第9話 造り酒屋の少年

 会津若松は盆地であり、意外に坂が多い。この時代、道路の舗装はコンクリートが一般的であるが、坂は固まるまで流動物であるコンクリートを使うことはできない。というわけで、アスファルトの舗装になるわけだが、何故かその工事を真夏だというのに今、祖父の家の前の通りを舗装工事しているわけだ。あちこち穴が開き、危なくなっていた道路を、舗装を一旦剥がし、左右半分ずつ車両の通行を遮断して小型のロードローラーで熱したアスファルトを圧着している。狭い道故に交通量は多くはないが、祖母の内職の材料を運搬する漆器屋のオート三輪が門柱の前に停まっているせいで、他に自転車すら通れなくなって、何やら言い争う声が聞こえてくる。

 祖母さんは、贈答品用の漆器の名入れの仕事をしている。出来上がった漆器の底、糸尻の内側に、企業名等のゴム印に黒漆を付けて押印し、印影に金粉を流して打包たんぽで軽くはたくと企業名が金色に浮き立つ。それを、毎日何百とこなしていく。その祖母の仕事部屋は漆の匂いが染みついている。その部屋に、山と荷物を積み上げて、空になったオート三輪が走っていくと、入れ替わるように祖父さんが帰ってきた。

 祖父さんは一人の少年を連れてきた。少年の名は、檜垣洋三といった。

 会津若松市内には無数の作り酒屋がある。洋三は、その中でも老舗の一つ若松七日町酒造という造り酒屋の三男坊であった。造り酒屋は町の有力者である。漆器商と並んで、明治期に戦禍に喘ぐこの地域の市民を経済面で牽引してきたと言っていい。

 そんな、まあ、お坊ちゃんを友人として紹介するのはどんな人脈があったか定かではないが、この洋三は、一つ上の小学六年生であったが、身長はほぼ同じで、痩せこけたインドア派の色の白い少年だった。そして、俺にとって人生最初の悪友となった。

 切っ掛けは囲碁である。小学生は囲碁よりも将棋をする事が多かったように思う。1回めの人生では、囲碁を覚えたのは三十歳過ぎであり、ご多分に漏れず小学生の時は将棋しか知らなかった。人生の末期には将棋か囲碁かというと囲碁派になっていた。思えば、その人生の中で、洋三とは確かに出会っていたはずだが、思い出といえるものはないのだった。

 初めて会った時に、将棋はやるか、囲碁はどうだと訊かれて、どちらもやると答えたら、じゃ囲碁をやろうということになり、祖父さんのうちに碁盤も碁石もなかったことから、洋三の家に行くことになった。洋三の家、若松七日町酒造蔵元は正に巨大な工場であり邸宅であった。白い延々と続く白い漆喰の塀の先に大きな出入口があり、独特の香りが漂っていた。日本酒の製造としてはシーズンオフであり、人は少ないようであったが、出会う人ごとに『坊っちゃん坊っちゃん』と挨拶される洋三を見て、何処か遠い存在のように感じたが、いたってフレンドリーに接してくれる洋三にかえって引け目のようなものを感じていた。洋三の部屋はその巨大な木造建築の三階の隅にあった。

 碁の腕前は互角であった。学校の友人は囲碁をするものがおらず、兄や職人とばかり打っていたそうだ。中学生の次兄には四子置いても勝ったことがないのだと零した。俺と洋三とでは、最初は俺がやや強かったが、回を重ねるうち差はなくなっていった。そんな関係が心地よく、滞在を伸ばし、こちらの新学期(8月24日に始まる)二日前まで滞在することになっていた。仲良くなった洋三だったが、明日には横浜に帰るという日に、三回ほど打った後、良い物をやるといって、『若松七日町酒造』とでかでかと書かれた大きな封筒を渡してきた。

「これは・・・!」

 封筒の中から出てきたのは、肌色の面積が大きな写真が沢山乗っている雑誌が数冊であった。悪戯に成功して勝ち誇るような洋三と雑誌を半々で見ているうちに、俺の下半身がやばいことになっていた。と、その時、洋三の名を呼びながら襖を勢い良く開けるものがあった。背の高い、丸眼鏡を掛けた若い男であった。

「何しとんのや!」

 叫ぶと、俺の手から雑誌を取り上げた。

「待って、兄ちゃん」

 洋三がその男に飛びついた。次の瞬間拳骨を頭に食らって、蹲る。

 男は、洋三の長兄、禎一だった。大阪の大学で醸造学科に通っているそうだ。帰宅して宝物が消えているのに気が付き、当たりをつけて洋三の部屋まで来たものらしい。

 洋三は、俺に記念になるものをあげたかったのだと言って泣いた。

「せやかて、俺も借りたもんやし、返せなんだら俺の方こそどつかれてまう」

 大阪暮らしは3年目だそうだが、もう言葉は関西人そのもののように聞こえた。

 俺は背の高い禎一に訊かれて名を答えただけで、気を飲まれて立ち尽くしていた。下半身はいつの間にか冷え冷えとしていた。


 翌日、会津若松駅のゼロ番線で、特急あいづに乗り込む俺に洋三は改めて封筒を渡してくれた。

「一冊だけだけど、ちゃんと兄ちゃんに貰った。大事に使ってな。じゃあまた」

 洋三は微妙な言い回しで、封筒を押し付けると、ニカッと笑った。学校では優等生と聞いている洋三の、悪戯っぽい笑顔に俺は頷いた。

「大事にする。また、夏休みには来るから」

 一緒に見送りに来てくれた祖母さんにも、

「おばあちゃんも、元気で。みんなにもよろしく」

当たり障りのない挨拶を、そして、少ししゃがんで、祖母さんと手をつないでいる寿美子の頭を撫でる。

「すみちゃんも元気でね」

 うんと頷く従姉妹にニカッと笑いかけ、洋三にも片手を上げて最後の挨拶。

 座席に座り、動き始めたホームに向かって手を振って、深く座り直す。封筒の中をチラッと見た。電車の中で鑑賞する訳にはいかないが、早くも血が集中しているのが判る。カバンの中にしまい込む。取り敢えず、自分の部屋に入るまで我慢か。

「身体に引き摺られてるなあ」

上を向いて独り言ちた。

 そして、俺は自宅へと帰る。最初の人生ではさして深い仲にならなかった少年と、短い時間にも関わらず、悪友と呼べる間柄に進展した友情を手土産に。『過去じんせいは変えられる』熊沢君のと付き合いもそうだが、そう再び確信できた喜びは、これからの先の人生でも最も暗い時期のになるはずであろう日々に、僅かながらも光が射したかのようで、ほんのちょっとだけ希望が湧いてきたのだった。

 あと一週間もすれば新学期が始まる。

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