六段の調べ

増田朋美

六段の調べ

六段の調べ

今日も、寒い日だった。空は曇って、晴れているのか、曇っているのか、よくわからない天気だった。今日も日本のどこかでは、今最も流行っている発疹熱のせいで、誰かが倒れたり、あるいは、人生を終えたりしているのだろう。中には、家族を失った事に耐えきれず、命を落とす人もすくなくないかも知れなかった。そういう訳で、日本の経済力がどうのとか、政府が無能すぎるとか、評論家は口をそろえて言うのであるが、一度もその通りになったことはなく、日本のSNSには、不満ばかりが募っていくのが現状であった。

そういう訳で、みんな会社での仕事時間を短縮するとか、時間差通勤するとか、あるいはインターネットを利用して、在宅勤務にするとか、そういう事ばっかりやっていた。でも、これができるのは、一部の富裕層だけに限られて、平民には全くできないという事を忘れてはいけない。

被害は、会社勤めの人ばかりではなかった。コンサートとか、映画館とか、そういう人が集まる系列のイベントがすべて中止された。さすがに、それに従わないものは死刑にするとか、そういう独善的な法律はできていないが、このままでは、そのくらいにしないと、流行を抑えることはできないのではないかというくらい、流行ってしまったのである。

幸い重症化する人はあまり多くなく、後遺症を残すという人も少なかったが、なんせテレビが、そういう人の話題ばかりをこぞって放送するもんだから、一般の人にも、恐ろしいものがやってきたという認識を植え付けてしまった。それに煽られて、多くの人たちが外出を取りやめにしたので、電車が空っぽになったり、街には人っ子一人いないという風景が連続して見られるようになった。スーパーマーケットでは、我先にと食料を大量に買い占めるので「米騒動第二弾」という名前を付けて、新聞が代々的にそれを表示するようになったので、また食料が買えないというおかしなスパイラルが、見られるようになったのである。こういう日本のおかしな光景を見たら、諸外国の人はなんというんだろうかな、なんて、批評も見られるようになった。

まあとりあえず、前置きはここまでにして、花村家にもこの発疹熱の影響は少なからずあった。今までお箏を習いに来ていたお弟子さんたちが、外出を禁止されいるからと言って、やめていくものが出てきたのである。そういう訳で、花村家に入ってくるお金もかなり減った。ある日、花村さんは、いつも通りお手伝いにやってきた、秋川さんに、こういったのであった。

「秋川さん。こんなことを言うのも、なんといいますか、申し訳ないのですが。」

「はい、何でしょう、先生。」

秋川さんは、花村さんの前に正座で座った。

「本当に申し訳ないのですが、今日来ていただいたら、明日以降は無理して家へこなくても結構ですから。」

と、花村さんは本当に申し訳ないという気持ちを隠し切れないでいった。

「いいえ、私は、賃金など関係ありませんよ。先生。先生のおそばでお仕えさえできれば、それで結構です。」

秋川さんは静かに言う。

「そういう、ただ働きという訳には、行かないでしょう。秋川さんだって、ご自身の生活がありますでしょうに。だから、もうここを出て、もっとよい給金をくれるところにいって、生活を立て直してください。」

花村さんは、苦しいと思いながら、そういうことをいった。

「いいえ、かまいません。あたしは、先生と一緒にいますよ。ただ働きだろうと、給金が何であろうと、あたしは、先生と一緒に生活できれば、それで満足です。だから、これまで通り、先生のお手伝いをさせて下さい。」

そういう秋川さんは、本気で言っているのか、それとも無理して言っているのか、わからなかった。

「秋川さん、無理しなくて結構です。始めは、好意的に接していただいても、こういう状況が続く以上、必ず、不満が生まれてきて、いさかいが生じてきます。そういうときの解決策は、醜いものである事が多いんです。ですから、そうならないように、もっと、良い境遇の場所へ避難されたほうが、宜しいのではないでしょうか?」

花村さんは、どこかのテレビドラマに出て来そうな、ストーリーをいった。

「いいえ、先生。戦時中じゃないんですし、今は、困ったときは、色々支援策も出してくれる、便利な時代になったものですから、大丈夫です。だから、あたしの事は気にしないで使ってくれて結構ですよ。先生は、いつも通り、お箏教室を続けてください。」

「そうですけど、諍いが生じたら、取り返しがつかなくなることだってあるんですよ。その前に、整理しておく事も、必要なんじゃないですか。そうならないようにするために、なんとかしておくことが、目下の急務と言えるのではないかと思います。」

花村さんはそういうが、秋川さんはにこやかに笑って、

「先生、一寸焦りすぎなんじゃありませんか。あたしは、見かけでは年寄りなのかも知れないけど、それ以外では、まだまだ働けます。そんなあたしを、解雇するのは、もうちょっと後にしてもらえないでしょうか。今、あたしを追い出したら、あたしが、先生に使えるという生きがい迄なくしてしまうことになりますもの。」

そういうのだった。

「そうですか。」

花村さんは、ふっとため息をつく。

「私は、幸せ者です。そうして、生きがいなんていってくれる人がいるんですから。」

「先生、そういう訳ですから、今日もお稽古始めてください。今はちょっと大変なのかも知れないですけど、台風は、上陸したって、半年で過ぎ去りますし、大雨は長くは続きませんよ。」

そういう秋川さんは、よいしょと立ちあがって、部屋のお掃除を始めたのだった。全く、こういう時に女性というものは強くなるんだなあと思いながら、花村さんも、立ち上がって、稽古場の方へ歩き始める。

「まあ、最近の台風も大雨も、長時間続いて、壊滅的な被害をもたらすと、言いますけどね。」

と花村さんがつぶやくと、

「今電車の中で読んできた、老子の本に書いてあったんです。」

と、秋川さんは、掃除をしながら言った。そして、有名なディズニーソングである、小さな世界を口ずさみながら、次は、窓ふきの仕事に取り掛かる。

暫くすると、インターフォンが鳴って、生徒さん、つまり、お弟子さんがやってきたのだ。花村さんは、玄関に行って、彼女を出迎えた。

「こんにちは、今日もよろしくお願いします。」

という、お弟子さんに、花村さんは、どうぞと言って、彼女を中に入れた。

「それでは、お稽古、始めましょうか。」

花村さんは、彼女を部屋に案内して、箏の前に座らせた。

「じゃあ、今日は、何をお稽古しましょうか。先月、新浮舟を稽古し終えたばかりでしたね。それでは、次は雲井の曲とか、初音の曲なんかいかがですか?」

花村さんは、本棚から楽譜を出した。

「先生。今日はちょっとお願いがありまして、お稽古が終わってからでいいんですが。」

不意にお弟子さんはそういうことを言う。

「何でしょう。折角だから、お稽古の前に言ってしまった方が、宜しいのではありませんか?」

「ええ、、、。」

お弟子さんは、花村さんがそういうと、ちょっと口ごもりながら、こういう事を言い出したのである。

「先生、長い間お世話になりました。お稽古は今日で最後にさせて下さい。」

「どうしてなんでしょう。理由だけでも聞かせてもらえないでしょうか?」

花村さんはお弟子さんに聞いた。

「はい。主人が、お箏なんかやって、贅沢だというモノですから。このご時世、自分のすきなことやって、という訳にはいかないんです。昨日から、学校が休校になりまして、子どもたちも、家にずっといるようになりましたし、その子たちの事も、世話をしなければなりませんから。これを機に、私も、考え直しました。まだ、世のため人のために働いて暮らさないと、いけないって。ですから、新しい曲など、もう、要りません。今までありがとうございました。」

と、お弟子さんはそういう事を言うのである。たぶん、西洋では、世情に流されるという事は少ないだろう。他人に危害を加えたりしなければ、何をやってもいいというのが西洋であるが、日本では、みんな同じ姿勢でいないと、徹底的に嫌がらせされたり、つぶされたりする。

「ええ、わかりました。そういう事なら、私に止める権利はございません。どうぞ、自由になさってください。」

花村さんは、そういうことを言った。また、少しでもならいなくなったら来てくれとか、そういうセリフも言わなかった。

「習い事など、そういうモノです。習い事が繁栄しているのは、平和な時でないとできませんから。今は非常時ですし、少しでも平穏な生活が送れるように祈るしかないでしょう。」

「先生、ありがとうございます。あたしも、催促されるのが怖くてずっと言えなかったんですけど、思い切って先生に話せてよかった。先生が、そういうことを言ってくれて、これでやっと決着がつきます。それでは、先生、本当にありがとうございました。」

お弟子さんは、やっという事ができてよかったという顔をして、そういうことを言った。

「じゃあ、今日は、これで帰ります。先生、長らく師事できて楽しく学ばせていただくことができました。ありがとうございます。」

お弟子さんは、よいしょと立ち上がって、そそくさと、お稽古場を出て行った。その背中を、花村さんは、悲しい目で見送った。

お弟子さんが出ていくと、なんとも言えない静かな空間だけが残った。次のお弟子さんがやってくるまでは、もうしばらく時間がある。その時間が、何とも長く、無駄に感じられた。しかたなく、花村さんは、戸棚から乱れの楽譜を取り出して、弾き始めた。こんな悲しいときに、歌もの何てやりたくなかった。なぜか知らないけど、古典箏曲の歌ものは、悲しみを表す曲と言ったら、大体失恋歌が多くて、こういう悲しみを表してくれる曲というモノは、なかなかなかったのである。

何だか、乱れの旋律迄むなしくなってくるほど、家の外は、人っ子一人いない。いたとしても、みんな、サングラスをかけてマスクをし、手袋をして、片手にアルコールの消毒液を以て、「武装」している。簡単に声をかけてはいけないという雰囲気もあった。車なんてどこにも走っていなかった。あるとしたら、物流のトラックか、空っぽのバス、あるいは、タクシー程度だ。ただ、霊きゅう車というモノが走っていないのが、唯一の違いだった。つまるところ、死亡した人はほとんど出ていないのだ。という事は、14世紀のペストの流行とはまた違う状況なんだろうと思われるが、街を歩く人が、なんだかその時はやった格好に近いので、なんでこうなるんだろうと笑いたくなった。

乱れを弾き終わると、次は六段の調べを弾いた。六段に始まり六段に終わる、という伝説もあるほどの、名曲である。たぶん、タイトルくらいは誰でも知っているくらい有名な曲であった。

不意に、外で子供の声がしたので花村さんは顔をあげた。

「ねえ、あそこでお箏やってるよ。誰がやっているんだろうね。」

多分、小学校低学年くらいの小さな子供の声である。

「でも、どうして、お箏とわかったの?」

今度は、中年の女性の声。なんだと思ったら、たぶん母親と子供が一緒にいるんだろうな、と花村さんは思った。多分、一組の親子が、ここを通りかかったのだ。

花村さんは演奏の手を止め、窓を開けた。すると、予想したのは当たっていて、小さな男の子が、おかあさんの手を引いてそこに立っていたのであった。おかあさんの方は、マスクで「武装」していたが、男の子のほうは武装していなかった。これだけ武装するようにと騒いでいる時世の中、武装をしないでいるのは、なにか理由があるのかも知れない。最近は、AD何とかとか、障害名が付く、やたらと過敏な子も多いので、もしかしたら、そういう事なのかもしれないと、花村さんは思った。そして、そういう子供が、今色々な問題を起こしているが、本人には悪気はないという事も知っていた。

「どうもこんにちは。暖かいから、おかあさんとお散歩ですか。」

花村さんは、窓から、そう声をかける。

「うん。今お箏弾いていたの、おじちゃん?」

と、男の子は聞いた。ここは正直に答えるべきだろうと思った花村さんは、

「ええ、私が弾いておりました。」

と、答える。

「タイトルは、六段の調べだったね。」

少年はそういうことを言った。隣でお母さんが、またそんな事言って、と呟くのが見える。

「ええ、六段の調べですよ。しかし、それをあなたのような年で、なぜ知っているんですか?」

花村さんは、そういうことを言った。

「此間、学校訪問で、お箏の先生が来てくれて、演奏してたんだよ。」

と、答える少年。確かに、最近では、演奏家が学校を訪問することも増えている。多分誰かが、六段の調べを弾いたのだろう。お箏の曲として、一番初めに聞かせるのはこの曲だから。

「そうですか。しかし、もう学校は休校になってかなり立つでしょう。それなのに、覚えていらっしゃるのですか?」

と、花村さんが聞くと、

「うん、学校で聞いた演奏より、ずっとうまかったから、思わず聞いてしまいました。」

と、にこやかに笑っていう少年。お母さんはそんな失礼なこと言って、というそぶりを見せたが、花村さんは、にこやかに笑い返した。

「ありがとうございます。」

そう言って窓を閉めようと思ったが、少年はまだそこに立っている。お母さんは、また悪い癖が出たと思っているのだろうか。それともどうしていいのかわからないのだろうか。いずれにしても、彼にてを出さずにそこに一緒にいた。

「今日は、どちらかへ、用事でもおありですか?」

と、花村さんは聞いてみる。

「そうじゃありません。僕はうちへ帰るところです。」

と、言う少年であるが、お母さんはちょっと困った顔をした。マスクをしているので、顔全体は分からなくても、花村さんは、目を見ればそういうことを言っているのだとわかる。

「あの。」

花村さんはいった。

「よろしかったら、一寸お寄りになりません?私もまだ時間がありますし、本物のお箏を体験してみませんか?」

おかあさんは、申し訳なさそうな顔をするが、少年は平気だった。

「ありがとうございます。じゃあ、入らせていただきます。」

多分、子どもだから、敬語の使いかたも間違っているのだろうが、花村さんは、あえて訂正しなかった。これを待っていたかのように、秋川さんが、玄関のドアを開けてくれた。そして、二人ににこやかに笑って、どうぞ、と中へ招き入れる。

「先生は、こちらの部屋におられますよ。どうぞ。」

秋川さんは、二人を、箏の部屋に連れて行った。

「先生、見えましたよ。えーと、僕のお名前は?」

「はい、加藤文治です。」

と、彼は答えた。こんな非常時でも、子どもは元気で、前歯を見せてにこやかに笑っている。おかあさんの方は、まだ来てもいいのかわからないような顔をしていた。

「ここでは、空気清浄装置もありますから、マスクで武装する必要はありませんよ。」

と、秋川さんがそういうので、お母さんはマスクをとった。そうすると、偉く戸惑った女性の顔が見えた。先ほど自己紹介した文治君は、箏というモノを間近で見て、嬉しそうな顔をしている。

「まあ、お二方座ってください。普通に、お友達の家に来たのと同じような気持ちで、力を抜いてください。」

そういう花村さんは、二人に、箏の前に座るように促した。

「おじさん。もう一回、六段の調べを弾いて。」

と、文治君がリクエストしたので、花村さんは、もう一度爪をつけて、六段の調べを弾いた。さらに笑顔が増してくる文治君に、お母さんはどうしたらいいのかわからないという顔をした。

「あれ、爪が違うよ。」

という事は、つまり文治君は、生田流を聞いたんだな、と花村さんは思った。今は琴と言えば生田流というのが定説化している。弾き終わると花村さんは、

「お箏は、生田流と山田流と二つ流派があるんですよ。私たちが弾いているのは、山田流というモノです。」

と説明した。

「でも、山田流を見たことない。」

という文治君に、

「ええ。確かに、お箏の九割くらいが、生田流ですからね。確かに生田流しか見たことないかも知れないですね。」

と、花村さんは言った。

「其れにしても、おじさんは、しずかだね。」

文治君はそういうことを言う。花村さんがどういうことですかと聞くと、

「だって、生田の先生は、お箏をたたきつけるような感じで、思いっきり大きな音量で弾いてたよ。」

と答えるのだ。

「なるほど。つまり、文治君は、沢井さんの系列の演奏を聞いたんですね。」

と、花村さんが言うと、

「僕、沢井さんより、おじさんの演奏のほうが好きだよ。」

と文治君は答えた。

「そうですか。でもねえ、ほとんど有名な人は、沢井さんから出ていると言っても過言ではないでしょうね。沢井さんはそれくらい、大きな派閥ですから。私たちは、沢井さんのおこぼれに預かって、ほそぼそとやっているだけです。」

思わず、花村さんは、そういってしまった。そうはなりたくないけれど、多数派である生田流に援助してもらわないと、山田流の社中は成り立たないのが今の時代なのだ。

「どういう事?」

小さな文治くんがそう聞いてくる。

「ああ、仕方ないんですよ。もう、お箏を弾く人たちは、沢井さんの力を借りないと、やっていけないんですよ。沢井さんは沢井さんで、山田流は悪い悪いとしか言いませんしね。たぶん、まとまることはないでしょうね。」

花村さんは、文治君の質問に、答えになっているのか、わからない答えを出した。文治君は、こういう風に理解してくれたらしい。

「つまり、山田流は、生田流にいじめられているんだ。僕も、そうだから、よくわかったよ。」

「いじめられている?」

花村さんは、その言葉にちょっと変な響きを持った。

「そうなんです。この子、どうしてもマスクをつけられなかったり、体操着の洗濯表示が気になったりして、それで学校の同級生に、いじめられているらしくて。学校が休校になって、よかったなとも思ったんですけど、今度は家の中でバタバタされたら困ると、家族にいわれるようになりまして。」

と、彼のかわりにお母さんが、答えた。そういう事だったのか、それで、お母さんは、悲しそうな顔をしていたんですね、と花村さんは、聞こえないようにつぶやく。

「だから、家の中に居られなくて、時々こうして散歩に出ているんです。確かに、このご時世ですから、みんな、ピリピリしているのは分かるんですけど、それをどうすることもできないですし。私も、こんなことになって、どうしたらいいのかわからないんです。」

と、半分泣いているお母さんに、花村さんは、そっと手拭いを渡した。でも、自分が、この家に来てくれないかと言い出すことは、どうしようか迷った。若しかしたら、勧誘されるのは怖いと思っているかも知れないからだ。

「おじさん、六段の調べ、もう一回弾いて。」

そういう文治君に花村さんはにこやかに笑って、はめていた爪をもう一回はめ直して、六段の調べを弾いた。


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六段の調べ 増田朋美 @masubuchi4996

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