50 また日が昇りましたね! 新しい一日の始まりです!

 暗い。

 暗い闇の奥底へ、アキラは自分の心身が沈んでいくのを感じていた。


 どこへ向かうのか、その先になにがあるのかはわからない。

 しかし、一つだけわかっていることがあった。


 このまま沈み切ったら、もう浮かんでこられないことを。

 二度と、元の所へは戻れないのだということを。


「戻る? どこへ?」


 アキラは自問した。

 わからなくなっていた。

 はて、自分は元々、どこにいたのだろう。


『お前に戻るところなんて、どこにもないさ』


 低く、重い声がアキラに語りかける。

 地獄の底から発せられているような言葉の響きだった。


 この世界のどこか遠くにいると伝わる魔王が、瀕死のアキラの心に忍び寄り、話しかけているのだ。


『周りの奴らも、お前をいいように使っていただけだ。用無しになったと思われれば、すぐにゴミクズのように捨てられるぞ』


 呪いのような言葉だった。

 アキラはしかし、その言葉を聞き入れなかった。


「仮にそうだったとしても、俺はあの人たちのことが、好きだからな……」


 アキラの心の中にあるのは、それだけだった。

 たったそれだけのことで、アキラは自分の心の中に、魔が差しこんで来るのを防ぐことができたのだ。


『ちっ、つまらん。こいつはダメだな』


 捨て台詞を吐いて、魔王はアキラの心から出て行った。

 アキラの心の持ちようは、魔王にとっては毒薬のように不愉快なものだったから。



 暗く孤独な、なにも見えない寂しく悲しい空間で、アキラは必死にもがいた。

 これ以上、落ちないように、沈まないように。

 自分が戻るべき、どこかを目指して。


「ここですよ、アキラさん」


 優しい声が聞こえた。

 安らぎ、気持ちが穏やかになる声だった。


「ここだ、アキラどの」


 強い声が響く。

 不思議と胸が熱くなり、元気になった。


「ここだよ、アキラくん!」


 明るい声で叫ばれる。

 目の前が開けて、ぱあっと晴れるようだ。


「ああ、きっとそこが、俺の帰る場所だ」


 アキラは思った。

 しかしアキラには、そこへ行くことができなかった。

 踏み出そうにも、足は地についていない。

 最初の一歩を定めることが、できない。


『ならば、我がそなたの足場になろう』

「え?」


 骨身にまで響くような、太く厳かな、声。

 

『我との約定、ゆめゆめ忘れたとは言うまいな』

「いえ、あの、スミマセン、覚えてないです」

『……蛇だ』

「え」

『深く暗き穴の底で会ったであろう。我は岩と水の神、天に昇らぬ、湖に生きる龍の王なり』

「ああ、洞窟の蛇神さま!」

『この我を忘れるとは……』

「いやいや覚えてますよマジで! 蛇の神さまがどうして洞窟に封じられたか! 俺そのことについて、結構考えてたんスよマジでマジで!」

『ならばよい。その足を踏み出して、そなたの至るべき所へと進むが良い。そして、務めを果たすのだ』


 声に促され、アキラは一歩を踏み出した。

 上を見上げると、光がある。

 跳べば、手を伸ばせば、届くか……!


「高い。無理だー」

『あら~? 諦めちゃうのぉ?』

「今度は誰?」

『私よ私ぃ~。忘れるなんてひどいじゃな~い。長い付き合いなのにぃ』

「いや、マジで知らんし。私私詐欺とか関わりたくないし」

『もぅ、仕方ないわね~。今回は、特別よ?』


 そう軽く言って、声の主がアキラの目の前に現れた。

 緋色の美しく輝く羽を持った、見事な鳥。

 ハヤブサにも似た大きな鳥が、アキラにわかる言葉で語りかけていた。


『大事にしてくれて、ありがとうね~。私、あなたが手入れしてくれるから、いつまでもほら、綺麗なまま~。うふふふっ』

「フェニックス……いや、鳳凰!!」


 地球、日本からリードガルドに持ち越してきた、アキラの宝物。

 スカジャンに刺繍された、神の鳥、鳳凰だった。


『ほら、私の脚に、捕まりなさ~い。あの光まで、ちょっとおまけして、連れてってあげる~』

「ホントに!? あ、ありがとう! これからも、大事にするよ!」

『約束よ~。私、執念深いから~。あなたが私を売ろうと思ったこと、忘れてないわよ~』

「マジごめんなさい。忘れて……」


 アキラは地球から持ち越してきた衣服を、金に換えてしまおうと思ったことが何度かあったのだった。


『ふふふ、でも今回はすっごい特別なことだから、戻った時に、代償をいただかなきゃいけないの~。それだけは、許してね~』

「あそこに帰られるなら、なんでも持ってっていいよ。俺、貧乏で借金生活だけど」

『わかったわ~。あ、それと最後に一つ、言い忘れてたことがあったわ~』

「なに?」

『あなたが戻るための手助けを、確かに私たちはしたわ~。でも、あなたが戻る場所、あなたがいていい場所を作って待ってくれている人たちがいるから、あなたは戻れるのよ~』

「う、うん。そうだよ。本当にその通りだ。俺を受け入れて、居場所をくれた、大事な人たちのところに、俺は戻るんだ」

『それがわかっているのなら、安心ね~。じゃあ、これからも、無理しない程度に頑張るのよ~~』

「ありがとう、この恩は忘れないよ、絶対に!」


 そしてアキラは大きく飛び上がり、鳳凰の脚に捕まって、光あるもとへ――。





 アキラは異世界リードガルド、キンキー公国はラウツカ市で目を覚ました。


 彼が最初に、耳にした言葉といえば。


「アキラ! ミスターアキラ! アユーオケーィ!? アユオケーイ!? アユオケーアキラ!?」


 目の前には、リズがいて、しきりにアキラの安否を気遣う叫びを上げている。

 英語で。


「この展開は、予想してなかったぜ……」


 そう、リズが喋っているのは、英語である。


 病床が並び、アルコールやその他薬品の香りが漂っている

 そのことから、アキラはここが病院のようなところだろうと現状を正しく認識した。


 ルーレイラもいる。

 泣き腫らしたのか眼が赤く、いや元々ルーレイラの瞳は赤いのだが、白目の部分まで充血していて、顔中ゴテゴテだ。


 しかし元気そうだ。

 それはいい、もちろんルーレイラが元気なのはアキラにとってもいいことなのだが。


「ー・! ーー・! ・ーー・ー・? ・ー・!! ・ーーーー? ー・・・ーー・!!!!」


 ルーレイラの喋っている言葉が、アキラには全くわからない。

 英語でもフランス語でも、もちろん韓国語や中国語でもない、未知のものだった。


「代償って、これかよ……」

「ワット? リパレイション(代償)!? ワッチューミーン!?」


 相変わらず、リズの言葉は英語に聞こえる。

 いや、英語でしかありえない。

 それはそうだ。リズはアメリカ人なのだから。


 アキラは異世界リードガルドの、話す言葉に不自由しないという「知恵の精霊の加護」を、まるまる失って目覚めることになったのだ。

 

 しかもややこしいことに、アキラの喋っている言葉は、リズにはやはり、わかるらしかった。

 リズの加護は失われていないのだから、当然と言える。


 そして、病室の中には他にも。

 

「死んだり生き返ったり、人騒がせな兄ちゃんだな」

「はじめまして……?」


 幕末明治の最後のサムライ、上総(かずさ)生まれのコシローが、そこにいた。

 

「お前の葬式まではじめそうな勢いで、お前らの故郷の葬式はどうやるんだ、なんて聞いてきた奴まで出てくる始末だったぞ」


 火葬なんてされてはさすがに、死ななくて済んだはずなのに死んでしまう。


「そりゃ、とんだご迷惑を……?」

「念仏の門徒か? 禅か? 蓮華経か? 耶蘇(ヤソ)だったら、しきたりなんか全く知らんぞ俺は。そもそもここに坊主はいるのか?」

「いや、葬式しなくていいから……」


 コシローしか言葉が完璧に通じる相手がいないという状態から、それでもアキラは元気に冒険者生活を再開するのであった。

 学生時代、彼は英語が得意ではなかったために、リズの使っている英語は、半分も分からない。


 それよりなによりもまずは、怪我の完治とリハビリが待っているのではあるが。 



「やはりあいつ、不死身なのかもしれん」

「だといいな」


 見舞いに来たウィトコの言葉に、居合わせたフェイは心の底からそう思った。

 アキラが一時、危篤状態で一瞬だけ心肺も停止したと聞かされたときは、さすがのフェイも動転しかけたの、だが。


「ファルのようなつまらんコソ泥たちに、まさかアキラどのが殺されるわけはないと私は思っていたぞ」


 なぜかフェイはアキラがここで死ぬはずがないということを確信していた。

 理由はない。

 強くそう思えただけ、としか言えなかった。


 アキラが元気に目覚めたのはもちろん喜ばしいことなのだが、それはそれとして。


「しかし、ルーレイラが、女性だったとは……」


 横たわるアキラに縋り付いて泣いている様子を見て、フェイは確信した。

 これもなぜという根拠は言葉にしにくかった。

 いわゆる女の勘だ。


 そしてアキラの容態が再び落ち着いたときに、はっきりと問いただしたのだ。


「ルーレイラ。貴殿、いや、あなたは女だったのだな」


 と。

 それを問われたルーレイラは、赤い目を真ん丸に見開いて。

 

「何年つるんでると思ってるんだい僕たち! どうして今までわからなかったんだ!? 別に隠してたこともごまかしてたこともないはずだよ!?」


 フェイに対して、そう呆れるのだった。



 フェイは思う。

 おそらくはルーレイラがこの街で一番、アキラのことを――。 



「知らなかったのは、お前だけだ」


 まさかそんなことをウィトコに言われるとは思わなかったので、フェイは驚いて尋ねた。


「みんな私に隠して黙っていたのか? なぜだ? なぜそんなことを?」

「お前がいつ自分で気付くか、賭けてた」

「賭け? 誰がそんなバカな賭けに乗ったというんだ?」


 ウィトコが思案深げな顔で、指折り十人以上を数えたところで、フェイはバカバカしくなって物を言うのをやめた。


 この二人には、アキラの話す言葉の意味は、ちゃんと理解できている。

 地球からの転移者である二人には、しっかりと精霊の加護が今も宿っている。


 しかしアキラはフェイとウィトコの母国言語、元時代の中国内陸部の言葉、そしてスー族の言葉など、まったくわからないし聞き取れない。


 会話を可能にする知恵の精霊が、アキラに限ってだけなにかしらの不具合を起こしたのか。

 それはまさしく、神のいたずらなのか。


「文字だけではなく、言葉そのものを覚えてもらうしかないのか……?」


 フェイはため息をついたが。

 その顔は、笑っていた。


 

 その後も病床のアキラを、誰かしらが訪れて見舞う日々が続いた。


 しかし、リードガルドで生まれ育った者たちとアキラの間では、お互いの言葉が通じない。

 転移者でなければ、言語の加護は受けていないのだから。


 クロとエルツーは自分たちも仕事があるのに、市内にいるときは毎日アキラを見舞った。

 エルツーは相変わらずアキラに、この国で使われている公用語を教えている。


 アキラは基本的な読み書きだけ、少しだけは公用語を以前から勉強し、習得していた。

 全くのゼロからではないので、覚えるのにそこまで時間はかからないだろう。

 エルツーはアキラに言葉を教えながら、そう思った。


 言葉は通じないが、林檎を指で指して、林檎を意味する文字と発音を。

 サルと鳥と狼の絵を描いて、そのそれぞれを意味する文字を。


 エルツーの絵が下手糞だとクロが笑った。

 アキラはその絵を大事にとってある。


 クロもその傍らで、エルツーに文字を習う気になったようだった。

 今までクロは公用語を少し読めるだけで、書くことがほぼできなかったのである。


「二人とも、ありがとう。仕事、忙しいのに」


 アキラが覚えたての言葉でたどたどしく言う。

 クロがにかっと笑う。


「いいんスよ! アキラさんと一緒に居るの、俺、楽しいっスから!」


 一方でエルツーはそっぽ向き、アキラにまだ教えていない、少し婉曲した表現で言った。


「……こっちも別に、嫌々やってるわけじゃないから、気にしなくていいってのよ」


 

 白く美しい切り石の城壁を誇る、にぎわい豊かな港町、ラウツカ。

 そこに今日も日が昇って、そして沈む。


 もうじき、秋の収穫祭が始まる。


 遠山暁は、この街で生きて行く。


 これからも。

 おそらくはずっと、この先も。




                              第一章 完

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