インターミッション02 温泉でお肌とかつるつる
彼らが訪れた大衆浴場は、ラウツカの海岸近くにある。
近くには商船用の荷揚げ港があり、この浴場は港湾労働者の休憩施設として、また市民の社交場として親しまれていた。
「アキラさんはここの風呂、はじめてっスか?」
きょろきょろと建物を観察するアキアにクロが訊いた。
「うん、なんかデカい建物あるなーって思って眺めてたけど、そうか、銭湯かあ」
施設の全体構造は、ラウツカ市の大型建築物に多い、切り石を積んで作られた二階層の建物だ。
大きな風車を二基、左右に構えている。
さらに風車に近接して太く巨大なパイプ状のものが、建物に対して斜めに走っていた。
この街には珍しい奇妙な設備だと、アキラは首をひねった。
斜め上方に高く伸びるパイプと言えば、地球ではコンクリート製造工業などが代表的だが。
まさか銭湯でコンクリートを作っているわけではあるまい。
「ウォータースライダー……なわけはねえよな。なんだろなあのでかい管は」
疑問に思いながらもアキラは建物に入ったが、その瞬間に大いに驚かされることになった。
「温泉だ!」
天然温泉、特に硫黄系温泉の香りが建物の中に充満していたからである。
この施設は天然温泉が湧き出たポイントの真上に建設されているのだ。
「そりゃそうよ、なんだと思ってたのよ」
「男湯はこっちっスよ。早く行こうッス、アキラさん」
後に広間でエルツーと合流する段取りをつけて、クロとアキラは脱衣所へ。
石の床に、竹らしき植物で組まれた棚が数にして百は下らないほど並んでいる。
ここでもアキラは驚くことになった。
「めちゃくちゃデカいなおい。ラウツカってのは人口どれだけいる街なんだ? こんなにデカい温泉作って、商売成り立つのか?」
満員御礼ではないものの、脱衣カゴにそれなりに入っている衣服の数を見てアキラは感嘆し、同時に疑問を持った。
クロがそれに答える。
「難しいことは知らないっスけど、この銭湯を建てたの、商人じゃなくてラウツカの政庁っスよ」
「は? 役所が運営してるの? 公営なのここ?」
「ラウツカは穴掘れば結構温泉出るらしいっスけど、温泉を商売にしていいのは政庁だけなんだって、うちの親分が言ってたッスね」
この国では、温泉経営が公営の専売事業であるということをアキラは知った。
日本でそんなことをしたら、市役所や国会にデモ隊がたかるだろうな、とアキラは思ったが。
「自分の土地から出た温泉を、金をとらないで自分たちだけで楽しむなら、いいらしいっス。金持ちの屋敷とかは自前で温泉掘ってたりするっスよ」
「それだったらそんなに横暴な政策ってわけでもないね」
それよりもクロの親分が何者なのかは気になるところである。
古老ならぬ古狼なのだろうか。
少なくとも世事に聡いことは間違いない。
脱衣所で服を脱ぎ、二人は浴室に入る。
垢すりに使うのであろう、海綿らしきスポンジ状の物体が浴室出入り口にやはり数多く置かれている。
その隣に、まるで塩と脂を熱して溶かして固め直したような謎の石鹸もあり、自由に使って良い。
「至れり尽くせりだな。天国かここ」
「料金が高いだけあるっス。だから滅多に来られないんスよねえ。役人ども、俺らの足もと見て値段決めてるっスよ絶対に」
「え、そんなに高いのここ」
アキラはまだこの世界の金銭相場をよくわかっていない。
「そこそこのメシ屋、例えば山猫亭とかで一人でたらふく飲み食いする方が、まだここの料金より安く済むっスね」
「それは、高い……」
若い男子はいつも美味しい飲食に飢えており、それより高いというのは切実な例えであった。
しかも日帰り入浴でその値段である。
さておき二人は、体についた仕事での汚れを洗い流す必要がある。
体を洗いたい場合は、浴槽のお湯を木桶で掬って使う。
その浴槽もやたらと大きく、しかも三種に分かれていた。
「向かって左が一番熱いっス。俺は無理っス」
「クロちゃん、湯船に入る前にもう少し念入りに体を洗った方が良いぜ……背中を流してやるから」
「ありがとうっス~」
周りの客があからさまにクロを避ける程度には、クロの汚れはひどかった。
腰から伸びる尻尾を触りたい気持ちを抑えながら、アキラはクロの背中をしっかり洗って流した。
「おお、湯の花が出てる……」
天然温泉の浴槽周りに付着する、温泉成分が凝固した白っぽい物質。
通称「湯の花」が、この異世界の風呂屋にも出ていてアキラは感激した。
箱根湯本を思い出す湯けむりと香り、そして湯の花、気をつけないと滑りそうになる浴場の床。
日本から遠く離れたことに寂しさを覚えないことはないアキラだったが、この温泉慕情をラウツカで体験できることに感激して少し泣きそうである。
さておきクロは低温の浴槽に、アキラは中温の浴槽に入った。
「ぬるめだな。四十度ないくらいか」
長く入っていれば体も温まり、なおかつ心臓への負担が少ないと言われる温度だが、どちらかと言えば熱い温泉が好きなアキラには物足りない。
ためしに高温浴層に足を入れてみたが。
「あっつ! これあっつ!! 無理だ!!」
おそらく五十度以上あった。
アキラはこの温泉施設に大きな煙突がなく、燃料を大量に焚いた煙が昇っていなかったことを確認している。
火を焚いて沸かしたお湯を提供しているわけではなく、高温の源泉に水を加えて温度を調節しているタイプなのだと判断した。
その源泉に近い温度が、高温浴層の温度なのだろう。
「冬に再チャレンジだな……」
「ラウツカの冬はそんなに寒くならないっスよ。雪も降らないっス」
「マジか。館内アンケートとかねえのかな? ちょうどいい温度の浴槽を強く要望する!」
「普通の温度の風呂に入って、自分の周りに熱い方のお湯を桶で掬って足せばいいっスよ。みんなそうしてるっス」
なるほど確かにそれなら湯温の調節はできるなとアキラは感心した。
しかし、いつかこの高温風呂を攻略してやりたいと、ひそかに誓うアキラであった。
一通り浴場を見渡すと、低温浴槽のすぐ近くに別の出入り口がある。
「あっちは蒸し風呂っスね。言うまでもなく俺は無理っス。熱すぎるっス」
「そこまで言うってことは結構な温度なんだね」
やはり犬や狼系だから、獣人であってもサウナは苦手なのだろうかとアキラは考えた。
今日はクロについて回って案内してもらおうと思ったアキラも、サウナに入らないことにした。
アキラはサウナを楽しむと、時間が長くなってしまうので遠慮したのである。
「あとは二階っスね。普通の湯船じゃないんスけど、熱くなり過ぎないんで俺は好きっスよ」
クロとアキラは階段を登り、施設の二階へ。
そこには屋根がなく、海側の一角は壁すらなかった。
大海原を眺めることのできる、展望露天風呂である。
しかし、湯船もなかった。
「石畳の床の上に、お湯が流れてる……」
床全面におそらく源泉に近い、それなりに熱いお湯がひたひたと流れている。
水深は足の指が浸る程度。
その程度の水量でも石畳は十分に温かく、膨大な湯煙が心地よかった。
客はめいめい座ったり寝転んだりして、夕焼けの空や水平線を眺めてくつろいでいる。
日本の銭湯にも多い、寝湯、座り湯といったものに近い。
しかし床全面と言うダイナミックさに、温泉王国、日本の出身であるアキラも驚かざるを得ない。
「どうやって下から二階にお湯を押し上げてるんだ……? バケツで誰かが運んでるわけはないよな」
そんな疑問を持ったアキラの目に、展望風呂からも観ることのできる巨大な風車が止まった。
「風車……動力、まさかスクリュウ回してるのか?」
そして風車とその近くに設置されている、斜めに走ったパイプ状の設備を見て、そのからくりに予想をつける。
「パイプの中のスクリュウを回してお湯を押し上げてんのかこれ。はあ~、大掛かりなことをしてるなあ。作るのにどれだけ手間かかったんだ」
密閉された管の内部に螺旋構造の器具を設置して回せば、液体であっても下から上に運ぶことができる。
いわゆる搬送用スクリュウという物だった。
押し上げられる物は液体以外にも粒状のもの、粉状のものなどがある。
モーターでスクリュウを回すと言うのが一般的だが、モーターがなくても動力があればスクリュウは回せる。
それは水車でも風車でも良く、港町のラウツカは浜風が吹いている時間が多いので、風車を動力として採用したのだろう。
「まさか屋上露天風呂にお湯を流すためだけにこんな大がかりなもの作るなんて、アルキメデス先生もびっくりだぜこりゃ」
地球の歴史、工業技術史においてこの構造は「アルキメデスのスクリュウ」と呼ばれている。
物質の重さと体積の関係から、浮力の原理を導き出したと言われる紀元前の天才科学者、アルキメデスが名前の由来である。
実際のところ、アルキメデスがこの搬送スクリュウを発明、実用化した歴史上最初の人物かどうかは疑わしい。
アルキメデス以前にすでに実用化されていたと言う説も歴史資料も多いのだ。
「ヘウレーカ(わかったぞ)、ヘウレーカ。しかし大きいおっぱいはお風呂に浮くと言う話だよな。リズさんもここの風呂に来たりするんだろうか。脱衣所に泥棒が出やすいと知っていたんだから、たまには来るのかな」
アルキメデスが浮力について思い当たったのも、裸で入浴中だったと言われる。
全裸であれこれ思索を巡らし、すっかりアルキメデス気分のアキラであった。
「ボーっとしてどうしたんスかアキラさん? まあ景色は良いっスよね、ここ」
「いやまあちょっと高尚で科学的な考えごとをね。しかし気持ちいいねここは」
海の見える屋上露天風呂、みんな自由に寝転がったり座ったりして、流れるお湯と温かい石畳を楽しんでいる。
これは、値段が高くても来たくなるなあとアキラはしみじみ思った。
その証拠に、ラウツカ市民の多くが仕事を終えた夕方過ぎの今、客の数は増える一方だ。
「ところでアキラさん、とっておきの情報なんスけど……」
小声でクロはアキラを手招きし、露天風呂の「壁」の付近にいざなう。
海が見える解放された側ではなく、普通の、ただの壁である。
観葉植物がいくつか並べられている以外は特に見るものもないようだが、アキラはピンと感づく。
「クロちゃん、まさか」
「そのまさかっス。ここ、女湯との仕切りなんスけど。去年、ここにちょっと隙間が」
「皆まで言うな、兄弟」
真剣な眼差しでグッとサムズアップするアキラ。
工業技術の歴史に思いをはせていたアキラの知能が、クロの魅惑的な誘いによって一気に低下した。
クロは鉢植えの観葉植物をそろりそろりと横にずらして、問題の個所を確認する。
しかし、壁に空いていたはずの隙間は、樹脂か漆喰のようなもので見事に塞がれてしまっていた。
「まあ、こんなこったろうと思ったよ……儚い夢だったな」
「諦めたらそこで終了っスよアキラさん。こんな詰め物、ひっかけばポロって取れるかも!」
「やめろクロちゃん、ラウツカの法律に詳しくない俺でも、それは間違いなく犯罪だとわかるぞ」
そうでなければ最初から混浴のはずである。
覗きの時点で常識的に考えてアウトなのだが。
「男には後ろ指を指されても、貫かなければならない意地ってモンがあるっスよ!」
「わかったよ兄弟、お前の本気、見せてもらうぜ!」
バカ二人が壁際でそんなことをしていると、仕切りの向こう、女湯から覚えのある声が聞こえた。
「あ、フェイねえも来てたの?」
「やあエルツー、仕事終わりか? ここで会うのは珍しいな」
間違えようもなく、エルツーとフェイの声である。
「フェイねえは今日は、非番明けの休日でしょ? じゃあ明日もお休み?」
「ああそうだ。夕食はまだか? 帰りになにか食べに行くか?」
アキラとクロはその会話を聞いて、諦めの溜息を洩らす。
「鬼のフェイ隊長さんが、向こうにいるっス……」
「オイタをしているのがばれたら殺されてしまう。残念だがミッションはここまでだな」
法律よりも恐ろしい、フェイと言う存在に立ち向かってまで貫く意地は、彼らにはない。
「って、フェイねえ、それどうしたの!? 毛は!? つるつるじゃない!!」
「ば、ばかっ、大声で言うな!!」
しかし、なにか凄く気になることを、女二人が話している。
「やっぱり声だけは聞いていいよな。それくらいは許されるはずだ」
「そっスね。匂いと声はおとがめなしのはずっス」
改めてクロとアキラは壁に耳をそばだてて、壁の向こうから聞こえてくる会話を懸命に拾う。
もっともクロは聴覚が優れているので、こんなことをしなくても聞こえるが、気分である。
「ルーレイラの奴が『肌にいい』という薬をくれたんだが、それを塗ったら、抜けてしまってな……」
「なによその薬。でも顔や頭に塗らなくて良かったわね……じゃあここも、こっちも、つるつる?」
なにやってんだよルーいい仕事すぎるわ今度酒でもなんでも好きな物奢ろう、とアキラは高速思考した。
「や、やめろいやらしい。つるつるとか言うな! きっとまた生えてくる! 大人だからな!」
「あたし、大人だけどあんまり生えてない……」
「少しはあるじゃないか。これからだ、これから」
「胸だって……」
「成長期はこの後で来るんだ、きっと。長い目で考えるんだエルツー。希望は未来にこそあるんだ」
そこまで聞いて、アキラは色々限界を感じたので壁から離れた。
正直、たまりません、と心の中で呟く。
むしろ声に出てる勢い。
「並人さんたちのことはよくわかんないっスけど、エルツーって大人っスか?」
「本人がそう言ってるんだから、そうなんじゃねえか」
これからもう少し、エルツーに優しくしようと思ったアキラだった。
風呂をあがった新米三人は、フェイも交えて温泉施設内の食堂で夕食を摂ることにした。
ギルドの近くにある「眠りの山猫亭」よりも、料理の価格がワンランク上である。
展望風呂で聞いた話の内容は墓場まで持って行くと、クロとアキラはお互いに誓いを立てた。
食事をしながらアキラは、ウィトコと一緒に仕事をしたこと、そして馬に乗る楽しさを味わったことをフェイに話した。
「馬を買いたい、か。高いぞ」
テーブル上で存在感を放つ鳥の丸焼き、その肉と骨を器用にナイフで切り分けながら、フェイが言った。
「やっぱりそうなんだ。フェイさんはウィトコさんのことも知ってるの?」
「ああ、私よりも長く、彼はラウツカにいるよ。具体的に何年前からということまでは知らないが、腕のいい冒険者だな」
フェイはリズと仲良くなって以降、ラウツカのギルドに所属している専属冒険者の顔と名前、全員分を覚えるようにしていたのだ。
「フェイさんが腕がいいって言うくらいだから、よっぽどなんだね」
「いつだったか、城壁の近くの草原で彼がウサギ狩りをしていてな。馬に乗りながらでも、弓を射たりナイフや小さい斧を投げたりして、百発百中だったのを見たことがあるよ」
フェイと一緒に城壁の上から狩りを見物をしていた衛士の上役が、ウィトコを本気で衛士隊にスカウトしたいと思うほどだったらしい。
それは凄い、と話を聞いていた一同が息を飲んだ。
「膝の怪我さえなければ、今でも第一線で活躍していたでしょうね」
「うちの親分も、あれは残念だって言ってたっス」
エルツーとクロも偉大な先輩を改めて尊敬したようだ。
アキラはまだまだ新米であるために冒険者の腕や質というものがよくわかっていない。
しかしフェイの凄さは身を持って知っている。
彼女がこれだけ褒めて認めているということは、ウィトコが並の冒険者ではないという確かな証明だった。
「ところで馬の値段の話だったな」
フェイは話を戻した。
説明を聞くところによると、良い馬の価格は天井知らずとのことだった。
まともに人が乗れるように最低限の躾けが終わった並の馬、それであっても下級役人の年収以上の値段がする。
現代日本の並のバイクや中古車よりも、ラウツカで買う馬は高いのだとアキラは頭の中で計算した。
「良い仔馬を北方の生産者や行商人から直接買い付けて、自分で躾けや調教をできるなら買う値段そのものは安く済ませられるだろうが、普通は無理だな」
ウィトコは自分でそれができるのだ、ともフェイは言った。
なかなか難しい目標だなとアキラは話を聞いて思った。
「北の山を越えれば、馬ってもっと安いんスよね。なんでかラウツカの周りは高いっスね」
「そりゃそうよ、そもそも馬産地じゃないし。ラウツカの郊外の馬牧場だって、北の方から仔馬を買ってそれを育ててるだけなんでしょ? 繁殖まではしてないはずよ」
クロとエルツーの話を聞いて、アキラはなるほどと思った。
ラウツカは温暖な気候で、港町が発展したことにより人口も多い。
そして郊外の馬の牧場面積はわずかしかない。
馬よりも食料を生産するための農地、そして食料になる牛や羊の牧場に土地を沢山使うことが優先されている。
そのために馬産事業がそれほど成長しないのだ。
馬の繁殖、育成、調教、そして売買までを包括的に行っている業者は、ラウツカの近郊には存在しないらしい。
ラウツカにおいて馬は希少な動物であり、高級輸入品に近いのである。
「しかし私は、アキラどのがラウツカに腰を据えて冒険者をやるのなら、馬を買うという考えはとてもいいものだと思うよ」
「そうかな?」
思いつきの夢物語と否定せずそう言ってくれたフェイに、アキラは表情を明るくした。
「ラウツカの街の中で働くだけなら、自分で馬を持つ必要はない。市内の移動には乗合馬車もあるし、たまに郊外に行く程度なら貸し馬で十分だ」
「そうよね。うちにも馬はいないけど、別にそれで困るってことはあんまりないわ」
市内に家族と住んでいるフェイとエルツーは同じ感覚のようだ。
「私も門番して毎日過ごしている身だから、必要を感じないので自前の馬を買おうとは思わない。馬を自前で飼ってしまうと、管理の手間が膨大だ。なにより政庁には仕事で使う馬がちゃんといるしな」
さすがにお役所はなんでも揃ってるなあ、とアキラは羨ましく思う。
「しかし冒険者はどうしても街の外に出ることが多いからな。アキラどのが仕事に慣れて来たら、それだけ活動の範囲も広がるだろう」
「確かに。ちょっと離れたところの仕事も色々あるみたいだし」
リズやナタリーは新人、初級冒険者に対してラウツカ市内か近郊の仕事しか割り振らない。
しかし話を聞く分には、もっと遠くで仕事をしているベテランの冒険者も多くいるようだった。
「そのときに、自分で馬を持っているなら受けられる仕事の選択肢が増えるだろう。いますぐの話ではないにしても、考えるのはいいことだ」
フェイの言葉はアキラの胸にすとんと落ちた。
「そうだよな、別に今すぐどうのって焦ることないんだ。長い目で考えて行きゃいいんだな。ありがとう、フェイさん」
具体的なことが決まったわけではない。
しかし話を聞いてもらい、馬を買うという選択にもきっといい意味があると言ってもらえた。
それだけで、アキラの気持ちは随分前向きになった。
フェイはこのとき、喉まで出かかった言葉を寸前で飲みこんだ。
馬を買いたいのなら、自分がお金を貸そうか、という言葉を。
担保として服を預かるのもいいかもな、というような話を先日にフェイとルーレイラは交わしたが、そんなことも正直どうでもいいと思っている。
フェイには、アキラに投資するだけの価値がある、自分たちにとっても街にとっても、アキラを繋ぎ止めておくことは、きっといい結果を生むという直感があるだけだった。
金の貸し借りをする、馬という価値の高い財産を得る。
そうすることでラウツカの街に生きる者としての帰属意識や、仕事への責任が増すのではないかとフェイはアキラに期待したのだ。
しかしそれを口に出す前に、思い直した。
フェイのその申し出は、確実にアキラの全身を縛って締め付ける、重い鎖になりうる。
この先、アキラの気持ちや生活の方針がどう変わるかなんて、わからないのに。
アキラがこの先もずっと、ラウツカのギルドで働き続けたいと思うかどうかは、わからないのだ。
どうも、フェイはアキラのことになると冷静さを失ってしまう、と自覚することが増えた。
いつの間にか骨という骨が綺麗にバラバラにされ、肉が見事にそぎ落とされた鳥の丸焼き。
みんなで食べやすいようにフェイが切り分けていたが、考え事をしていた彼女はほとんど食べていない。
「フェイさん、葉っぱ結構残ってるけど」
鳥肉の下に敷かれた葉物野菜を指して、アキラが言った。
「貴殿までそんなことを言うのか……」
「え? いや、食べないなら貰っていいかなって。肉のタレがしみこんでて、超美味い」
とぼけた顔でレタスにも似た葉っぱをもしゃもしゃ食べるアキラを見て、フェイは無性に恥ずかしくなった。
「アキラどのは、明日もギルドに顔を出すのか?」
揃って温泉施設から出て家路に着く流れの中、アキラはフェイにそう聞かれた。
「いや、連続で仕事して体もしんどいし、明日は休日にするよ。一人暮らし用の買い物もしたいからね」
それに対しエルツーが軽く忠告する。
「買い物に出歩くなら、ナイフでも棒でもいいから、なにか武器をぶら下げておいた方がいいわよ。周りから見えるように」
地元出身のエルツーがそう教えてくれる程度に、ラウツカの中心街は治安がよろしくないようである。
「アキラどのは休養か。ゆくっり休むといい。違法薬物の売買や違法の花宿に引っかからないように気をつけろ。関わってしまったら、知り合いであっても縄をかけなければならないからな」
フェイの訓告にアキラは聞き慣れない言葉があったので聞き返す。
「花宿って?」
「いやらしくて楽しいことができる宿屋っスよ。ラウツカは大きい街だけあって多いっスね~。たいていは政庁の認可店っスけど、そうじゃない店もちらほらあるみたいっス」
クロのコメントにフェイが睨むような表情で反応した。
「やけに詳しいが、まさか違法の不認可店に行ったりしてないだろうな。店の情報を知っているなら正直に言った方がいいぞ。私の隊で摘発に行く。その場にさえいなければ見逃してやろう」
「怪しい店なんて知らないっス! ちゃんとした店でわきまえて遊んでるっスよ!」
ラウツカは性風俗産業も、お上の管理が厳しいらしい。
「男ってやつはこれだから……」
冷たい目でエルツーがクロとアキラを見た。
アキラはこの世界でそんなお店に行ったことがないので、濡れ衣だと思った。
結局、食事の支払いは全部フェイが奢ってくれた。
別れ際、アキラの目にはフェイが元気がないように見えた。
「次の冒険に出る前に少し稽古をつけてもらいたかったけど。疲れてるなら遠慮するか」
少しばかりの寂しい気持ちを抱えながら、アキラはみんなと別れて部屋に戻った。
「そう言えばフェイさんって、ナイフもフォークも両手で使えるみたいだけど、どっち利きなんだろう……」
最近、一人でいる間にもフェイのことを考えることが増えたな、とアキラは思った。
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