第11話 応急処置

 服部さんの家を出たとき薄汚れた格好の少年がちょうど通りかかった。小学生高学年だがランドセルを背負っておらず、左手に、本が何冊も入った黒い布袋を提げている。

「あれぇ、庄司くん」

 熊沢くんが、声を上げた。

 呼びかけた声に振り返ったのは、今日転校してきたばかりの、庄司だった。

 薄汚れて見えたのは、土埃のためのようだ。シャツの背中と半ズボンの尻が汚れている。両膝と右肘に擦り傷が、左手も怪我があるかもしれないが、俺のほうからは見えない。これから類推すると転向初日にやらかしたようだ。

 熊沢君に声をかけられて庄司は驚いたようだ。

 転校初日で40人以上いるクラスメートの顔を覚えきることなどできまい。俺や熊沢君は庄司とは席も離れていて顔か名前かいずれでも覚えることは無理だろう。だから、熊沢君が声をかけなければ庄司と係わることはなくて済んだはずだった。

「えーと、もしかして、同じクラスだっけ?」

 真新しい黄色い帽子をずらして、頭を掻きながら庄司が答えた。

「ああ、僕は十鳥とつとり明彦、こっちが熊沢慎一君。同じ5の2だよ」

 俺が紹介すると、庄司は変な顔をした。

「鳥取?」

 お約束な奴だな。どうせ、珍名奇名図鑑に載ってるよ。

「とっとり、じゃない。だ」

訂正すると、きょとんとした顔になる。

「へぇ、初めて聴いた「庄司君、怪我してるじゃん!」」

 庄司の声を遮って熊沢君が叫んだ。

「そうそう、どうしたんだ?」

 ぐっとつまる庄司。手に持った袋に視線を落とす。よく見るとそちらも薄汚れている。

「ちょっと、因縁つけられちゃって」

「それって、教科書だよな」

「ああ、そうだ…じゃ」

 庄司が、その場を立ち去ろうとした。

「ちょっと待って」

 小柄な熊沢君が庄司の手を掴んだ。

 驚いた。熊沢君は、俺の中のイメージでは、おどおどしてとても積極的に行動するようには思えなかったから。人は成長するのだ。特に、年若い世代ならその成長の度合いは劇的なほど鮮やかだ。それを目にすることは少ないけれど、実際に起きることがあるのだと、やり直しのこの時間で実感できる。それが、俺の胸を打つ。

「なんだよ」

と庄司。

「僕の家、すぐそこだから、そのケガを、おーきゅーそちしよう。」

これは、熊沢君。

「応急処置な。庄司君、そうしなよ」

俺も、後押しをする。そして、そうなった。


 小学生の足で20分ほど俺の家の方向とは逆に歩いたあたりの、新興住宅地の一角にある熊沢君の家は、真新しいブロック塀に囲まれた、青い瓦屋根の二階建ての大きな家だった。聴けば熊沢君の父は私鉄の駅前で文房具店を営んでいるという。道々、熊沢君と二人で怪我の原因を聞き出していた。6年生に因縁をつけられたということだ。大きな体で目立つというだけのことだったらしい。今日担任から渡されたばかりの真新しい教科書が入った手提げ袋をとられそうになったという。それを守り切ったというからにはそれなりの立ち回りがあったのだろう。

 熊沢君の家で出迎えてくれたのは、背の高い彼の姉だった。流行りの暗色のミニスカートと薄い黄色のブラウスにショートカット、久美子と名乗った短大生と称する彼女は、庄司の怪我を見て、有無を言わさず庭の散水栓で傷を洗っていた。年上の若い女性にいうことをきかされ真っ赤になったまま抵抗しきれずにいる庄司の姿は、前世の記憶にもない類のもので、熊沢君も俺もにやけずにはいられないのだった。

「暴力はダメよ。暴力は!」

 いかにもガキ大将といった庄司を子ども扱い(まあ、子供には違いないが)して、無理やりいうことを聞かせながら、久美子さんは、庄司の怪我が喧嘩が原因と決めつけて、喧嘩や、暴力がいかにダメかをクドクドと、庄司も俺も口を挿む隙がないほどのお説教を浴びせながら、気が付くと水で傷を洗い流すという一仕事をいつの間にか終えていた。

 赤チンを塗って、ガーゼで傷抑え、絆創膏で固定するという簡単な治療を、終えると、このお姉さんは冷えたサイダーとどら焼きで我々をもてなしてくれた。そこで、弟をよろしくねと、お願いされたわけだが、これだけのもてなしを受けて、俺も庄司も否やがあるわけではなく。熊沢君からも、彼の家を辞す際に、名前の呼び捨てを約束させられた。当然庄司もである。

 俺は庄司と関わることをできるだけ避けるつもりでいた。中学時代の3年間、結構な悪名を轟かせていたがために、前世であっても大した付き合いがあったわけではないが、もっと接点を少なくしようと思っていたのだ。だが、そうはいかなくなったようである。それに、わずか1日の付き合いではあるものの、庄司はいたって普通の少年に見えた。考えてみれば、番を張っていた中学時代にしても、本当に彼が望んだことだったのか疑問である。視野の狭かった子供の頃の印象を払拭したように、俺には思えたのだった。

 熊沢君の家からの帰り道、庄司が俺より2つ手前のバス停で降りるまで、言葉少なに話をすることとなった。そこで知ることになったのは、

「熊沢の姉ちゃんって、良い人だなあ」

と、繰り返す、体の大きな少年の心だった。俺にとっては、いろいろと予定外のことが多すぎて、ただただ困惑するばかりだった。

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