嘘の距離

鵠矢一臣

嘘の距離

 父の訃報を受け、私はアフリカに単身赴任中の夫の帰宅を待たずして、一人で実家へと向かった。――というのは嘘だ。夫は単身赴任なんてしてないし、そもそも夫なんていない。

 私は嘘をついたのだ。十年前、父と母に。「結婚したよ」と。


 今、父の横たわる棺は、ハンドル付きの大きなアルミ台車に乗せられて、銀色の業務用エレベーターみたいな扉の先へと向かっている。ついに本当のことは打ち明けられないまま、父との距離がどんどんと離れていく。扉が閉まって、お坊さんのお経が終わると、もう宇宙の果てより遠くへ行ってしまったように思えた。

 もしここに母も弟夫婦も、父の友人も誰も彼も居なくて私一人だったら、あの台車のハンドルに飛びすがって僅かでも父との距離を縮めることが出来ただろうか。涙よりもそんな疑問のほうが先に出てくる。

 そんなだから、私には最初から不可能なことだった。もっと早く、父が亡くなるよりも前に『結婚なんて嘘でホントは今すぐ実家に戻ってきたい』なんて伝えるのは。

 我ながら、なんて親不孝な娘だろうか。ますます嫌になる。


 なんだか糠雨みたいな手応えの感じられない葬儀を終えてようやく実家へ帰宅すると、居間に設置した組み立て式の祭壇に父の遺骨と遺影を置いた。母がお線香をあげて拝むとすぐさま弟夫婦が続いたものだから自然と私が最後になってしまった。

 とにかく手を合わせて、さて何を思い浮かべようかと考えた瞬間だった。飼っている白猫が祭壇に飛び乗って遺影を倒したのだ。ともあれ猫なんてこんなもので、お線香の灰が飛び散らずに済んだのは幸いですらある。けれど、祈りの時間は父からもらえなかったのだと悟った私は、とうとう自己満足の為の、心の中での打ち明け話すら諦めてしまった。


「お夕飯は?」

 少しぼんやりとした母の声が誰にともなく投げかけられる。帰ってきたのが午後二時ごろだったから、準備をするならば今のうちに人数を知っておきたいということだろう。私が長居しないと思ってのことかもしれない。

 こういう時、真っ先に口を開くのは義妹だ。

「みんなで食べません? こういう日ですし。ね、お義姉さん?」

 彼女はいつだって屈託なく話す。そういうところは好きでも嫌いでもないけど、心の底から相容れないなと思ってしまう。

 ここで頑なに断って帰るのも不自然なので、曖昧に同意した。多分させられたと言ったほうが正しいのだろうけど。


 夕飯の準備までの間、みんな特に何をするでもなく、お茶なんかをすすりながらテレビを見てとりとめもない会話をしていた。夫について話す――つまり嘘を重ねる――のにはもうとっくに慣れていて、普段から特に苦にはしていない。事前に考えられるだけの想定問答を何度も繰り返しているのだ。けれど、嘘は苦にならないにしても、流石にこの日はいつも以上に居心地が悪くなってきて、私は着替えを口実に二階へと上がっていった。この家の中に安全地帯があるとすれば、かつての自室かトイレぐらいしかないのだ。

 上がってみれば部屋の前で、あの白猫が毛づくろいをしていた。名前はカエルというらしい。言われてみれば確かに顔が似てなくもない。ドアをカエルにぶつけないよう注意しながら開けると、それを見たカエルはいきなり走りだし、私より先に部屋へ入ってしまった。

 小さく溜息をつきながら足を踏み入れると、懐かしい風景がそのまま残っていた。結局上手に弾けないままだった電子オルガンも、学習机の上に置いたコルクボードにピンで留めた思い出も。どうやらまったくの手つかずではなく、日頃からきれいに掃除をしてくれているようだ。埃もほとんど積もっていない。

 すぐにカエルが学習机に飛び乗った。何をするのかと眺めていると、コルクボードに鼻を近づけてスンスンとしはじめ、やがて顎のあたりをボードの縁に擦りつけだした。「こらこらこら」と軽く諌めながら抱え降ろそうとすると、私の手をすり抜けてベッドの下に潜り込んでしまうのだった。

 なんだかどっと徒労感が押し寄せてきて、私は学習机に突っ伏した。ひんやりした懐かしい感触。よく受験勉強に疲れるとこうしていた。熱を帯びた脳味噌が冷えていくような気がして。

 それからよくコルクボードの写真を見たものだった。友達だとか好きだった芸能人の切り抜きだとか色々に混じって、家族四人で撮った写真があるのだ。まだ弟が片腕で父に抱かれている写真。遊園地のメリーゴーランドを背景に、まだ年端もいかない少女が両親の手を片方ずつ握って、嬉しそうに笑っている。聞いた話では、私は一週間、ずっとその遊園地へ行きたいと駄々をこね続けたそうだ。

 いつの間にか私の足元にカエルがやってきて、「にゃー」と鳴いてはくるぶしの辺りに顔を擦りつけている。

「もう。ストッキングがだめになっちゃうでしょ」

 言いながらゆっくりと白猫を抱きかかえると、猫はゴロゴロと喉を鳴らす。逃げてみたと思ったらこんどは甘えにくるのだから、なるほど気ままな生き物だ。

「あんたみたいだったらね……」と独りごちて、着替えもせずにしばらくカエルと戯れていた。


 我が家の牛肉コロッケは絶品で、父も大好物であった。食材も足りていたので、満場一致でメニューが決まると母は台所に立った。義妹がすぐに後を追う。

「お義母さん、私にも教えてもらえますか?」

 そう言いながら手を洗っている。気遣いなのか本心なのか、一切判別できないぐらい自然にやってのけるから、私は彼女を嫌うに嫌えない。

 ぼさっとしているうちに、母と義妹は調理を始めてしまう。

「あ、私も」

「あ、大丈夫ですよ。私、お義母さんの味を覚えたいし、お料理も好きなんで」

 どうやら私が義妹の身を案じたとでも思ったらしい。そういうことではないんだけどなと思いながらも、「そう」と小さく呟くしかできなかった。

 自分でどんな顔をしていたのかはわからないが、母がチラリと私の顔を見てから言った。

「そしたらアユミ、材料混ぜてもらっていいかしら?」

 一瞬「どうしてわざわざ」という顔を義妹がしたのだが、すぐに母が次はこれをと野菜を渡して指示を与えたので、コロッケのタネを混ぜるのが私の仕事となった。小さい頃きまって、コロッケのタネを混ぜるのは私だった。きっと母もそれを覚えてくれているのだ。


 アイランドなどない、壁面にベッタリとくっついた昔ながらのキッチンは二人も並ぶと一杯なので、私はすぐ後ろのダイニングテーブルにボウルを置いて具材を混ぜている。

 義妹はテレビ番組のレポーターかなにかかと思うぐらい、母に質問をしてはその答えに一々感心している。そして時々嬉しそうに笑う。私は冷たい牛肉とまだほんのり熱の残ったジャガイモをグチャグチャと混ぜる。母のと義妹の背中は重なったり離れたりしている。


「そっかぁ、だからケンジさんあんまり手を付けてくれなかったのかぁ」



 私は一心不乱にタネを混ぜる。



「あ、お義母さん。それ私やります」



 混ぜる。



「女の子が出来たら、コレ絶対受け継がせますね」



 混ぜる。



「おかあさん――」



 私はボウルを床に叩きつけた。


 粘り気のあるタネが飛び散ることは無かったが、傾いたボウルから半分ほどが床にこぼれ出ている。

 二人が何事かと振り返り、弟がキッチンへと駆けつける。

 部屋に漂う不思議な沈黙を破ったのは母だった。

「大丈夫? 怪我はない?」

「ごめんなさい」

 言うや否や私は駆け出した。もうこれ以上、涙がこぼれるのを留めておけなかったのだ。絶対に誰にも見せるわけにはいかなかった。私の嘘が見破られてしまったら、もう一生ここには帰ってこられない。私にはそう思えた。


 キャリーバッグを引っ掴んで走り去る後ろで、弟夫婦の呼び止める声が聞こえたが私は構わず家を飛び出した。とにかく車を停めているコインパーキングまで急がなくては、何もかもが崩れてしまう前に。けれど家から何十メートルも離れないうちに、母の声が私の後ろ髪を掴んだ。

「アユミ!」

 木製のつっかけサンダルが地面を蹴る音が近づいてくる。他に気配はない。私はゆっくりと立ち止まる。もし私が嘘を打ち明けられる機会があるとすれば、もうここしかないと思ったのだ。

 まだ振り向けずにいる私に、追いついた母が絞り出すようしてに言う。

「ごめんなさい」

 私は困惑した。謝る理由はあっても謝られる理由はない。

 どんどん涙声になりながら母は続ける。

「知ってたの。私も、お父さんも。嘘だったのよね? 私達を、安心させようとして。あなたが、あんまり良く出来た娘だったから。頑張ってたのよね。気づいてあげられなくて、あんな嘘つかせてしまって、だから、お父さん、見守ってあげようって、いつでも帰ってこれるように、しとこうって」

 母は、ごめんなさい、ごめんなさいと幼稚園児みたいに泣きじゃくっている。

 途切れ途切れで支離滅裂だったけど、ああ、私は、本当に馬鹿だ。『笑ってほしい』が、いつの間にか『笑われたくない』に変わってた。そうやってついた嘘のせいで、近づこうとするほど遠ざかっていってた――


 私はくるりと踵を返す。キャリーバッグを置き去りにして、全力ダッシュで母に抱きつく。私の声も、子供みたいになって、

「おかあさん。やだ。やだよ。お父さん、死んじゃったよ」

 記憶よりずっと小さい母と抱き合って、二人で近所迷惑なぐらい泣き声をあげた。 どこかで猫も、にゃーと鳴いた。


(了)


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