87 捨てられて拾われた少年の、その後の話(3)

 翌日の午前。

 アキラは約束通りに孤児施設を訪れた。

 ラウツカの街中、政庁本部から見て北東にある、かなり大きな建物だ。

 寄宿舎つきの小さな学校、という雰囲気をアキラは感じ取った。


 ここで、親元に帰ることができない少年少女たちが、保護者代わりの役人たちに世話されながら、共同生活を送ったり、教育を受けたりしている。

 保護者役や教師役には、政庁の役人だけではなく民間からの志望者、いわばボランティアの人材も多い。


「やあ、アキラどの、早かったな」


 敷地中央にある大きな園庭に、フェイはいた。

 フェイもそんなボランティア活動で、施設の子供たちの相手をしている一人だ。

 そのときは小さな子供たちと追いかけっこをしたり、チャンバラごっこをして遊んでいた。


「どもども、おはようさん。約束通り、これ、持って来たよ」


 アキラはフェイの前に、格闘技練習用のグローブと打撃ミットを掲げて見せた。

 グローブは二人前あり、その一組を受け取って、フェイはまじまじと観察する。


「ほお、これなら思い切り殴っても、怪我をしないだろうな。座布団で叩いているようなものだ。訓練だけでなく、遊びとしてもいいんじゃないか」

「でしょ? 残念ながら子供用はないけど……」


 庭に十人ほど、走り回って遊んでいる子供たちを見て、アキラは少し寂しそうに言った。

 おもちゃのボクシンググローブなら、子供の遊び道具としても、たしかにいいかもしれない。


 いつかまとまった金を手に入れたとき、そういう物をこっそりと孤児施設に寄付しようか、などと考えたりした。

 タイガーマスク、もしくは伊達直人を名乗る匿名の人物が孤児院にランドセルを送る活動は、日本でもまだ続いているのだろうか、とアキラは思った。


「なにこれー。おっきなてぶくろー」

「おにいさん、だれー? フェイおねえちゃんの、なにー?」


 いつの間にか、アキラの足元に子供たちが寄ってたかって来た。

 奴隷として売られそうになった子たちが預けられていると聞いて、かなり心配していたが、どの子も顔色は良く、元気だった。


「ほらほらみんな、庭でのお遊戯の時間は終わりだ! 今日はこれから、数字の読み書きと計算のお勉強をする約束だろう?」


 パンパン、と手を叩いて子供たちに建物の中に入るよう、フェイが声をかける。


「おべんきょう、やだー」

「もっと遊びたいぃ!!」

「よーし、逃げろみんな! フェイ姉ちゃんにつかまったやつが負け!」


 大人しく言うことを聞かない子たちが、蜘蛛の子を散らしたように庭中を駆け回る。


「こらっ、待たんか! 言うことを聞け!」


 フェイはそれを本気で追いかけて、一人、二人と捕まえて、脇に挟む。

 たまにフェイのお尻や胸にタッチしようとする、スケベな子供もいた。

 捕まって持ち上げられた子供たちが、キャッキャと叫んで笑う声が、庭一帯にこだました。


「子供ってのは、どこでも同じだなあ……」


 その光景を眺めて、アキラはほんわかした気分になった。



 子供たちは、なんとか全員、施設の建物の中におさまった。

 建物の中では、フェイの養父母が子供たちに文字や計算を教えてくれている。


 火が消えたように静かになった庭園で、ふー、っと息を吐き、フェイがベンチに腰を下ろした。


「ご苦労さま、フェイさん」

「いやはや……子供たちのあの元気というのは、いったいどこから出て来るものなんだろうな」


 体力には自信のあるフェイだったが、子供の相手は疲れの次元が違うようだった。


「フェイさんも、きっと子供のときは、ああだったと思うよ」

「む……それは、否定できんが」


 黙って座ってお経を聞いていることなどが苦手で、すぐに騒いでしまった記憶が、フェイにもある。

 ともあれ、少し休んで体力が復活したフェイは、アキラと稽古を始める。

 暴れる子供たちにも決して負けていない、驚くべき体力と回復力であった。


 しかし。


「なんだか、しっくりこないな、この手袋は……」


 グローブをフェイに与え、アキラが構えてパンチを受ける、いわゆる「ミット打ち」をさせてみたところ。

 フェイは首を捻りながら、気合いの抜けた拳打を、ぽす、ぽす、と放つ程度。

 いつもの動きの切れや、気迫というものが全く感じられないのだった。


「こうか……? いや、こうじゃないな……」


 拳打の軌道を何度も確認し、そのたびにああでないこうでないとやり直すフェイ。


「わかるよ、グローブって慣れないと予想以上に、煩わしいものだからね」


 どうも、グローブをつけて殴る、という動作とフェイの体の使い方は、絶望的に相性が悪いらしい。

 皮革の中に綿(わた)を詰めた手袋、格闘技用のグローブというのは、重さが結構ある。

 拳が重いということは、例えば右ストレートをいつも通りに打とうとしても、重さでパンチの軌道が下がりがちになる。

 フックやアッパーなど、遠心力を働かせて回し打つパンチも、拳部分の重さが変わることでその軌道修正を余儀なくされる。


 拳の先だけが柔らかく重い、というのが、フェイの体にはどうも馴染まないのだろう。

 また、グローブを付けた拳というのは、言うまでもなく素手、裸拳に比べて、とても大きい。

 素手であれば相手のガードの隙間を縫って、急所を狙うパンチを打てたとしても。

 グローブが存在することで相手のガードの隙間を拳がすり抜けることは、格段に難しくなるのだ。


 フェイの拳は、体つきが細いこともあってかなり小さい。

 そのため、相手の急所を点の攻撃で突くことに彼女の技術は特化されている節がある。

 グローブを使った「面の拳撃」というのは、本当に彼女にとって、使いにくい技術であった。


「そうだ、綿の薄い、掌底の部分で殴ればいいんだな!」

「いや、それだと安全具としてのグローブの意味が、なくなるから……」

「むう」


 グローブでの拳打に慣れてくると、逆にグローブの重さを利用したパンチを打てるようになる。

 アキラは自分もグローブを装着して、フェイに見本を見せるため、庭の樹の前に立った。


「グローブ付けた重い拳だと、ジャブだけでも結構、相手を後ろに押し返す力が出るんだよ。こんなふうに」


 そう言ってアキラはリラックスして。

 前に構えた左の拳で、樹の幹にジャブを打つ。


 バン! と派手な音が鳴って、それなりの太さのある樹木が、細かく揺れた。

 もちろんこれはアキラの身長体重、腕の長さなどがあってのことでもあるが。


 さすがのフェイも驚いて言った。


「左の差し手(フェイは構えたときに前に出す方の手を、こう呼んでいる)は、防御用の手だろう? 軽く突いただけであんなに重い打撃になるのか!?」

「拳の軌道が下がらないように、真っ直ぐに、最短距離でね」


 アキラが長く習った格闘技は空手であるが、練習や試合にグローブを付ける流派の道場だった。

 また、空手でボクシングに負けないための技術、というのも訓練していたため、ボクシングに関して、ある程度はかじっているのだ。


「今はちょっとだけ腰の回転入れちゃったけど、本物のヘビー級の人だったら、もっとすごいだろうね」

「ふーむ、まずはその手袋をはめた状態で、いつも通りの軌道で突きが打てるようになる必要があるのか……」


 打撃鞭や木剣、棒や槍を武器として使うことも達者なフェイ。

 しかしそのどれとも違う、素手とも違う技術がグローブの拳撃にあることを、このとき知ったのだった。

 

 グローブを付けていても相手のガードをすり抜けることができる殴り方なども、アキラはフェイに軽く教えたりする。


「ふむ、拳を、ぐるっと、捻りこむように……錐(キリ)で穴をあけるような想像で……」


 いわゆるコークスクリューパンチである。

 フェイは拳を打つ時に、主に縦拳をメインに使う。

 コークスクリューのような拳の打ち抜き方は初体験であった。


 慣れない動作に四苦八苦していたフェイだが、元々の能力の高さもあり、だんだんサマになって来た。 


 アキラはミットではなく、今度はグローブ装備の状態で、改めてフェイのパンチを受ける。

 そのとき、アキラは両の拳で自分の顔の下側をガードする構えを取った。

 マイク・タイソンなどが得意とした、ピーカーブーと呼ばれるスタイルだ。 


「腹が、がら空きじゃないか」


 そう言ってフェイはアキラのボディを殴ろうとするが。


「残念、通らないぜっ」


 アキラはほんのわずかに肘を下げただけで、フェイのボディ打ちを防御する。

 フェイがグローブに慣れていないこともあって、どこを狙って攻撃しようとしているのかが、いつもよりわかりやすかった。


「む……あ、足を使って攻撃しては、いけないんだったな?」

「ダメです」


 アキラの左手が、ちょんちょんと小刻みにジャブを打つ。

 それをガードしたフェイは、予想以上の重さに驚いてかえって大きく距離を取る。

 アキラの懐に潜り込んで攻撃を放つのが、さらに難しくなる。


「とうっ!」


 業を煮やしたフェイは、彼女の必殺技である「一足飛び込みパンチ」を繰り出す。

 アキラの顎に放ったこの打撃をガードさせ、その上でがら空きになった胴体に攻撃を入れようとしたのだ、が。


「その技は、前に見た!」


 アキラはフェイの飛び込みを、ちょっと体を捻るだけの動作ですんなりと横に避ける。

 その動きに連動させ、フェイの横っ面に左フックをぶちかまし……はしなかった。

 当たる寸前に、アキラは打撃を止めたのである。


 しかし、誰が見ても文句なしの、見事な一本であった。


「……おおぅ」


 フェイは悔しさよりも、驚いていた。

 ただ、慣れない手袋を両手にふたつ、はめただけ。

 そして脚での攻撃や投げ技、関節技が封じられているというだけなのに。


 こんなにも、自分の攻撃が通じない。

 こんなにも簡単に、アキラから一本取られてしまったことに、素直な驚きを感じていた。


「くぅ~~~~~~~、よっっっしゃ!!」


 そしてアキラは、心からのガッツポーズを放った。

 フェイが未経験の、ボクシング的なルールでの稽古という、なかばズルに近い勝負であっても。

 完璧に、一本取ったという達成感を味わっていた。

 喜ぶなと言う方が、無理な話であろう。


「アキラどの、これは三本勝負だったよな?」

「そんな話は、ないです」

「私の中では、そう決まっていたんだ。言うのを忘れていたな、すまんすまん」


 孤児院の子供たちにも負けないようなワガママを言う。

 フェイは結局、自分が一本を取るまで、アキラを寸止めスパーリングに、付き合わせた。

 しかしフェイが一本取るまでに、アキラは十回は勝っていた。


「未知の技術というのは、やはりいいものだな……」


 規制が多いとはいえ、格闘技、武術でこんなに負け続けたのはフェイにとって本当に、久々のことだ。

 ボクシングも将棋などと同じく、天才の先人たちが長い時間をかけて研鑽し、技術体系を開発していったものだ。


 なんでもありの真剣勝負なら鬼のように強いフェイである。

 アキラと百回やっても負けることはないだろう。

 しかし自分の知らない分野では、やはり経験者にはかなわないのだ。



 その様子を、屋内での勉強課題を早めにこなしてしまったカルが、途中から見ていた。

 今まで、カルは無言でアキラとフェイの稽古を観察していたのだが。


「頭を振りながら近付けばよくない?」


 休んでいるフェイのもとに寄って、そう言った。


「おお、カル。見てたのか。勉強はどうした?」

「もう終わっちゃったよ。あの問題、子供向けだったし」


 カルは保護された子供たちの中でも年長組である。

 基礎的な教養は最低限、身に付けていたカルにとって、課題は難しいものではなかったらしい。


「ふむ、それは大したものだ。それで、頭がどうしたって?」

「いや、フェイ姉ちゃんがアキラ兄ちゃんに攻撃を仕掛けるときさ。近付きたいけど殴られるのが嫌だったんでしょ」

「うむ。アキラどのの長い腕による防御は、まるで要塞の城門、そこから繰り出される大弩や投石器のようだったな。まあなんとか突破したわけだが」


 アキラが疲れ果ててきた頃にやっと一本取っただけのフェイだが、ドヤ顔である。


「それなら、殴られないように頭を動かしながら、近付けばいいじゃん」

「ははは、わからないくせに、生意気を言う奴だな。そんな簡単なことであるものか。なあ、アキラどの?」


 フェイがそう話を振った先、アキラは愕然としてカルを見た。

 カルの見解は、ボクシングでの最適解の一つだったからだ。


 相手のジャブが厄介なら、上体を左右に揺らし、的を絞らせないで足も使って距離を詰めて行く。

 それは体が小さい相手がリーチの長い相手の懐に踏み込んで戦う際の、効果的なセオリーの一つである。 


「カル、ちょっと、グローブはめてみようか」

「えぇー……めんどくさ」


 興奮しながら、アキラはカルの両拳にグローブを無理矢理に近い形で、はめさせる。

 そしてアキラはカルと正対しミットを構え、こう言った。


「さっきまで俺とフェイさんがやってたのを見てたら、なんとなくわかるだろ? ちょっと、好きなように打ってみてくれ」

「いいけど……」


 ぱんぱん、ぱんぱん、と左右の拳をカルは打つ。

 その中に、明らかに目を見張るパンチがいくつかあることに、アキラは瞬時に気付く。


 アキラが稽古中に放っていたような、予備動作の少ない左ジャブと。

 フェイが時折見せた、グッと踏み込んで力強く放つ、コークスクリュー気味の、右ストレート。


 カルは、二人の稽古を見ていただけで、そのふたつのパンチを美しいフォームで、見事に真似してみせていた。


「いいぞ~カル! 伸び伸びした左だ! 肩も柔らかい! おめえの左は世界を獲れるぜ!!」


 なにかが乗り移って、すっかり興奮してアキラは叫ぶ。

 格闘技やボクシングをなにも知らないような人間に対し、好きに殴れと指示をしたら。

 普通は、利き手の大振りのフックを多用するものである。

 自分の利き手で思いっきり殴った方が強いだろうと多くの人は思うからだ。


「いや、なに、世界って……いつまでこれ、続ければいいの?」


 しかしカルはそうではなかった。

 短い間の観察で、これが拳しか使えない、当たってもグローブが衝撃を吸収するルールで行われていること。

 そして大振りのパンチは避けられやすく読まれやすいということを、カルはすぐに理解したのだ。


 アキラの多用している、牽制のジャブ。

 そして一瞬の隙を見逃さずに突く、最短距離の利き手のストレートがきわめて有効な戦術であると、カルはあっと言う間に知ったのだ。


 パンパン、パンパンと小気味良い打撃音がその後もこだまする。


 そのうちフェイも、驚き魅入って、言葉を失っていた。

 ちらり、とフェイの頭にある思いがよぎった。


 この世界、リードガルドに転移してきて、今までにはじめてだ。

 自分よりも体がしなやかで、魅了するほどの動きにキレがある人物を、目の当たりにするのは。


「そこで左フック!」

「なにそれ、知らないし……」


 アキラも、いつまでもカルのパンチを、受け続けたいとまで思ったのだった。

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