第8話 磐梯登山
夏休みになっていた。
つつがなく、波乱の一学期が終わり、早8月の半ば過ぎ、俺は会津若松に来ていた。
会津若松市は福島県西部の、人口10万弱の地方都市である。
我が父母が生まれ育った町であり、俺にとっても故郷といえるのはこの街以外にない。そこへ、一人で来ていた。母の実家までは、駅から15分ほど、何度も歩いた道であった。
会津といえば、明治維新の際、最後まで幕軍の側で戦った藩として、戦火で破壊され新政府に収奪された土地である。当時のことは、武士階級でなくとも言い伝えられている。例えば『字も書けないような輩に顎で使われ』た屈辱感などはよく聞く話である。会津藩は町人層も含めて特に識字率が高い土地柄であったのに対し、薩摩藩、土佐藩などは武士階級ですらも識字率が高いとはいえなかった。それに加えて、戦前の政府は会津地方を徹底して差別した。インフラ投下がなされず、東京からの距離と人口の割に不便な土地であった。弾圧があればナショナリズムが生まれるのは当然のことである。会津若松市の象徴、地元では鶴ヶ城と呼ばれる会津若松城は、天守閣が昭和40年に再現された。その額は当時の市予算の20%近い額であり、市民からの寄付も6000万円に上ったことを挙げるだけで、何か感じるものがあるだろう。また後年、会津若松市が長州藩の藩都であった萩市から姉妹都市の打診を受けたときには、市会議員は『何!、長州の奴がか!今さら何を!』という反応がほとんどで、賛成数は僅かだったそうである。俺などは、幕末は萩市ではなく山口が藩都だったのでいいんじゃないかと思うのだが、そういうことでもないらしい。幕末に断罪された会津藩士の名誉を回復し、市長が公式に謝罪でもしない限り無理だろう。似たような関係は、日本に対する朝鮮半島民の感情にも表れているように思う。朝鮮半島は儒教というより朱子学の国である。朱子学は生まれつきの貴賓が最重要と説く思想なわけで、無意識下に朱子学の価値観を植え付けられている人々が、格下の国に支配されていた事実を面白く思うわけがない。とはいってもそれは韓国の貴族層の話で、平民層がそうであったかは甚だ怪しい。識字率もアジアでは底辺の国あったわけだし。まあ、現代に通じる教育が始まった第2次世界対戦後から考えても、明治維新から100年以上経つ会津でそうなのだから、70年も経ってない朝鮮半島民の感情を和らげるにはまだまだ時間が足りないだろう。豊臣秀吉を断罪し英雄化美化しないとでも日本政府が宣言すればまた別かもしれないが・・・
閑話休題。
というわけで、でもないが、会津若松という町には独特の価値観が今も息づいている。清廉潔白であれ。小狡く立ち回るな。正しい道を歩め、正しいことはお前の心が知っている。ただ、この土地から出て名を成した人は、そのような価値観に縛られていなかったことも事実である。だからこそ名を成したのかもしれないが。
ともあれ、わが祖父、母の父にあたる小路こみち信司郎しんじろうは、そんな会津の価値観が服を着て歩いているような人だった。困っている人を見捨てていられない。家族が、妻が、子供たちが困窮していようと、赤の他人に返る当てのない金を貸してしまう。騙されて金を奪われたことも数知れず。そんなだから、事業を興しても成功などするはずがない。もともとは大地主であったはずが、気が付くと住んでいる家の土地まで他人名義になっていた。そんな人であったと聞く。
俺は、よく母の実家に預けられた。引っ越しの時、母が弟を出産するとき、父が長期出張の時。子供の世話はそれは大変であるが、まあ、母方の祖父母にとっては、俺は初孫で、それこそ目に入れても痛くない存在だったらしいから、喜んで預かってくれたわけだ。
今回は夏休みの中1週間ほどの予定であった。俺一人が会津まで遊びに来たのである。
家に入ると、いきなり祖父さんに呼ばれた。明彦、ちょっと来てみろと。呼ばれて行ったのは、玄関わきの納屋であった。鋼線入りのプラスチックの波板で屋根を葺いてあるので意外に中は明るい。その柱の一つに何やら釘か何かで文字が書き削られている。読むまでもない、数年前に俺が、書いたものだ。そこには『くそじじい、天へいけ』と書いてある。
確か、小学校1年くらいだったはずだ。その時も祖父の家に預けられていた。多分、引っ越しか何かの時だったと思う。俺は、朝食をとって、別室で畳の上に寝転び何か本を読んでいたはずだ。ずかずかと祖父さんが入ってきていきなり耳をつかまれた。
「来い!」
「痛い、痛い」
そのまま引きずられるように、朝食を摂った卓袱台へ引っ張られていくと、祖父さんは俺の茶碗を指差し、こう言った。
「一粒残っている!」
確かにご飯が一粒茶碗の縁に残っていた。
そのとき、何と返したかは覚えていない。その返答が意に添わなかったのだろう、祖父さんは一発頬を張ると、今度は襟を捕まえて、引き摺るように納屋へ俺を押し込み、出入り口に鍵をかけたのだ。そのとき、俺が泣きながら、納屋の床に落ちていた釘で腹いせに書いた文字である。子供心に強烈な思い出であった。後に祖母から聞いた話では、預かった孫俺を、立派に躾けなければと張り切っていたらしい。
「忘れるわけないよ」
俺は、祖父さんに返すとそのまま逃げだした。顔が真っ赤になっていることがわかる。そのまま、財布を取りに荷物を置いた部屋に戻り、本屋に行くとだけ祖母に告げて、神明通りの本屋に向かったのだ。大人の精神だと自覚している自分にはひたすら恥ずかしいだけしかなかった。ニコニコ顔の祖父さんに、何がそんなに嬉しいのだろうと訝った。
翌日、磐梯山に登ることになった。祖父さんがそう決めた。山頂(あるいは山頂からの景色)を見せたいのだという。母の兄弟は祖父に影響されたのか、全員山好きである。母の兄弟は5人いて皆、日本各地の山を登っているが一番は磐梯山だと口を揃える。
会津鶴ケ城が会津若松の象徴なら、会津盆地のどこからでも見える磐梯山は会津地方の精神だ。会津の人々、いや福島県民の多くは、登山というとまず、磐梯山である。独特のその美しい姿に磐梯山は原体験として刻まれているのだ。それは、山梨県、静岡県であれば富士山。富山県なら立山。熊本県なら阿蘇山、鹿児島県なら桜島のような象徴的なものなのだろうと思う。磐梯山は1888年に山塊の半分以上を崩す大爆発をおこし、景観が全く変わってしまったそうだ。幕末の戊辰戦争のころの磐梯山は今とは全く異なるコニーデ型の山だったと伝えられている。現在の磐梯山の二つの峰の間の弧を描く部分には、小磐梯と呼ばれる、堅峰があったという。どんな景色だったか想像するほかないが、戊辰戦争と磐梯山の噴火という20年の時を経て続いた人災、天災に見舞われた会津地方の先人達はどのような思い出磐梯山を見上げたのだろう。文豪井上靖は、『小磐梯』という作品で磐梯山の噴火前後を描いている。
バスで檜原湖畔まで行き、どこぞの企業の保養所で休ませてもらい祖母さんに作ってもらった弁当を摂る。便利になったもんだ。と祖父が話す。昔は、自宅から磐梯山に登りに行ったもんだよ。
その建物のすぐ裏が登山コースの入口だった。そこから裏磐梯のルートを登りはじめた。祖父さんにとっては、何十回と繰り返した道。俺は、前世を含めても片手に余るほどである。序盤ペースを上げがちの俺に、ゆっくりゆっくりと話しかけながら俺の後ろを歩く。後ろから、数人連れの大人のグループが何やら話しながら、祖父さんと俺に挨拶をして追い抜いていく。しっかりとした山道だが、細く右手は谷になっているようだ。じんわりと汗ばんだ皮膚に山の清涼な空気が気持ち良い。
歩いているうちに、小学校の団体さんが追い付いてきた。体操着に赤いジャージ。背中には学校名と学年クラス名前を書いた布が縫い付けられている。いわき市立浅井第二小学校、6年2組・・・
団体を先に行かせるように祖父さんに言われて、山道に佇む。20人ほど通過した後、間が空いたのでまた登り始める。そのうち、何故か前を進む生徒たちがゆっくりとしたペースになってきた。後ろからも、別のクラスの小学生たちが間を詰めてきた。やがて、歩みは完全に止まってしまったのである。
「落ちた!?」
ヒソヒソとした声が、上のほうで聞こえる。
「女の子が落ちたらしい」
どこからか、そんな声が聞こえる。
「ここで、待ってろ。絶対動くな」
祖父さんは、俺に言い置いて、すいすいと山道を登っていく。引率の先生はいらっしゃいますか、と声を上げる祖父の声が聞こえる。滑落した生徒を捜すつもりなのだ。
何人かが斜面を下りていく気配がした。俺はじっと待っていた。周りに同世代の小学生がいたが、俺からは声をかけなかったし、彼らも俺を見ないようにしているようだった。
長い時間がたったように思われた。2時間か3時間か、あるいはもっと経っていたかもしれない。ざわざわとした声に、斜面の下を覗くと、祖父さんが小柄な女の子を抱えて上がってくるのが見えた。
「見つかったの?」
「助かったんだ」
声が聞こえる。小学生たちは、気をのまれたように声を発しない。やや、斜面の上の、引率の教員に女の子を預けると、ありがとうございます、名前を聞かせてください、と何度も繰り返すその教員たちに、いらん、いらんと手を振って、俺の待つところまで戻ってきた。
「悪いな、今日は、頂上までいけない。帰ろう」
ポンと、俺の頭に手を置きながら、そう言った。俺は、この160センチも満たない痩せぎすの小柄な老人が、慣れた土地で、小柄な女の子とはいえ、一人で谷底で捜しだし、山道まで抱え上げてきたことに驚嘆していた。
「うん。また来た時に登れるしね」
そう言うと、祖父さんはもう一度俺の頭をなでると、笑った。
時間的に山頂まで登れば、下山する頃には暗くなってしまうだろうことや、おそらく消耗した自分を俺に見せたくなかったのだろうと思う。
帰宅した時には、まだ明るさが残る時間帯だった。祖母さんに山頂はどうだったと聞かれて、事故の話をすると、あれまあ、あの人は何も言わないで、と溜息をついた。
この家は、母の長兄が結婚して祖父母と一緒に暮らしている。従妹弟いとこが女、男、女と三人いる。丁度2歳ずつ離れていて、一番上の寿美子はまだ幼稚園だ。食事時には全員が揃って食べるのが、暗黙の決まりである。夕食時に今日あったことを話すのもいつものこと。今日の祖父さんの英雄的行為を話したのだが、以前も似たようなことがあったという孝一伯父(母の長兄)の言葉に唖然とした。
そういえば、以前前世にも同じ経験をした。祖父さんと磐梯山に登って、事故に遭遇して、祖父さんが女の子を助けて、夕食に俺がその話をして・・・
今こんなに感情を揺さぶられているのに、前の人生で同じ体験をしているのに、今になるまで、俺は思い出しもしなかった。だんだん記憶が薄れていってるのか? 前世ではさほど、記憶に残らない出来事だったということなのか?
祖母さんにどうしたのかと問われるまで俺は固まっていたらしい。何でもないと答えながら、見ると向かいの席の祖父さんがいない。
「祖父ちゃんは?」
「ああ、部屋へ行って煙草でも吸っているんじゃないか?」
「え、でも・・・」
「自分からは話さない人だから」
「うん」
「人命救助で、表彰されたこともあるのよ」
「へぇ」
その日は、もう一つ爆弾が待っていた。
疲れが出たか、座布団を枕にうつらうつらしていた俺を、従妹が風呂を呼びに来た。
「明にぃ!お風呂入ってって」
「ん~?」
声の方に目を向けると、濡れた髪の毛をタオルで拭きながら、素っ裸で俺のすぐ脇に体育座りしている幼女がいた。
「す~み~、なんてカッコしてるの!」
伯母の叱責が飛ぶ。
「え~、暑いんだも~ん」
たたっと、伯母の方へ走って行く。
観ちゃった。いくら幼児でも、いや、ノータッチだけどさ、そっちの趣味あるわけじゃないけど、あからさまにさらけ出されるとどうしようも・・・少しは隠せよ~!
5分ほど固まっていたただろうか、何とか気を取り直し、風呂に向かったのである。
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