第2話 我が家

 我が家は記憶通りの場所にあった。

 小学校入口のバス停から、バスに乗り終点の車庫前で降りる。バスの市内均一料金は大人30円子ども15円。俺は定期券を持っていたので、金は払わず見せるだけ。そういえば、もうすぐ市電がなくなるんだっけ変な情報を思い出した。横浜駅ビルの大食堂の窓からトロリーバスを見たことも思い出す。あれは、いつまで走ってたんだろう。ああ、そもそもどっちの記憶だ?これは!混乱する。

 1棟5階建て30戸12棟ほどある国家公務員住宅の端、12号棟の3階である。

 母と弟が待つ我が家。ここには、1年ほど前から住んでいる。母は、専業主婦、弟はピカピカの1年生。場所は新興住宅地のハズレ、宅地造成の削った山肌がススキなどの新緑に覆われ始めたところ。まだ、崩されていない山頂の細い尾根道に沿って誰が植えたか山桜が並び、春には見事な花を咲かせていたが、小学生男子には全く興味の外であったことが、僅かな悔恨とともに思い出される。翌年の春には宅地造成工事で山はなくなり、山桜が咲くことは二度となかったのだから。

 このころ弟の康二は、小児喘息ということもあり、しょっちゅう熱を出しては、学校を休んでいた。この日も休んでいたはずが、起きだしてテレビを見ていた。白黒テレビである。母は買い物にでも行ったかいなかった。

「康二、大丈夫か。熱があったんじゃないの?」

「うん。だいじょうぶ」

 康二は、パジャマ姿のまま、テレビ画面の走り回る黒猫から目を離さず答えた。

 額に手を当てると、たしかに熱っぽくはない。

「う~ん。まだ少しあるんじゃないのか」

 鬱陶しげに、払われた。

「さがったよ!」

「母さんは?」

「買い物」

「そうか。テレビ見てもいいけど、横になっていたほうがいいんじゃないか?」

コンと額を小突く。

「分かったよ。いちいち叩かないで!」

 弟は座布団を2つ並べその上に横になる。部屋に向かおうと踵を返すと、弟の目が気になった、じっと見ている。

「なんだ?」

「お兄ちゃん。おかえりなさい」

「ああ、ただいま」

 部屋に戻ると、ランドセルを放り出し、二段ベッドの下に横になる。

 考えなければならないことが山ほどあった。


 これは、間違いなく過去の自分だ。いろいろな点が符合する。記憶に入り込んでいるわけではないな。いろいろ痛いし、と考えて思い出した。怪我とか傷とかないか確認しておかないと。身を起こすと、部屋に入ってきた康二と眼があった。

「なんだ?」

「タオルケット取ってくれる?」

 ひょいと背伸びして、二段ベッドの上段から青いタオルケットを放ってやる。ほれ。頭から覆ってしまった。

 康二はぶつくさひとしきり文句を言うと、テレビの前に戻った。自分から望んで二段ベッドの上になったくせに、登るのは面倒らしい。ま、風邪だろうしいいか。

 この弟、病弱なのは仕方ないが、文武両道を地で行くヒーローじみた少年期を送る、はずだ。そもそも、幼稚園の運動会からして、コイツが走るときは、赤白関係なく園児のほぼ全員が応援していたという。母親からの伝聞でしか知らないが、凄かったらしい。一緒に走った同級生涙目だったんじゃないか?本人は嫌がっているみたいだが、たまに女の子から遊びのお誘いもあるようだし、結構自慢の弟だったりするんだが・・・

 あ、いかん。俺はこんなキャラではなかった。以前だったら、『自分で取れ』と言って取り合わなかったはずだ。でも、ヤッちまったものはどうしようもない。思えば、康二には随分と意地悪な兄ではなかったかと思う。せっかくやり直しになったからには、もうちょっと仲良くなっても良いのではないか?

 ハッとなる。『やり直し』?

 もう一度の人生? しかも、過去の記憶があるなら、いろいろズルができる?


 風呂場の横の洗面でバシャバシャと顔を洗う。ついで、風呂場で足を洗う。靴下を脱いで洗い場に入り、昨夜の残り湯を浴槽からプラスチックの風呂桶で汲み上げて、足をつけた。ドタバタがあったせいでやはり汚れている。擦り傷が二、三箇所あった。バンドエイドのような、傷絆創膏はあったかどうか分からない。できかけのかさぶたが剥がれないように洗って、ハンカチで拭いた。ハンカチは洗濯機(遠心脱水機はなく、ローラー式の搾り機がついている)に放り込んだ。こういう時は、半ズボンは脱ぐ必要がないから楽だな。


 再度、ベッドに横になる。

 やはり、『やり直し』なんだろうか? 原因は、電車に轢かれたショック? わからん。

 別段、神様が出てきて『生まれ変わらせてやる』なんて言われた記憶もないし。

 それよりも、これからだ。これは、チャンスだ。以前の人生。『前世』といってもいいな。『前世』の失敗を再チャレンジしてうまくやる。学校生活も、社会生活も、チートな人生をおくれる!

 努力さえすれば。

 ようは、努力すべき要点が分かるってことだから、そこができればいいか。楽して学校での好成績…

 いや、中学まではともかくとして、高校での成績の急降下は、普段の努力がなかったからだ。英語は繰り返しの勉強が必要だし、数学の成績を良くするには筆算の練習が欠かせない。そして、体育だ。小学校から中学までずっと5段階評価の2だった。もともとできないと思ってなんの努力もしていなかったが、高校、大学では、周りの身体能力に追いついてきていた。今から始めれば、並み程度にはなるんじゃないか?

 とりあえず、楽な生き方をするには努力が必要だ。という結論が出た。小学5年生に過ぎない今は、ジョギングくらいしかないな。学校の勉強が分からないわけじゃないし。そういや、ジョギングなんて言葉ないよなまだ。

 とりあえずの目標は良いとして、大目標を決めなくては。

 やっぱり、あれだろうな。

 俺の脳裏に、一人の女性の面影が浮かぶ。

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