第10話 転校生

 二学期になって、初日。

 クラスは大阪万博の話で持ち切りだった。声高に太陽の塔の印象とか各パビリオンの感想を話し、異口同音に人が多かったとため息をつくのである。熊沢君も行って来たらしい。写真を見せようとするので、アゲハチョウのことを訊くと、ニコニコしながらランドセルから、新聞紙に包んだものを取り出そうとしたところで担任の先生がやってきた。

 担任とともに転校生がいた。

 小学生とは思えない体格。冷静に見ればこどもこどもした雰囲気は残っているものの、他の児童と比べるとごついとしか言いようのない印象。太い眉に四角い顎、鼻筋はスッとして大きな口からは、白い歯が覗く。眼は大きいのにたれ目であり、短く角刈りのように刈り込んだヘアスタイルは、スポーツ刈りとも呼ばれるものだった。

「神戸から来ました。庄司しょうじ安司やすしです。よろしくお願いします」

 関西から来たのに、いかにもな関西弁風の言葉を使わないのは、千葉や静岡など転々としているからだそうな。大きな体を折って一礼する庄司安司は、一見無害に見えた。でも、俺は知っていた。彼の名が、中学卒業までの間、一部では恐怖と共に語られるようになることを。俺は庄司安司が教室の一番後ろの席に座り、周辺の男子からの質問に訥々と答えている様子を、反対側の席から眺めながら、過去の記憶では扱いかねる猛獣としか言い様のない少年の出現にどう対応したものかと思い悩んでいた。

 悩み事はほかにもあった。

 五十過ぎの精神年齢を自認している俺だが、さまざまな場面で、肉体の年齢に引きずられている。どうも、体は思春期に突入したらしく、エッチィ話に過剰反応するのである。いい例が洋三にもらったグラビア誌である。ラジオ放送で有名になったとあるハーフ美少女パーソナリティーを特集したグラビアがあり、目が離せなくなってしまった。洋三は『使え』などと言っていたが、どうにも思い切れず、机の引き出しの奥に、封筒に入れて、隠してある。思えば、小学生時代、こんな風に体の一部が強張ったとき、どう処理してよいかわからなかったなあと、慨嘆したり(大げさだが)したのである。してみると、洋三はいたことになるな。

 次に、ジョギングはしているものの、思ったようには身体能力が伸びない。走る能力を伸ばすのであれば、アクセル筋の大腿二頭筋を鍛えるのが一番のはずだが、日本人の骨盤の付き方はやや前傾して歩くのに適しているらしく、ブレーキ筋の大腿四頭筋がどうしても発達してしまうらしい。蹴り足を強く意識し、足の裏全体同時に着地するように走ればいいらしいが、なかなか難しい。気が付くと、踵で着地して走っているのに気がついてしまう。腕もそうだ。手のひらを地面と水平にして、腕を振るようにすると筋肉の動きがスムーズになるそうな。これも気が付くと、地面と垂直になっている。体に染みついたものはなかなか修正がきかないようだ。これは、信じて走り続けるしかあるまい。

 余談だが、ハイヒールを履く女性は、足のラインを美しく見せたいために履くものらしいのだが、すると常につま先立ちで歩くことになる。すると、大腿四頭筋が鍛えられるそうな。大腿四頭筋は脚の横に張り出した筋肉だから、ハイヒールで歩けば歩くほど足のラインの美しさは・・・。ま、それで鍛えられるほど歩く人はいないだろうな。

 そして、ヨーガの呼吸法が使えない。転生直後には使えたはずなんだが、何度も試したが、深いところまで息が入った感じがしないのだ。

 あと一つ、これが最も大事なことだが、かつての人生の記憶が薄れてきている。確かに、身辺状況は変えることができたこともある、しかし、何も成し遂げたわけじゃない。記憶が薄れてしまって、安易に流される、それが恐ろしい。るり子を救うんだ。そう決意したではないか? かつて、俺が真に愛したただ一人の女性、その輝くような表情、美しい姿態・・・

 いけね、授業中だっていうのに、堅くなっちまった。


 放課後、熊沢君に服部さんの家に写真を持っていくので一緒に行かないかと誘われた。

 二つ返事で同行する。服部さんの家で、玄関のブザーのボタンを押すが誰も出てこない。もう一度ボタンを押して、耳を澄ませてみる。ブザーは確かに鳴っているようだが、人の気配はない。どうしようか、熊沢君と目を見合わせた。

 電話で出向くことを事前に知らせればよいではないかと思われるかもしれないが、この時代、電話がある家は少ない。電話の加入権の他に電電公社の債権を購入することが条件になっていたりして、一般の家庭にとっては商売でもしていない限り、必須という意識もなくハードルが高い設備だった。俺の家にもないし、祖父母の家にもない。うちの団地にしてから30戸ある1棟で1、2軒あるかどうかという普及率である。電話番号を聞くという習慣もない。

「また、今度にしようか」

 熊沢君は、不承不承うなずいた。踵を返し、家路につこうとしたところで、声をかけられた。

「あら、二人とも、いらっしゃい。何か御用かしら」

 服部さんだった。花柄のブラウスにボーダーのスカートで大きめの買い物かごを持っている。

「こんにちは」

「こんにちは、写真、蝶の写真を撮ったので持ってきたんです」

 熊沢君が、慌てたように言葉を返す。

「あら、どうぞ、上がって」


 服部さん宅で、サイダーを出されて、歓待された。

 熊沢君がランドセルから、新聞紙に包まれた八つ切りほどの大きさのパネルを取り出した。新聞紙を開くと、金魚鉢の中で翅を広げているクロアゲハの写真が現れた。外を飛んでいる同じ種の蝶とは違い写真のピントが甘いわけではないがふわっとした輪郭に見えた。

 写真は熊沢君の親父さんの趣味らしい。パネルも親父さんの手作りだという。

「綺麗ねえ…」

「はい…」

 服部さんも、俺も感嘆するばかりだ。

「これ、服部さんに貰って欲しいんです」

「え? これを?」

 熊沢君が大きく頷く。

「はい。こんな風に、写真に撮ることができたのも、服部さんのお蔭ですから」

「まあ」

 服部さんは感動した面持ちで熊沢君と写真とを交互に見詰めた。

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