話をあまりしたくないようである。


「みんな、仕事があるからお前の相手なんかしないよ……」


 とアキラは思ったのだが。


「首都に行くなら、あたしも連れて行きなさいよ!」


 なぜかしっかり者のエルツーが、そう言って旅のお供に加わってしまった。

 彼女はラウツカ近郊からあまり離れた経験がない。

 なので、無料で首都まで往復できると聞いて、実は居ても立ってもいられなかったのである。


 さて、冒険者の仕事を少し休むことにはなってしまうが。

 アキラは新しい経験に不安半分、期待に胸を躍らせる気持ち半分で向き合うことにした。

 

「ところでエルツー、きみにお姉さんとかはいるのかい? きみによく似た女性をこの前、街で見かけた気がしてねえ」

「は? 別に、いないけど……従姉妹なら近くに住んでるわよ」

「あ、きっとその人だね! 髪の色や面立ちが実に似ていた! ぜひともいつか、紹介してもらいたいなあ」

「いや、従姉妹は二人とも、あたしと髪の色全然違うけど……」

 

 ロレンツォの戯言に付き合う時間が長い分、不安の割合が大きいかもしれないが。

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