消えた故郷

kattern

仕事という名の地獄

「おやすみなさい」


「おやすみー」


「おつかれさまでしたー」


「はい、おやすみさい。あっ、ちょっと康樹くん。待って待って、帰るのタンマ。ちょっとこの後、時間いいかな?」


 令和二年二月十八日、午後五時のことである。

 流れるように退社していくおばちゃんたちの波。そこに紛れて逃げようとした僕を、元田開発部部長は目ざとく見つけて捕まえた。

 人の好さだけで役員に登りつめたともっぱらの元田部長。五十歳過ぎ。白髪混じりに黒と茶色が混じり合った斑模様のフレームをかけた彼は、今日も穏やかに笑っている。


 畑にいるおじいちゃんという感じだ。

 実際、彼の実家はこの地で農家をやっており、山も持っているんだそうな。運悪く、食事の席が前になると、きまってそんな古い家のしきたりについてぼやかれる。


 他の人にはそんな話しないのに、だ。


「どうした、康樹くん? ぼっとして?」


「……はい、なんでしょうか」


「第二工場の生産ラインでトラブル発生。明日の朝一で直すんだけれどさ、せっかくだから勉強がてら段取りに付き合っていきなよ」


 それ、僕の仕事ですか。


 言えるならば僕はここにはいない。

 せめてもの抵抗に、沈黙したことさえも見抜かれたのだろう、ねぇ、と、目の前の畑にいそうなおじさんは僕に残業を迫った。


 こちらに戻って来てから、こんなことばかりだ。


 Uターン就職。誰だって、一度くらいは電車の広告でそれを目にしたことがあるだろう。

 東京、大阪、名古屋、神戸、札幌、福岡――エトセトラ。とにかく、人口密集地、都会と呼ばれる場所に職を求めて出て行った者たちが、諸処の事情で地元に戻って再就職するという奴である。


 転職の催しとしては割とメジャーなものである。

 そして、転職理由としても、もっともらしいものである。

 需要と供給はマッチしているのだろう、なかなかその存在がなくなる日はない。


 忌々しい限りだ。


 耳に聞こえのいい言葉に騙された訳じゃない。

 訳じゃないが、夢くらいは見た。


 京都で五年働き、プログラマーとして、というより職業人として致命的な欠陥――手を抜くことができない――を抱えていることに気が付いた僕は、六年目の冬、ついに機能不全を起こした。


 僕が睡眠時間や趣味の時間さえも捧げているというのに、自分の業務を放り出しさぼり続ける先輩。そんな彼に業を煮やして、取引先の工場で叫んだ僕は、二日後の面談で、課長に指摘されてようやく自分が異常なことに気が付いたのだ。


 ――お前は働き過ぎだ。もっと手を抜くことを覚えろ。


 真面目にやっていれば報われるはずだ。

 手先が不器用でも、頭が悪くても、愛想が悪くても、顔が悪くても、きっと。

 そう信じて、手を抜くことなくひたすらに頑張ってきた。


 それが異常と言われた瞬間。

 ついに僕は決定的に壊れた。


 休職からの失職は流れるよう。まるで、そういう流れがあらかじめ仕組まれていたように僕は無職になり、社会から切り離された。


 京都に住み続けることは困難だった。

 壊れた自我をなんとか繋ぎ止めるために、通い詰めたカウンセリングと心療内科、そして、一時の快楽を与えてくれるギャンブル。僕の財布は常に火の車であった。しかし、その財布の収入さえも、失職によりなくなった。

 心療内科の先生が憐れんで書いてくれた診断書。それにより傷病手当をいただきながら闘ったが、一年と半は僕を再生するのにはまだ時間が足りなかった。


 傷を負ったまま、社会に戻ることは難しい。

 とにかく、怖かった。

 また、壊れるのが怖かった。


 頼ったのは生まれ故郷。


 電話越しに泣きながら、父と母に「戻っていいか」と尋ねた。


 それから二年。無職の時代と、就労可能という医師の判断、そして職業訓練を経て、僕はようやく社会に再び向き合うことを選択した。今度は、この故郷で。幼い頃から過ごした、優しい思い出しかない故郷で、やり直すのだ。

 きっとここならどうにかなる。


 そう思っていた。


「あー、これはいかんわ。完全にベアリングがいかれてる。ほれ、まわりゃしない。油と切削紛が混ざってガッチガッチに詰まってんだ。まったく、第二工場のラインは二世代前の装置がメインだから、増産対応に回したらどうなるか分からんて俺は言ったぞ。なに考えてんだ生産部の奴らは」


「ほんとっすね」


「これで来月からは更に夜勤で回すってんだから怖い話だ。お前、今度、生産部の柳沢に会ったら尻を蹴っといてくれよ。ったく、ほんとろくでもねえよ。現場知らない人間が指示出してんだからさ。あぁ、やだやだ」


 元田開発部長はそう言って首を振る。

 それから、僕に交換用のベアリングを倉庫から持ってくること、ついでに、生産部の柳沢部長に報告に行って来ることを言づけると、腕をまくった。


 ちょっとやれるところまでやってみる。


 その言葉に、今日もまた帰る時間が遅くなることを僕は覚悟した。この山持ちの農家に生まれた五十過ぎの男は、逞しすぎるほどに逞しい。夜の八時を越えても平然と、東京ドーム半くらいある工場内を走り回るのだから化け物である。

 農家の血がそうさせるのか、あるいはこれまでの仕事で培ってきたなにかなのか。


 僕には興味のない話だ。


 なんにしても、言われた通りに僕は動く。彼の部下である僕に選択権はない。上司の指示通りに動くのは社会人としての基本だ。なまじ、職歴をリセットして、再社会人となって一年目の僕には、何も発言する権利はない。

 それまでの職歴も、人生も、人格も。すべて、リセットされてしまってやり直し。


 何も知らない子供扱いだ。


 彼の目の届かない所まで駆け足で行き、のそのそと備品を漁ることくらいしか、この理不尽に対する反抗はできない。


 故郷で僕を待っていた第二の人生は、思ったものとは程遠かった。故郷に戻っても、社会は残酷なままで。僕は僕のまま、変わらずに無能のままで。ただ、都会で働いていたが通用しなくて帰って来た、無能の人という評価だけが背中に焼き付いた。


 いや、事実そうなのだ。

 都会でも故郷でも、結局、仕事のできない奴はできない。仕事をかえても、できない奴はできないのだ。


 そう気がついたとき、故郷は既に故郷ではなく、ただ、見覚えのある地獄に変わった。

 都会と同じ生きづらさが僕に迫り、薬の量は日に日に増え、そして、残業の時間も増加していった。父と母との会話の時間は減り、肉体的疲労だけが毎日蓄積されていく。


 次の限界に向かって。


「……なんだい、まだ残っていたのかい?」


「……柳沢部長」


 倉庫から漏れる光に気が付いたのか、はたまたなんの気まぐれか。

 開発部の倉庫の入り口に生産部の柳沢部長が立っていた。僕の方を見るや、彼もまた僕の上司と同じように親し気に笑う。


 四十過ぎの彼は、生き馬の目を抜く勢いで社内で出世している男だ。

 そして、僕と同じく都会から戻って来た男だ。


 けれども――。


「康樹くん、もう仕事にはなれたかい。元田さんの所は大変だと思うけれど、勉強になると思うから、頑張りなさい」


「……はい」


「とはいえ、こんな時間まで残業させるとは、元田さんも考えものだな。もうちょっと仕事のさせ方を考えてもらいたいものだ。なまじ康樹くんはわが社の期待の星なんだから」


 嘘を吐け。


 業務内容に嘘の記載をして採用しておいて、何が期待なのか。

 本来の業務に、一度も僕は従事していないのに、何を期待したというのか。


 この会社の基幹に関する業務か。

 馬鹿を言うな。

 僕はこの会社に、僕はこの会社で、そんなことをするつもりはなかった。

 こんな仕事をするつもりなんてなかったんだ。


 なにが、Uターン就職だ。

 故郷でやりがいのある仕事をだ。

 欲しいのは都合のいい労働力。若くて、従順で、逃げ場のない、食い詰めた、会社の奴隷になる人材だろう。地元に戻らないと生きていけない、そんな奴らだろう。


 うまくいくのはアンタみたいな――本社出向の社員だけじゃないか。


「まぁね、まだ一年目だから。いろいろと苦労するとは思う。けれどね、ここで歯を食いしばれるかだよ」


「……はい」


「がんばってね。同じUターン組として応援しているよ」


 同じな訳がない。

 貴方は、会社の都合で戻って来た人。

 僕は、自分の都合で戻って来ざるをえなかった人。

 その差は大きい。初めから、前提から違っているのだ。


 どうしてそんな相手に空虚な言葉が言えるのか。


 それこそ、本当に彼の尻を蹴りたい気分になったが、僕は堪えた。

 唇を食みながら、なんとか喉奥に言葉をこらえて、それから――元田部長を待たせていますのでと言づけて、その場を後にした。


 工場の中を僕は走る。


 カンカンと響くラインの音。

 故郷に縛り付けられた人たちが奏でる地獄の伴奏。

 彼らはそうしないと生きられない。こういう方法でしか生きられない。そして、僕もま同じだ。故郷だろうと、都会だろうと、こういう生き方しかできない。


 息を切らして第二工場に戻る。

 扉を開いて、元田部長の姿を探す。彼は、問題の装置を一人であらかた解体すると、せっせとウェスで汚れを落としていた。


「……頼まれていた部品、持ってきました」


「おう、遅かったな」


 また、逃げたのかと思ったぞ。


 またの意味を測りかねて僕は沈黙する。


 元田開発部長は僕を振り返らない。


 カンカンという音がこの世という地獄に木霊している。

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