第30話「喧嘩」

 その日は一日中、エレナは俺と口をきかなかった。


 放課後、寮に戻るなりエレナは入浴セットのバスケットを持って部屋を出ていく。


 バタン! と勢いよくしめられた扉が、


「……早くねぇ?」


 五分もしないで再び開いた。


「お風呂が壊れてたのよっ!」


 エレナはバスケットを放り投げ(下着はちゃっかりしまいやがった。チッ)むすっとした顔でソファに座った。


「…………」


 沈黙がおりる。エレナの背中から立ちのぼる怒りのオーラのせいで居心地悪いったらない。


「……おい、いい加減機嫌直せよ」


「直るわけないでしょ……!」


 エレナが顔をうつむけてうなる。


「本っっっ当にムカつく……! お風呂も、パパも、ブライトくんも、あんたも……!」


 水色の瞳がキッと俺を睨む。


「みんなしてあたしを無視して……!」


「……別に無視してるわけじゃ」


「してるわよ!」


 エレナの剣幕に俺はたじろぐ。


「無視してるじゃない! さっき勝手に決闘を引き受けたのは誰? 勝手に話を進めたのは誰よ?」


「それは……」


「あんたでしょ? あたしのことなのに、なんであんたが決めんのよ? なんであたしを無視すんのよ!? あたしの気持ちはどうでもいいわけ!?」


「どうでもいいわけじゃ……。むしろおまえのことを思ってだな」


「はあああ?」


「いでっ!」


 洗顔フォームが飛んできた。


「なによそれ! なにがあたしのためよ! あんた何様のつもり!? 勝手なこと言わないでっ!」


「うおっ、ちょっ、待っ……!」


 化粧水、乳液、ボディークリームが結構な威力とスピードで飛んでくる。


「なにがあたしのためかなんて! 勝手に決めないで! あんたに決められる筋合いなんかない!」


「うっ!? をっ!? 痛っ!」


 エレナがバスケットからでかめのボトル(しかもまだ中身はたっぷりありそうだ)を取り出す。おい、そんなのあたったらさすがに怪我するぞ!


「しゃ、シャンプーはやめとけ! 零れたら面倒だし……!」


 すでに投擲のフォームに入っていたエレナはぴたりと動きを止め、手にしていたお高そうなボトルをじっと見つめる。


 間があって、エレナは大きくため息をつきながらゆっくりとそれを床に置いた。


「……だいたい、負けるのがあたしのためだなんて」


 膝を抱えてでこをくっつけ、エレナはソファの上でうずくまる。


「なんであんたがそんなこと言うのよ……」


 そのまま水色のダンゴムシはなにも言わなくなった。

 呼吸するたびに小さく身体が揺れるだけだ。


「お、おい……」


 まさか泣いてる……?


 エレナはなにも答えない。すん、と小さく鼻をすする音がした。


「パンツ見えてるぞ……?」


 黒レース……。


 反応なし。おいおい、さすがに泣かれちゃまずいって。

 ため息をつく。


「……トバリじゃそんなに嫌なのかよ?」


「……嫌」


 エレナがようやく顔をあげる。言ったきり唇を引き結んだその顔は不機嫌そうではあったが、泣いてはいなかった。なんだよビビらせんなよ。


「だって……」


 水色の瞳がまっすぐに俺を見て、じわりと潤む。


「だってあたし……!」


 あ、やばい。今度こそ泣くなこれ。


「……わかったよ」


 俺はため息交じりにガシガシと頭を掻いた。


「勝てばいいんだろ?」


 きょとん、と水色の瞳が丸くなる。


 こぼれそうな目をぱちぱちと瞬いて、エレナはこっくりと子どもみたいにうなずいた。


 しょーがねーな、と俺は苦笑する。

 昔の約束なんか忘れさせたほうがエレナのためだとはわかっている。

 でも、こう泣かれちゃ敵わねぇよ。


「ま、イケメンに美少女の幼馴染をとられるのも癪だし」


 俺はニッと笑う。


 それに、勝ったらあいつになんでも命令できるって約束だしな。なにさせるか考えておかなきゃなー。せっかくだから恥かかせてやろう。イケメンだし。


「トバリのやつ、こんなに嫌われちゃってかわいそうに。イケメンなのに。いい気味だ」


「べ、別にブライトくんが嫌ってわけじゃ……。ていうか、負けたらあんただって困るんだからね?」


 エレナはいつもの強気な顔に戻って言った。


「あん? なんで?」


「だって、負けたらあんたの名前入りの校章がとられちゃうのよ? あんたがヒナギクにいることがパパにバレちゃうかもしれないのよ! そしたら退学どころじゃないわ。女の子に変身したことまでバレて、異端審問直行よ!」


「む……それもそうだな。忘れてた」


「なんでこんな大事なこと忘れるのよ!」


「うっせ。俺もいろいろと考えてんだよ! つーか偉そうにしてるけど、俺が負けたらおまえの呪いの罪も明るみに出るんだからな?」


「そうよ。だから余計に負けられないんじゃない。絶対勝ちなさいよね!」


「はいはい……」


「はいは一回!」


「はーい」


「伸ばさない!」


 うるさいお嬢様だ。まあでも、異端審問行きがかかってるとなると負けるわけにはいかねぇな。


「そうと決まれば特訓よ」


 エレナが腕を組む。


「これから毎日、放課後は魔法実験室にこもるんだからね!」


 魔法できないやつが偉そうに……。

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