48 手は尽くしました! あとは祈りましょう!

 フェイが大急ぎでラウツカの医院に駆け戻ったときは、夕方になりかけていた。


「ルーレイラ、戻ったぞ!! 大緑(おおみどり)の血だ!!」


 アキラが大緑から傷を受けたのは前日の昼ごろであり、まる一日以上が経過したことになる。

 院内に瓶を無事に持ち帰ったフェイを、真っ先にリズの抱擁が出迎えた。


「ああ、フェイさんお帰りなさい! よく御無事で!」

「リズ、まだ私の体には瘴気の残り香がついてる! 無理をするな!」


 フェイはつい先ほどまで、魔物と素手で格闘していたのだ。

 魔物の瘴気と呼ばれるよくないモノが、フェイの体表面に残滓としてかすかに付着している。

 リズはそれらのモノについて非常に弱い体質にあるのだ。


「大丈夫です、よかった、フェイさん。よかったです……」

「し、しかしリズ……」


 そうは言うものの、とても嬉しいフェイであった。

 二人の体の柔らかい部分に随分と差があるのは、それは個人差の話である。


「こっちも準備は整っているよ! それだけ血があれば大丈夫だろう! よくやってくれた!」


 ルーレイラはラウツカ市で手に入るだけの魔法薬、及びその素材を、有効と思われるものはかたっぱしからかき集めて、自分の手持ちの素材と掛け合わせるなどしていた。

 そしてここにフェイが持ち帰った魔人の血を加え、アキラの体をむしばむ青緑色の病毒を癒す薬を作る。


「すぐに、できるのか?」

「今すぐってわけにはいかない! でも大丈夫、絶対に間に合わせる!」


 気力を取り戻したルーレイラの言葉に、フェイもリズも安心した。

 作業の邪魔になってはいけないと思い、門外漢の二人はひとまず医院の外で待機することにした。


「リズ、なにも口にしていないんじゃないか。少しは休んだ方がいい」


 たった一晩の徹夜でもやつれてしまっているように見えるリズを、フェイが心配する。


「今食べたら、眠くなっちゃうかもしれないじゃないですか」

「眠っていいんだ。リズまで倒れたらどうする」

「まだ、大丈夫ですよ。倒れたときは……お願いしていいですか?」


 家に連れて帰ってくれ、と言うことである。

 決めたらリズは梃子でも動かないことをフェイは知っているので、諦めてこれ以上言うのをやめた。


「そう言えばクロどのとエルツーは戻って来たか?」

「はい。別の医院で休んでいますよ」

「それは良かった。心配していたんだ」

「二人とも目立った怪我はないし、衰弱しているだけだから、休んで、食べれば大丈夫だろうって、お医者さんは」

「そうかそうか」


 よもやエルツーまでもが、という想像はいくらフェイでも苦しいものだった。

 安心していくにつれ、フェイの表情から険しさが取れて行く。


「ウィトコさんは一度帰りました。アキラさんの無事をお祈りする、と言ってましたね」


 市内の西端、丘になっている部分にウイトコは住処を構えている。

 ラウツカ市の中で、最も早く朝日を見ることができる場所でもある。


 一仕事終えた、とフェイは思い、医院の庭にあるベンチに腰かけた。


「彼には彼の祈る神が、この世界の精霊とは別にいるんだろうな。私もこんなときくらいは経でも唱えて待ったほうがいいのだろうか……」

「お経、わかるんですか?」

「般若心経の、有名なところだけな。忘れないように今でもたまに書き取りしているんだ。仏説摩訶(ぶっせつまか)、般若波羅密多心経(はんにゃはらみたしんぎょう)……」


 フェイが般若心経を暗唱する。

 地球で暮らしていた頃のフェイは、少林寺の在家信者の家に生まれ育った。

 般若心経は信仰の基礎であり、一般教養としても基本的なものなので、幼少期から暗唱したり、字の練習として書き取りしたりすることが多かったのだ。


 言語の精霊、知恵の精霊の加護を大いに受けているリズは、聞き慣れないその東洋の経典であっても、言わんとしている意味をなんとなく掴むことができた。


「色不異空(しきふいくう)、空不異色(くうふいしき)、色即是空(しきそくぜくう)、空即是色(くうそくぜしき)……」


 形あるもの、この世に具体的に存在する物は、そのすべてがいつの日か必ず消滅して「空」になる。

 空はすべてであり、すべては空に帰る。

 それは精神的なもの、形而上的な物であっても、物質のように具体的な物であっても同じなのだ。


「羯諦羯諦波羅羯諦(ぎゃてーぎゃてーはらぎゃてー)、波羅僧羯諦(はらそーぎゃてー)、菩提薩婆訶(ぼじそわか)……」


 唱え終えて、フェイは目を閉じて合掌する。


 リズも同じように目を閉じ手を合わせて、ハンニャハラミ、ハンニャハラミと呟いた。

 言葉が意味する表面的なことは理解できても、すべてが空であるという悟りの境地を得るのはさぞ難しいだろうと思いながら。


「魔物……大緑(おおみどり)は、強かったですか?」


 リズがフェイに尋ねる。


「ああ。なにせ大きかった。あれだけ大きいと投げたり骨を極めたりは無理だし、筋肉の固まりのような体をしていたから、こちらが受けに回るのも危険だった」

「いつもと同じように戦えないというのは、困りますね」

「武器が効かないという情報や、エルツーの強化魔法がなければ危なかったな」


 まさに敵を知り、己を知れば、である。

 危険な任務ではあったが、フェイは勝つべくして勝ったのだろうとリズは思った。


「でも怪我もなく勝っちゃうなんて、すごいです」

「アキラどのとクロどのが、あらかじめ相手を痛めつけてくれていたんだ」

「そうですか、アキラさんたちが……」

「足と手を相手は痛めていてな。それが大いに功を奏した。ギルドから討伐の報酬は出ないのかもしれないが、政庁が彼らに金一封を出すかもしれない」


 その後も二人は魔物の話や冒険者たちの話をして時間を過ごしたが。

 リズは、少し寂しく、哀しい思いをした。


 待っているだけしかできない自分を思うと、リズはいつも、こんな気持ちになるのだった。

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