ワンダフルタイム ~我がやり直し人生~
洲田拓矢
第1話 遡行
その日の朝、横浜駅の人ごみが溢れんばかりのホームで、電車待ちをしていたら、ドンと後ろから押されたと思ったら、足元に線路が見えて、そこに電車が来た。ものすごいブレーキ音。
あ、あ、あ、とか思ってる間に、ガンととんでもない衝撃があって、意識がとんだ。きっと、体は回復不可能なまでに損傷しただろう。電車に轢かれると、体はバラバラになるとか聞いたことがある。スプラッタだよね。苦手な人ごめんなさい。
とにかく、わけも分からず、人生終わりになったわけだ。
で、気がつくと、俺の上に馬乗りになって、醜いデブガキが俺を殴っている最中だった。
絶賛混乱中。こういうときは、とにかく落ち着かなければ。
スーッと大きく息を吸おうとした。生来の凝り性でヨーガを30の頃から始めていて、健康ヨーガから、気がついたらラージャ・ヨーガのグルに指導を受ける身になっていた。ヨーガの呼吸法である。殴られながらでは、なかなかうまく行かなかったが、2度3度深呼吸すると、落ち着いてくる。その間も、両頬が殴られる衝撃は続いている。痺れたように動かない両腕に力を込めて、あれ、動かない。これは痺れているんじゃない、誰かが抑えている。なんかデジャブ。俺も小学校の頃虐められたことがあったっけ。
ともあれ、いつまでも殴られっぱなしではいられない。足は自由に動いたので、腹筋で思いっきり引きつけて伸ばし、足首を交差させると、俺に馬乗りになっている悪ガキの首にぴたりとハマった。そのまま、足を勢い良く伸ばすと、カエルが潰れたような声を上げながら、1回転して飛んでいった。ガタドシャン。何かを巻き込みながら転がった。唖然としている、両腕を抑えているやつらから、腕を抜くと立ち上がった。
そこで周りの状況に初めて気がついた。俺を囲んでいる奴らは、10人程いたが、皆ガキだった。小学生の中高学年といったところか。それだけじゃない。視線の高さが違う。俺も背の高い方じゃなかったが、1メートル40がやっとだろう。自分の格好も、Tシャツに半ズボン。小学生スタイルだった。
まわりは、合板の床に、小汚い木製の机と椅子。それがびっしり並んでいる。
あれ、これって、校舎建て替えの時のプレハブ教室?
「くっそう」
甲高い恨み言が聞こえたので、振り向くと、俺を殴っていたガキが立ち上がったところだった。あ、俺よりでかいなこいつ。ん、やっぱり、見覚えがある。
あ、田中だ。俺を抑えていたのは、鈴木に、佐藤だ。掃いて捨てるほどいる名前三羽烏。俺と、確かに小学5年生で同級になった。しかも、なにかと因縁をつけて俺をいじめてきた奴らだった。じゃあ、これは、記憶の情景なのか?でも、田中に逆襲した記憶なんてない。っていうか、こいつのことが怖くて怖くて立ち向かう勇気なんかなかったよな、あの頃の俺。
おっと、田中が拳を振り上げながら突っ込んできた。ひょいとよけて、パンチを掴んで引っ張ると、吹っ飛んでいった。小学生にしては大きな体が机と椅子を5、6個まとめてひっくり返す。ヨーガは格闘技ではないが、自分の体を思ったとおりに動かすという意味では共通点があるのだ。
って、まずい。怪我とかさせてたら面倒だ。
「おい、だいじょぶか?」
あ、自分の声もガキッぽいな。田中のそばに行って、立たせてやろうと手を伸ばすと、かおをゆがめがら、後退りする。そのまま、立ち上がって、わああと叫びながら、プレハブ教室から逃げていった。大した怪我はないようだったのでホッとする。
他の連中のことを思い出して振り返ると、鈴木も佐藤も、別の出口から逃げるように出ていった。
えーと。俺は何をすればいいのかな。黒板の上の時計は、まだ3時半すぎを指している。とっくに下校時刻だが、まわりはまだ明るい。黒板の左隣に時間割が貼ってあり、黒板の右の端に昭和四十五年六月一日月曜日とあり、日直の生徒の名前が書いてある。
どうやら、俺のかつて過ごした小学校時代の再現のようだ。この時代の記憶などほとんど忘れてしまっているはずなのに、まだ残っている生徒に注意を向けると名前がすっと浮かぶ。体は間違いなく、小学生だから、体の記憶かもしれない。しかし、五十過ぎのオヤジであった記憶も間違いなくあり、毎夜のように、ヨガ道場に通って修練した動きもできる。いや、大してできないかもしれないな。五十男の精神だけ、小学生の頃の自分の体に押し込められたということか。そうとしか思えない。しかも過去のとおりではなく、訂正可能っということか。これは、でかい。
「あの、
おずおずと、話しかけてきた少女の声に振り返った。目鼻立ちのくっきりした顔立ち、おかっぱ頭で俺よりも少しだけ背が高い。名札には、七島と書いてある。彼女の他に、ざっと6人が俺を見つめていた。心配そうな、そして、怖ろしそうなものを見る目で俺を見ている。話しかけてきた、この娘は学級副委員長だったはずだ。七島晴海、女子生徒のリーダー格で、おてんばという言葉は彼女のためにあるような、そんな印象の少女だったはず。40年後には全く思い出すこともなかった情報が次々と思い出されてくる。これは、現在の脳の記憶なのだろう。なにか、答えなければ。
「大丈夫。僕はもう帰るよ」言って、プレハブ教室を出ようとする。
出入り口の開いたままの扉に手をかけたところで、呼び止めるように声をかけられた。
「あっ」
「なに?」
声をかけてきたのは、小柄な三つ編みおさげのやや色黒の女の子だった。名札には小岩とある。小岩亜紗子という目立たない子だった。
「ランドセルが・・・」
「ああ、そうか。忘れるところだった。ありがとう」
かなりくたびれたランドセルが、教室の後ろでひっくり返っており、あたりに教科書やらノートやら筆記具が散乱している。イジメられてたからな。その現場だ。
一つため息を付いて、自席のランドセルを起こして、中に散乱している教科書や、文房具を詰め込んだ。七島と小岩の二人が手伝ってくれたので、礼を言う。と、七島晴海が鼻血がでていると、教えてくれた。
ポケットから、ちり紙を出して、鼻の下を拭う。半分固まっているような黒っぽい血が付いた。
「もう、止まってるみたいだ。教えてくれてありがとう」
ちり紙をポケットに仕舞い、七島に笑いかけると、それなら良かったと、笑い返してくれた。
何をするでもなく、俺のことを見ていた何人かにまだ残っているのかと、尋ねると誰も用がある生徒はいなかったので、途中まで一緒に帰らないか、と誘った。
誰も、断る理由がなかったらしく7人で帰ることにした。開いていた窓を閉め、プレハブ教室を出て、照明を消して、出入り口の引き戸を閉める。そこで、小岩にまだ血が残っていると指摘されたので、顔を洗うことにした。プレハブ教室のすぐ前には、下駄箱と洗面所が並んで設置されていて、そこで顔を洗った。備え付けの鏡で、顔に汚れがないことを確認して、ハンカチで顔を拭いた。小学生用の白ハンカチは小ぶりで、手と顔を拭くとビショにビショになったが構わずポケットに入れた。上履きをいかにも小学生用のビニ靴に履き替えて学校を出た。
学校からの一本道が国道へ接続したところでお開きになった。俺はそこからバスに乗らねばならない。横断歩道を渡って、さよならと手を振ったところで、一人に呼び止められた。
「とっとり君はすごいね」という。この小柄な少年は、熊沢という。5月半ば頃から、俺とかわりばんこにイジメの標的になっている。
「
言い直してから続ける。この姓のお陰で、呼び名は、ずっと『とっとりくん』だったな。忍者じゃねえつうの。『とっとこ』とか言う奴もいたが。
「すごくなんかないよ。もう、黙ってやられているのに飽きただけさ」
「やっぱり、すごいと思う」
「それより、熊沢君。明日は、君の番かもしれないよ」
「やっぱり、そうかな」
小柄な少年はうつむいた。熊沢家は、地の家ではなく、俺と同じく最近になって越してきた、いわば新参者だ。内気な性格とあいまって妙に垢抜けた身なりがガキ大将の不興をかっているのだろう。俺の記憶がそう囁いている。
「うん、多分僕は大丈夫だから、できるだけ一緒にいればいいよ」
「いいの?」熊沢君は表情を明るくした。
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