Lethe ―黒猫の喫茶店―

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Lethe ―黒猫の喫茶店―

 やっぱり間違えたのだ。


 車のアップライトに照らされた道の先は、鬱蒼と生い茂る木々に埋め尽くされていた。

 外灯もない夜の山道。カーナビに従って走っていたら、いつの間にか車一台分でも通るのがやっとの細道に迷い込み、挙げ句道さえも途絶えて行き止まりになってしまった。

 普段滅多に運転することのない私にとって、この細道をバックで戻るのは至難の業だ。加えて夜という事もあって視界はすこぶる悪い。山肌に沿った運転席側とは違い、見通しの悪い助手席側はガードレールもないので、ハンドル操作を誤れば最悪そこから転落という事態にもなりかねない。

 立ち並ぶ木々をライトで照らしたまま、私は暫くの間どうしたものかとハンドルを握ったまま硬直していた。


(だから運転したくなかったんだ)


 仕事で営業先を回る時は、いつも先輩が運転してくれた。その先輩は急な体調不良で欠勤し、私は一人で営業先へ向かう事となったのだ。しかも今日に限って車じゃないと行くのが難しい遠方で、ほぼペーパードライバーの私は嫌々ながらも会社の車で営業先に向かったのだった。


 けれど悪いことは続くもので、営業先からの帰り道で事故による交通渋滞に遭遇した。かなり大きな事故らしく交通整備の警官から迂回してくれと言われ、慣れない道で放り出された私は何とかカーナビを操作して会社への道を設定したのに……現状はこれである。


(このカーナビ古いんじゃないのっ?)


 心の中で悪態をついてみるものの、ここにいつまでもこうしているわけにもいかない。少し汗ばんだ手でハンドルをぎゅっと握り、私は車のギアをRに入れた。


(せめてUターン出来るくらいの道幅があったら良かったのに)


 ミラーを何度も確認しながら、そろそろと車をバックさせる。少し坂道になっているのかアクセルを踏まないと車が上らないのも、嫌な緊張に拍車をかけてくる。

 ゆっくりと慎重にアクセルを踏んだその時、エンジンの音に驚いたのか一羽の鳥がやけに大きな羽音を響かせて木々の間から飛び立っていった。




 はっと目を覚ました。

 頭が少しぼんやりとしている。何をしていたのか思い出せず、とりあえず現状を把握しようと周囲を見回してみた。


 森の中だ。夜……のようだが、そこかしこに灯りが置いてあるのでとても明るい。ハロウィンのカボチャをくり抜いたランプや、アンティークなカンテラ、数本の蝋燭が灯る燭台、光の鱗粉を撒きながら飛び交う虹色の蝶。夜のテーマパークのような雰囲気だ。

 ゼンマイのようにくるくると捻れた枝に下がるランプの道の先に、一軒の喫茶店があった。店先の看板には「Letheレテ」と書かれている。


 ドアを開けるとカランッとベルが鳴り、カウンターの奥にいた一匹の黒猫が耳をぴんっと立てて私を見た。


「やあ、いらっしゃい」


「あの……」


 入り口に立ったまま動こうとしない私を、黒猫のマスターがピンク色の肉球を見せて手招きした。


「うんうん、最初は皆そういうものだよ。分からなくて当然さ。今から君にとっておきのコーヒーを淹れてあげるから、こっちにおいで」


 細長い尻尾を揺らしながら、黒猫がお湯を沸かし始める。カウンター席に座って暫くすると、コポコポとお湯の沸騰する音が静かな店内に心地良く響き渡った。それと同時にコーヒーのいい香りが鼻腔をくすぐる。


「あ、しまった! 勝手にコーヒーにしちゃったけど、大丈夫? 他に好きな飲み物があったら作るから、遠慮なく言ってね」


「いえ……コーヒー、好きです」


「そう? ならよかった! 僕もコーヒー好きなんだ。コーヒーの香りって、何だか落ち着くよねぇ」


 そう言って、黒猫が青と黄色が混ざったような不思議な色の目を細めて笑った。その笑みに心の奥が解れるようで、私は無意識に入っていた力を抜いてほぅっと深く息を吐いた。


「よく、コンビニでコーヒー買ってました」


「うんうん。今はコンビニコーヒーも美味しいもんねぇ」


「いつも遠方に仕事に行くときは、先輩と一緒にコンビニで買ったコーヒーを飲みながら行ってました。でも今日は先輩がいなくて、私は一人で慣れない運転をしなくちゃいけなくて……コーヒーを飲む余裕も、なかった」


 かちゃんと音がして顔を上げると、カウンターの上に花柄のカップに注がれたコーヒーが置かれていた。湯気と一緒にコーヒーの香りが立ち上る。

 包み込むように両手でカップを持つと、じんわりと指先から温まってくる。それで自分の指先がひどく凍えていた事を知った。


「……あったかい」


「え? 君、まだ熱を感じるの?」


 問われて、何のことだか分からずに首を傾げる。そんな私を黒猫は、その不思議な色の瞳でじぃっと食い入るように見つめてきた。


「コーヒー、熱い?」


「え? 熱過ぎると言うほどではないですけど……」


 戸惑う私をよそに、黒猫は私の目をじいっとのぞき込んだり、手を取って握りしめたり、柔らかい肉球を私の頬に当てて温度を確かめたりする。最後に額と額をくっつけてから顔を離すと、私の前からコーヒーカップを引き戻してカウンター奥へと下げてしまった。

 コーヒーの香りが遠ざかり、何となく損をした気分になった私は微かな非難めいた視線で黒猫を見やった。


「飲ませてくれないんですか?」


「うーん……」


 一息分唸ったかと思うと、黒猫が再び私を正面から真っ直ぐに見つめ返してきた。


「多分、君はまだ飲んではいけないと思うよ」


「どうして?」


「ここに来る前のことは、どれくらい覚えてる?」


 不思議な夜の森。様々な灯りが闇を照らしていて、その先にこの喫茶店があった。光の鱗粉を撒き散らす七色の蝶が、黒い木々から飛び去っていく鳥の羽音に驚いて逃げ惑う。


 ――頭の中で、車のエンジンの音が響き渡った。


「ここに来る人は、そのほとんどが直前の記憶が曖昧なままでやってくる。はっきり覚えている人もいないわけじゃないけど、それは稀だ。この店は訪れた人の記憶を消して、まっさらにしてから送り出す場所なんだよ」


 そう言って、黒猫が私に用意していたコーヒーを流しにざぁっと捨てた。


「君はさっき、直前の記憶を思い出しただろう?」


 不思議な色の瞳に魅入られたように、私はこくんと頷いた。それを見て、黒猫もうんうんと納得するように相づちを打つ。


「君の体はまだ温かい。僕のコーヒーを飲むには早すぎる」


 カウンターから出てきた黒猫が、店の扉を開けて私を振り返った。来た時と同じようにピンク色の肉球を見せながら、愛らしい笑顔で手招きする。


「さぁ、来た道をお戻り。大丈夫、帰り道は虹色の蝶が教えてくれるよ」


 私を誘うように、一匹の蝶が店内へと滑り込んでくる。それはひらひらと光の粉を導にして、闇の中を真っ直ぐに飛んでいった。






 ピッ、ピッ……と規則正しい機械音に導かれて、ゆっくりと重い瞼を開く。

 白い天井を背に、白衣の男性が私を見下ろしていた。慌ただしく部屋を出て行く音がしたかと思うと、見覚えのある顔の男女が涙目になりながらしきりに私の名前を呼んでいた。


「……おか……ぁさん」


 私の声を聞いて、両親が安心したように何度も頷いていた。


 何となくだが、理解する。

 慣れない運転。行き止まりの細い道。夜の山道で、私は運転を誤り転落したのだろう。あれからどれくらいの時間が経っているのかは分からないが、ここは病院で、私は運良く一命を取り留めたらしい。


 事故の記憶に重なって、どこか見たこともない風景が頭をよぎった。

 統一感のない灯りに照らされた夜の森の奥にひっそりと佇む一軒の喫茶店。黒猫の店主の愛らしいピンクの肉球。

 瞳を閉じると、それは霧に埋もれて輪郭をぼかしながら消えていく。


 ――ああ、戻ってきたのだ。


 そう漠然と感じた瞬間、消毒液に満たされた室内の空気を揺らして、一筋だけコーヒーの香りが紛れ込んだ気がした。

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