08 冒険に出る前に準備運動などどうでしょうか?

 長い説明や書類作成が終わり、ひとまずアキラの手続きは一区切りした。

 今日のうちにギルドの施設内において、事務処理関係でアキラが自ら関与すべきことは残っていない。


「この世界には指紋を押して確認や証明の印にするって習慣があるんだな……」


 などと、手続きの上で驚いたことに考えをめぐらせながら。

 アキラはこの世界の文字を書くことができないので、その代わりの指紋押捺なのかもしれない。


「お、そっちの七面倒臭い要件は終わったところかな? なら僕がいてもお邪魔にはならないね?」


 ロビーの椅子でリズが淹れたお茶を楽しんでいるアキラのもとに、陽気な声が届いた。

 軽食を終えてギルドに戻ってきたルーレイラに、数歩遅れてフェイも続く。


「どうも。ちょっと待っててって言われたからこうして待ってるだけだよ。お茶うめーな。あったまる」

「それは結構。生きることの九割は待つことだ、と誰かが言っていたような気がするね」


 なにやら哲学的なことを言っているルーレイラだった。


「かく言うこの僕も200年以上、なにかを待ち続けて暮らしてきた気がするよ。あまりに長い時間過ぎてなにを待っていたのか忘れてしまったくらいさ」

「それは随分なおトボケさんですな。スケールがデカい」


 冗談なのか本気なのかわからないルーレイラの発言に、アキラは笑っていいのかどうかもわからない。


「アキラどの、あまりこいつの話を真面目に聞かない方がいい。頭が悪くなるぞ」

「はあ。あ、ところでフェイさんって、本当に中華……って言うか、元時代の人なの?」


 自分についての話題を振られることを想定していなかったのだろう。

 フェイは若干驚きながらも真面目な態度で答えた。


「いかにも。しかし、リズも私の暮らしていた土地や時代のことはよく知らないようだった。縁もゆかりもない、遠い国の遠い時間のことだから無理もないがな」


 フェイ自身も、他の転移者が生きていた国や時代についての知識はほとんどない。

 それはこのリードガルドに飛ばされてきた者にとって、仕方のないことだと割り切って過ごしてきた。

 しかしアキラにとっては違う。


「失礼でなければ、故郷はどのあたりか教えてよ」


 学生時代から本やテレビ、ネット情報の中でしか知ることのなかった、中国史の生き証人が目の前にいるのだ。

 どうしても、歴史好きとして湧き上がる好奇心を抑えきれずに、尋ねてしまった。


「生まれも育ちも河南の、許昌だ。倭国……貴殿の言い方では日本と言うのか、そこで暮らしている人にとっては馴染みのない土地だろう。東の海からも遠いしな」


 許昌は中国内陸部、黄河の南に位置する町だ。

 歴史的な古都ではあるが、周辺の有名な町に比べれば知名度では落ちる。

 そうフェイは自覚していたが、アキラは許昌を知っていた。


「マジで!? 許昌っつったら、少林寺、近いじゃん!?」


 アキラは思わず興奮して叫んだ。

 中国拳法で有名な寺院、嵩山(すうざん)少林寺のことである。

 転移して目覚めてから、基本的にのほほんとしていたアキラが突然大声を出した。

 そのことにフェイも勿論、ルーレイラはのけぞって転びそうになるほど驚いた。


「な、なんだい? フェイのご実家ってば、そんなに有名なところだったのかい?」

「洛陽や開封に比べれば、それほど名のある町でもないと思うが……確かに嵩山は近いな」


 と言っても許昌の町と嵩山少林寺の距離は最短ルートで120kmほど。

 14世紀の中国人にとって身近で楽な道のりというわけでもない、微妙な距離である。


「リズさんに聞いたけど、フェイさんってば武術の達人なんだろ? やっぱ少林寺で修業したの!? フンハって言いながら石畳が凹むまで踏み込んだり、暗闇のなかで木人に囲まれてボコられたり、寺が悪党の群れに襲われて撃退して悪党を籠に入れて崖から投げ捨てたりしたの!?」


 オタクが早口でまくし立て始めてしまった。


「わけのわからないことをまくし立てるな。そもそも私は女だ。嵩山で修業できるわけがないだろう」


 少林寺そのものは広く参拝者を受け入れている大寺院である。

 しかし寺に入って修行生活を送る、僧になるという点においては女人禁制の世界。


「そ、そか、ゴメン、興奮して取り乱した」

「別にかまわないが、少し落ち着け」

「でも許昌いいじゃん! 熱いじゃん! 偉くなった曹操が漢の皇帝を連れて都を構え直した所じゃん! しかも少林寺近いじゃん!! い~いなぁ~! 行ってみてえ~~!」

「少林寺はともかく、曹操は余所の国の人間がそんなに憧れるようなものか……?」


 フェイにとっては、隣町にある老子のお堂の方が故郷の自慢と思っていた。


 心底羨ましそうに、アキラはうめく。


 その感動をいまいち理解できないフェイは戸惑うばかりだった。

 ちなみにフェイは故郷の許昌にゆかりのある歴史上の大人物、三国志の英傑として知られた曹操孟徳を、心の底から嫌悪し軽蔑している。

 フェイが好きな三国志の英雄は一に趙雲、二に姜維であった。


 もっともそれは曹操を悪役とみなし、劉備とその配下、蜀漢の武将たちを善とみなす時代的価値観の中でフェイが生まれ育ったからという理由が大きいのだが。


 アキラの姿を見て、ルーレイラはいたずら心が湧きだし、フェイにこんな質問をした。


「そのお寺の関係者は、フェイの親族やお知り合いにはいなかったのかい?」

「勿論いたぞ。地元で大きな寺だったからな。町中いたるところに少林寺の関係者は沢山いたさ」

「身近に親しまれているお寺だったんだね」

「ああ。私の親族もちょくちょくお参りに行っていたし、うちの実家は寺に寄進もしていたようだな」


 フェイの実家は許昌の町で武術道場を開いており、家族親族には軍や武門の関係者がとにかく多かった。

 元王朝以前の時代から許昌の町に根を張って、兵士や武官を多く輩出している家柄だったのだ。

 技術研鑽や修行の意味で少林寺の僧侶と接する機会も多い。


 フェイの実家がそもそも少林寺、禅宗の檀家、いわゆる在家信者であった。

 冠婚葬祭などの特別なことがあるたびに、少林寺に世話になっていたのは事実である。

 福井県民に対して、永平寺を知っていますかと聞くようなものだ。


「フェイはそのお寺にお参りに行ったことは?」

「ごくたまにはな。家族と一緒に寺に行って坊さまの説法を聴くことはあった。幼い頃、寺で騒いで親に怒られた覚えがあるよ」


 ルーレイラにそう答えたフェイの言葉を聞き、アキラが文字通り地団太を踏んだ。


「リアル少林少女やんけ! 最高かよ!」

「だから私は寺で修行はしていないと言うのに。あと少女とか言うな。そんな時期はとうに過ぎた」


 いつの間にか顔を赤くして、若干上ずった声で反駁しているフェイであった。



 そこに、肩の凝る地味な書類仕事を一区切りさせたリズが戻ってくる。

 リズの場合、肩こりの理由が仕事以外にも大きくふたつ、胸部にくっついているのではあるが。

 それはそれとして、目の前のカオスな騒動に、リズは書類仕事以上にうんざりした。


「どうしたんです、戻って来るなりこの騒ぎは」

「やあリズ、お疲れさま。いやあ、どうもフェイの生まれ育ったご実家が、有名な武術の寺院に関係しているらしくてね」


 ねぎらいにルーレイラが冷たい茶をリズに渡し、状況報告を続ける。


「それを聞いたアキラくんが羨ましすぎて悶え苦しんでいるところだよ。ここにお酒を持ってきて肴に飲みたいくらいに笑える光景だ」


 かんらからと笑いながら説明するルーレイラの言葉にリズも眉をひそめる、が。


「有名なお寺……まさか、少林(シャオリン)ですか?」

「なんでリズまで知ってるんだ……」


 げんなりするフェイにリズは告げた。


「アキラさんも若い頃に武術を習っていたらしいです。古く歴史のある少林寺を尊敬しているのだと思いますよ。少林寺は私たちの時代でも有名で、憧れる人も多かったですから」

「ほう」


 リズの口から「武術」という言葉を聞き、フェイの体の周辺だけ、弛緩していた空気が引き締まった。


 ちなみにリズも、映画などで多少見知っているのでシャオリン・カンフーは好みであった。

 映画や小説などのフィクションなら、切った張ったのアクションも平気であるのは、リズの不思議なところである。


「アキラどの、だったら少しくらい、私が相手でよければ冒険に出る前に体を動かしておくか?」


 フェイがそう申し出る。


「長々としたギルドの契約などの話を聞かされて、体もこわばっているだろう。多少はほぐしたほうがいい。汗をかいて心身を目覚めさせるためにもな」

「どうせ私の説明は長いですよ」


 悪気なく放たれたフェイにの言葉に、リズは若干傷付いた。


「フェイがそう言うなら、僕がアキラくんに魔法の講釈をたれるのは後でもいいか」


 ルーレイラもフェイの思い付きに異論を挟まない。


「え? 練習って言うか、組手?」

「軽くだ、軽く。お互い怪我をしない程度に技を交換し合おう。どうだ?」


 その申し出を受けて、アキラは顎に指先を当てて少し考え、小声でぶつぶつ言い始めた。


「……中国拳法は空手より五百年先を進んでいると誰かが言っていた。でもフェイさんは俺より六百年以上も前の時代を生きた人だ。単純計算で空手に百年分のアドバンテージがある……」


 熊爪算の使い手も真っ青なガバガバな数学であった。


「六百年……」


 アキラの呟きからその数字を拾い、リズはフェイの横顔を見つめた。

 遠い昔の人だとは思っていたが、自分とフェイの間にそれだけ時代の開きがあるのだということを、リズはこの時になって初めて知ったのである。

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