第3話 目標

 自分の人生ぜんせを振り返るとそのほとんどがひどく味気ないものだったと言わざるをえない。

 とある自治体に就職したが、学生時代の経験を活かせる訳でもなく、学閥があるわけでもなかった。出世の目は最初から無く、そんな努力すらする気にならなかった。一般企業では出世欲のない人間は無能力者でしか無いが、もともとポストが少ない地方自治体では普通の職員だった。ずっとそれで通してきた。

 ただ毎日を無為に過ごしていた。女性と愛を言い交わしたこともない。ただ一人を除いて。


 その唯一の女の名は井手るり子という。

 大学の同じ学部の1年後輩に当たる。一言で言うと『メガネ美人』だろうか。メガネをしていない時でも整った容姿はなかなかなものなのだが、ただ華がないとでも言うか地味な大人し目の印象があった。だがいったん口を開くと、なかなかに話題が豊富で、聞く人を飽きさせない。また、その表情が良かった。新入生歓迎コンパで意気投合し、その翌日初デートであった。そして俺は彼女に夢中になった。彼女は自宅から大学に通っており、親と同居していた。分別のある学生である彼女は、たまに外泊することはあっても、俺と同棲することは最後までなかった。

 俺が教職課程の教育実習で、3週間出身中学で実習していて留守にしている時に、彼女はその人生の幕を閉じた。

 病没と聞いた。なんとツツガムシ病である。学校を1週間休んだが、『ただ、だるいだけ』という彼女の言葉に医者にみせるのが遅くなった。部屋に呼びかけても返事がなかったのを訝しんだ母親が苦しんでる彼女を発見して救急車で病院に運んだが手遅れだったという。

 実習から帰り、彼女の出迎えがないことを訝しんで、ルリ子の実家に電話をした時の、あれほどの喪失感は、自分の親が死んだ気にも感じたことはなかった。

その、るり子がまだ生きている。自分がかつて過ごした何十年かと寸分違わぬ世界なのであれば、るみ子は行きてこの世界のどこかにいるはずなのだ。彼女の死後、何の起伏もなかった俺の人生ぜんせを変えるならば、目標は彼女を死なせないこと。さらには、彼女と共に人生を歩むこと。それを目標にしようじゃないか!思わず、テンションが上がってしまった。身体の年相応に感情は揺れるみたいだ。これで、何度となく失敗しているからな、気をつけないと。

 この目標のためには、あの大学に行かねばならないが、以前の人生ぜんせと同じタイムスケジュールで行くべきか?以前の人生ぜんせでは一浪して入ったが今回はどうしよう。もちろん、現役合格を目指すべきだろう。しかし、そうなると、彼女が入学してくるのは、2年後である。一緒にいられる時間が短くなる。しかも、俺が卒業した後に彼女の危機が来る。これは、いかにもまずい。ならば留年するか。そうだ、2年前に入学しても、一緒に卒業できる方法があるじゃないか!

 医学部へ入ろう。そうすれば、4年間に一緒にいられる。おれは、死ぬ前から数えて数十年ぶりに感じる希望に胸を躍らせた。


 取り敢えずの目標は決まった。しかし、大学受験まであと7年もある。7年間で医学部合格可能な成績に上げて行かなければならない。それには、英語と数学の成績を上げていかねばならない。高校時代の成績は医学部に進学しようなどおこがましいにも程がある成績だったのだ。それでも、一浪して理科系学部に進んだのだから、コツコツ積み重ねていけばなんとかなるだろう。ラジオの英語講座でも聞いておくか。数学は、計算能力の鍛錬不足が足を引っ張っていた。教科書を読んで理解できないわけではないのだが、計算の反復練習が足らず、計算のスピードに問題があったのだ。まあ、今にして思えば、というやつだ。まだ、小学5年生だが自分のことながら才能はある程度あるはずなのだ、これくらいできないでるり子を救うことなど出来るはずもない。

 勉強の方はともかく、もっと切実な問題があった。俺は、虐められっ子なのである。それに、熊沢少年に対しええカッコしいなことをしてしまったから、責任がある。ケンカをしなければならないようなことはそうそうないだろうが、身体能力の低さはいかんともしがたいものがある。やはり、ジョギングでもするか。そうすると、普段はいているビニール靴では問題がありそうだ。ランニング用の靴や靴下を揃える必要がある。親にねだるしかないな。月500円の子供の小使ではいかんともしようがない。母親が帰宅したら話してみよう。

 あとは、メガネを何とかしたいな。汗かくと邪魔だし、何かがぶつかると痛いし、割れて、欠片が目に入るとか怖いし。遠視訓練を、時々やるようにしよう。今のまま行くと、中学に入学する頃には眼鏡のお世話になっているはずだ。

 ああ、今決めたことは記録しておこう。自分に甘くなった時に見直さないとな。あ、あれ、ノートがない。コ○ヨの学習帳しかないぞ。これはあんまりだ。ノートから買わなきゃいけないのか。

 うわー、半ばひとりごとを叫びながら、ベッドで一人パフォーマンスをやっていることに気が付き、1人で顔を赤くした。誰にも話せない秘密が一つ増えて、なんともやるせない気分になってしまった俺だった。

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