3話『運命的だけど感動的じゃない再会』

「~♪」

「楽しそうですね、イシス」

「ん~? そう見える? アリシア」

「えぇ、おもちゃをもらった子供のようです」

「子供って、アリシアって割と失礼よね~。私これでも女神さまなんだぞ~?」


 天地が全て星空に包まれた空間。神の聖域。

 そんな場所で、白と黒のチェスの盤を挟んで、豪華な純金で出来た椅子に座るイシスと、一人の女性。

 歳は二十代後半くらいだろうか。

 短い黒髪に、四角いレンズのメガネをかけた、凛とした女性。

 イシスよりも年上に見える彼女の名前は、アリシア。神に仕える、光の高位精霊だ。


「よかったんですか? 彼女達を『アラトリアス』に送って」

「いいんだよ。私の世界にピッタリな八人でしょう?」

「確かに、あの八人の実力は重々承知しています。ですがそれは、ゲームなどという遊びの中での話であって、現実にそうとは限りませんよ?」

「だ・か・ら、そのゲームの中の力をあげたんじゃない」

「そんな事やって、『アラトリアス』のバランスが崩れても知りませんよ」


 心配そうに言いながら、黒のコマを動かすアリシアに、イシスはふざけたように言う。


「何事もおもしろいことをするべきなのよ。はい、チェックだよ」

「あなたはいつもそうですよね。気に入った存在を見つけてきては、自分の世界に引き込む。自由と言うか、迷惑と言うべきか」


 イシスの白の駒に狙われている、自らの黒のキングを逃がしながら、呆れたように肩をすくめるアリシアに、イシスは無邪気な笑みを浮かべる。


「それが私の魅力だからね」

「少なくとも、褒められたものではないと思いますよ。ところでイシス」

「ん? 何?」

「チェックメイトです」

「にゃ!?」


 アリシアの宣言に、退路を断たれた白のキングを見て、イシスは目を丸くした。


「相変わらず、攻めに転じると守りが手薄になりますね」

「む~……」


 頬を膨らませ、恨めしげにアリシアを見つめるイシスに、アリシアは立ち上がりながら一言。


「一つの事に集中すると、驚異的な集中力なのですがね」

「うぅ……この感じで負けたのって、私何回目だっけ?」

「私わたくしの記憶では、5,623,809,225回目だったかと」

「うっわ、まさに桁が違うね」


 ちなみに、この勝負が5,623,809,225戦目である。

 途方もない数字に笑いながら、イシスは純金の椅子から立ち上がると、パチンッと指を鳴らした。

 その音と共に、どこからか滑るように現れた、静かに揺れる水が入った水盆が、イシスの目の前で漂う。

 小さな鼻歌を歌いながら、水盆で揺れる数人の武装した男たちが映った水を覗き込むイシスに、アリシアは呆れたように言う。


「どうしてあの子たちをアラトリアスに送ったのですか?」


 その質問に、イシスは水盆を覗き込みながら、


「あれ? まだ言ってなかったけ?」

「言ってません。なんの説明もなしに私に働かせたんでしょう」

「あはは、そうだったね」

 

 悪びれた様子もなくそう返すイシスに、アリシアはため息を吐く。

 まぁ、イシスがアリシアに、自分がやるべき仕事を押し付けてきたのは、今に始まったことではないのだが。

 そんな慣れたくないことに慣れてしまったアリシアに、イシスは顔を上げると言う。


「理由っていえるかはわかんないけど、あの子たちを呼んだ理由はね…………」


 そしてにっこりと。誰もが見惚れてしまうような無邪気な笑顔を浮かべて、



「退屈だったから♪」



「…………」


 これが一世界いちせかいの女神である。

 イシスの言葉に、アリシアはより一層深いため息を吐くと、席を立った。


「そろそろ帰ります」

「え~、もう帰っちゃうの?」

「私だって暇じゃないんです。あなたが仕事をしてくれれば、私もかなりの暇ができるんですが?」

「うん、頑張ってくれたまえ!」


 呆れしかない白い目を向けられたイシスが、即座に敬礼するのを見て、アリシアは諦めたように苦笑すると、イシスの横に漂う水盆に近づき、右手をかざした。

 すると、アリシアの手のひらから落ちた光の粒が、水盆に映っていた映像を変える。

 映し出されたのは、森の中を疾走する少女。


「いいんですか? あなたの退屈凌ぎに呼ばれた不幸者が死にかけてますよ?」

「ふふふっ、この子はそう簡単には死なないからだーいじょーぶ♪」


 実に楽しそうに笑って言うイシスを見て、アリシアは水盆に映る少女に同情の目を向ける。

 まぁ、ここでアリシアが何を言っても、何も変わらないのだろう。


「では、また何かあったらお呼びください。どうせ勝てもしないチェスをやりたがる時くらいでしょうが」

「次は勝つよー。いつまでも負けっぱなしだと思わないでよね?」

「そうですね。次は引き分けくらいを期待します」


 薄く笑いながら頬を膨らますイシスに返したアリシアは、踵を返すし光の渦に包まれ姿を消した。

 イシスはそれを見送ってから、水盆を覗き込み、


「私に宣戦布告したんだから、存分に楽しませるまで許さないからね」


 そんなイシスの、水盆に映る少女に向けた言葉は、他に誰もいない聖域に、静かに響き渡った。




 ~~~~~~~~~~




「マジ……クソゲー!!」


 木の根が剝き出しになり、凸凹とした森の中を走りながら、千春は叫んだ。

 そして走る千春から十五メートルほど離れた後方。

 メキメキと耳に悪い音を立てながら、木々をなぎ倒して現れた千春を追いかける一匹の熊。

 しかし、ただの熊というには無理がある。

 なぜか? 簡単だ。

 どう考えても、十メートル級の熊などいない。


「ガアァァァア!!」


 そんな咆哮と共に、迫ってくる熊とは言えないような熊に、千春が絶叫するはめになったのは、三分ほど前の事である。



 威勢よくイシスの喧嘩を買ったはいいものの、まったくもってどうしたらいいのかがわからない。

 見渡す限り広がる森に、千春はため息を吐いた。

 現在千春がいるのは、最初に目を覚ましたところと同じ、この森の中では多少開けた所だ。

 しかし、一歩森の中に踏み入れば、歩くだけでも疲れそうな自然むき出しの完全なる森である。

 そんな場所に一人放置され、何をどうすればいいのかさえわからない千春は、途方に暮れた。

 ゲームであれば普通、何かしらの正体不明な天の声から、初期装備をもらい、チュートリアルに移るであろうこの状況。

 だが、現実ではそんな天の声など存在しない。もしそんなものが聞こえたら、迷わず精神病院にレッツゴーである。

 この場合天の声的な立ち位置なのはイシスなのだが、あれにチュートリアルをされても困る。何一つわからなそうだし。

 その上初期装備といえるものなど、このわけのわからない黒装束だけである。

 なんでもゲームを基準に考えてしまう千春は、ここでも「ゲームならば」で考えてしまう。

 ゲームならば、チュートリアルも含めたモンスターとの戦闘に突入するのだが。

 はっきり言おう、今のチュートリアルも出ないような状態で、そんなイベントに突入されたら、真っ先にゲームの運営会社にクレームを入れる。こんなん無理に決まってんだろ、と。

 まぁ、あくまで「ゲームならば」の話である。

 これはゲームじゃない。夢だろうがなんだろうが、現実とすると決めた以上、そんな都合よくイベントが起こるはずもない。

 ましてや戦闘? 笑わせるな。そんな初見殺しも甚だしいイベント、現実どころかゲームでもそうそうない。 

 そう甘い結論に至った千春は、そこでハッと気付く。

 これは……このタイプの考え方は……例のあれではなかろうか、と。

 あれである。あのほとんどの物語で必ず出てくるあれ。

 

 そう、俗に言う――――フラグなるものだ。

 

 千春がそのことに気付いたのとほぼ同時。いや、それよりも数瞬早かっただろうか。

 凄まじい轟音が千春の耳朶を打った。

 その轟音に、千春はゆっくりと音のした左側を見る。

 そして目にした。

 猛烈な速さで、決して細くはないしっかりとした幹を持つ木々を、いとも容易くへし折り、なぎ倒しながら迫ってくる大きい、いや、大きすぎる黒い影。

 その影が日の光を遮るも木々を倒したことで現れた姿、十メートルはあろう巨大な体に、触れた木の表面を簡単に深々と抉る爪を持ち、赤褐色の体毛に覆われた熊に、千春は絶句した。

 そして思う。


 あ、これクソゲーだ。


 最初から全力で初見プレイヤーを殺しに来る最悪のモンスターに、千春が選んだ道は、いや、選べる道は一択。

 一瞬の迷いもなく、逃げという選択肢を選んだ千春は、全力で駆け出した。

 そして叫ぶ。


「マジ……クソゲー!!」


 と。

 初期装備はただの布切れ、武器は無し。操作方法もわからないまま。

 さて、ここで簡単な問題である。

 そんな状態の引き篭もりの廃人ゲーマーが、普段から運動しているような人間でも苦労する足場の悪い森の中を、木々を避けながら走る。それも、バカみたいな速度で追ってくる化け物から逃げて。

 そして、追いつかれたペナルティはあの鋭利な爪の餌食、もしくは普通に食われる。つまり死だ。

 この場合、どうなるだろうか。

 小学生でも答えられる。


 即殺されるゲームオーバーと。


 だから叫んだ。

 クソゲーだと。

 しかし今は、ここでの死亡ゲームオーバーは、そのまま人生ゲームオーバーになる。確実に。

 さらにクレームを叩きつける相手が、運営会社ではなく自称とはいえ女神様だ。


 クソゲー&無理ゲー。


 いっそ笑ってしまいたいほどの事実に、笑えない状況の千春。

 そして、想像通りの結末に至る。

 ほんの少し土から出ていた木の根に足を引っかけ、そのまま柔らかい土のせいで体勢を立て直せずに転倒。

 そこから二回転、三回転視界が回転し、顔から地面に突っ込んだ。

 めり込んだ顔を引っこ抜いて、ジンジンと痛む顔を上げ千春が後ろに目を向けた頃には、時すでに遅し。

 十五メートル開いていた差が無くなり、充血した巨大熊の黄色い瞳が、目の前で光っていた。

 た、食べてもおいしくないよ。

 そんなありふれた言葉さえ出てこない。


「グルルルルル……」


 熊の低い唸り声と共に、熊の瞳の充血がさらに濃くなる。

 そして、一瞬の間。

 直後、大きく振り上げられた熊の腕が、千春の体を引き裂こうとした瞬間、何かが起こった。

 何が起こったのか。それは千春にも、そして千春を襲おうとした巨大熊にさえわからなかった。

 なんせ、完全に死ぬと思っていた千春が、あの凶暴な爪が振り下ろされたにも関わらず、生きていたのだから。


 しかも、それを――――――千春自身が避けたのだから。


「……は?」


 間抜けな声を出し、千春は唖然とする。

 さっきまで手を伸ばせば届いてしまうほど近くにあった熊の巨体が、逃げていた時と変わらない十五メートル近い距離にあるのだから。

 ほんの少しだけ覚えている記憶を探る。

 確かに、千春はあの熊の鋭利な爪に引き裂かれるはずだった。

 そう『はずだった』、のだ。

 しかしその直前、千春の体が、勝手に動いた・・・・・・。

 千春の意思ではなく、勝手に。

 見えない力が無理やり千春の体を動かして千春に、バク宙させた。

 しかも、十五メートルという、ぶっ飛んだ距離を。

 千春が記憶を一生懸命探って、やっと何をやったのかわかるほどの速度で。つまり、巨大熊の振り下ろした腕が当たるまでの、一秒にも満たない時間で。

 そりゃこういう間抜けな声も出る。十五メートルを、一秒にも満たない時間でバク宙し、そして明らかに死ぬ攻撃を避けるために。

 無理と言うか、そもそも人間業じゃない。

 というか千春自身バク宙もできないのだから。

 そのありえない一瞬のできごとに固まる千春。

 しかし、今の状況は変わらない。そう、命の危機であるということは。

 千春が自分の体に視線を落とした一瞬に、すかさず距離を詰めてきた獣が放つ、ギラリと光る尖った爪の一閃。

 周囲の木々も巻き込んで粉々に粉砕する一撃を、――――千春は巨大熊ごと上から見ていた。

 

 また、勝手に避けた。


 まるであの一撃を読んでいたかのように、体が動いた。

 気付いた時にはもう熊の巨体を見下ろしていた。

 そして、重力に従って落ちる。

 着地点は、巨大熊の頭の上。

 そのまま、まるで何をすればいいのか知っているかのように、体が動く。

 トンッと。軽く頭の上に乗った瞬間、小さくジャンプする。

 それだけで今度は巨大熊が顔を地面にめり込ませる番となった。

 その光景に、言葉も驚き以外の感情も出てこない千春に反し、体だけは数歩落ち着いた動きで距離をとる。

 一度目の攻撃は、ありえない速度で、ありえない距離をバク宙して避けた。

 二度目の攻撃は、見ていなかったにも関わらず容易く避け、反撃と言ってもいい行動をとった。

 わけがわからない。

 戸惑う千春の耳に、地面に顔が埋まった巨大熊の唸り声が聞こえてくる。

 そして地面から顔を引き抜いた巨大熊の怒りの形相に、千春は一歩後ずさった。

 うん、怒るだろうね。さすがにわかるわ。

 そう千春が巨大熊に共感していた時、千春は一つの言葉を思い出した。


『あなたには、これからチルになってもらうわ!!』


 ここに来る前に聞いた、自称女神の言葉。

 あの言葉がもし本当だとしたら……?

 なら、まだなんとかなるかもしれない。

 そう考えた千春は、一歩退いていた足を戻し、怒りの唸りを上げる巨大熊を見つめた。

 この熊の強さはわからない。そして、千春の強さも。

 でも、もし仮に、イシスの言葉通りだとしたら。

 もしそうだとしたら、こんな小さな熊・・・・一匹、一撃・・で……!

 確信はない。

 が、ただで死ぬより何千倍もマシだ。

 覚悟を決めた千春は、今度は一歩踏み込んで、拳を突き出す。

 不格好な。慣れていない動きで放ったへなへなと効果音が付きそうなパンチは―――-



 ――――巨大熊を吹き飛ばした。



 吹き飛ばされたというレベルなのかわからない。

 千春のパンチを腹部に受けた巨大熊は、ものすごい速度で宙を直線を描いて飛び、ぶつかった木々を曲げ、数本の木をへし折って、腹のど真ん中に拳の跡が付けて、白目でガクリと気絶した。

 その光景の前に、千春は唖然としかできなかった。

 これほどまでとは……

 もちろん力加減などしていない。慣れないパンチを、全力で当てた。

 が、これはあまりにも……


「人間業じゃ……ない……よね?」


 これでじゃあ、さっきのバク宙とかがまだ常識の範疇とさえ思えてくる。

 ヘナヘナな少女の拳が、自身の体よりも数倍デカい相手を一撃で沈めたのだから、しかも吹っ飛ばして。

 恐る恐るといった感じで、千春は白目をむいてグッタリとする巨大熊に近付くと、赤褐色の毛に包まれた熊の巨体を指でつついてみた。

 触った瞬間に感じたのは、指先からでもわかるほどの分厚い筋肉。人の肩幅ほどの太さのある腕は、とてつもなく頑丈だ。

 ピクリとも動かない。完全に気絶している。

 それを確認して、すべてに合点がいく。

 イシスの言葉は本当だ。こんなこと人間には不可能だ。

 だが、現在千春に、千春がゲームの世界で操っていたキャラクター『チル』と同じ力があるとしたら、不可能が可能に変わる。そして、二度の攻撃を体が勝手に避けた理由もわかる。

 一度目に攻撃を避けた時起こったのは、緊急回避スキル《バックフリップ》だ。

 MMORPG『フェアリーラグナロク』に存在する、スキルと呼ばれる技の一つ。

 自身が戦闘態勢に入っていない状況のみ発動する、正面からの攻撃を、使用者の筋力値に応じた距離、後ろに大きく跳ぶことで回避できるスキル。

 二度目に避けたのも、同じく緊急回避スキル《ノーチェックカウンター》。

 視界外からの攻撃に対し、回避行動を行った後に、自身の攻撃力の半分を元にした数値のカウンターを行うスキル。

 確証と呼べるものは何一つ無い。この二つの回避スキルも、あくまでパソコンの画面上でしか見たことが無い。ましてや自分の体で使うなど、やったことがない。というか、無理である。

 しかし、目の前で気絶するこの獣を、一撃で沈めたことは、確証と言っていいかもしれない。

 あの攻撃力を上げるために筋力のステータスを上げまくった力があれば、十メートルあろう熊だろうがなんだろうが、力加減せずに殴ればこうなる。

 そう千春が顎に手を当て考え込んでくると、森の奥から再び轟音が聞こえてきた。

 その音に、慌てて目を向けた千春は、そこで固まる。

 ……だって森の奥から同じ赤褐色の毛で覆われた巨大熊が、二頭もこちらに向かって走ってきたのだから。


「いやいやいや!!」


 さすがにない!! ないないないないなーい!!!!

 こんな連続の戦闘イベントがあってたまるか!!

 しかも二頭とも遠目から見ても、さっき千春が気絶させた熊よりも一回りデカい。

 そして、頭に過った不吉な予感。もし、この世界でのスキルの制限までも、ゲームと同じだったなら……


「まだ……クールタイムが……」


 そうなのだ。スキルといっても、全部が全部連続で使えるわけじゃない。

 九割のスキルには、クールタイムという、いわゆる再使用時間というものが設定されている。

 スキル使用後から始まったクールタイムは、設定された時間経過まで、スキルを使えなくする。

 そしてそれは強力なスキル程長く、さっき発動した『バックフリップ』、『ノーチェックカウンター』は、とても強力なため、一度使ったら五分は使用できない。両方とも緊急時に使うスキルなのだ。そうほいほい使えるものでは無い。

 さらには、現在千春はスキルがあるということがわかったばかりで、使い方まではわからない。

 つまり、少なくとも一度でも攻撃を喰らえば、痛いどころじゃ済まない。本当に『チル』と同じ強さなら、死ぬことはないだろうが、これはゲームじゃない、確実に痛覚が存在するし、ケガもする。それはさっきすっ転んだ時にわかった。

 とにかく、もう一度ぶん殴ればどうにか……

 そう思い拳を握りしめた千春に二頭の熊が迫る。

 その時だった。

 ふっとその二頭の熊の背後に現れた人影。


「え……?」


 一瞬、目の錯覚かと思った千春の考えは、すぐに否定される。

 突然現れた人影の手元が、キラリと光ったのとほぼ同時。千春に向かって走ってきていた二頭の熊の巨体が、千春の目の前まで転がり、動きを止めた。。

 赤い鮮血が、千春の視界に飛び散る。

 死ん、でる……?

 開かれた二頭の熊の目は、輝きはあるが、生気が感じられない。

 二頭のうなじには、鮮やかで深い切り傷。いや、切り傷というには、鮮やか過ぎる切り口。

 傷から溢れ出た鮮血が、雑草だらけの地面を緑から赤に染め上げる。

 その光景に固まる千春の耳に、金属が擦れるような足音が聞こえてきた。

 その音に、千春はビクリと肩を縮めると、ゆっくりと後ずさった。

 この巨大熊を二頭も同時に殺した人間が、こちらに向かって歩いてきているのだ。これがホラーゲームとかだったら、ほとんどが死亡ルート確定の合図だろう。

 だんだんと近づいてくる足音に、千春は注意深く目を走らせる。

 そして、熊の巨体の反対側から現れた人間に、身構えた。

 まず目に入ったのは、胸元にチル服につけられていたバッジと同じデザインの、薔薇を背景に佇む龍の紋章が描かれた、銀色の鎧をまとった細身の男。次に、男が左手に持つ、人一人分はあろう巨大な盾。

 最後に視界に入り、視界から外せなくなった、男が右手に携えた金属。

 長い剣つるぎ。長剣というやつか。柄にルビーの装飾が施された、白銀の剣だ。

 その刀身にべっとりと付いた赤い血が、目を離せなくなった理由。

 千春がそれに再び一歩後退ると、男が口を開いた。


「ごめんごめん、ケガ無かった?」


 まるで、笑いながら話しているかのように発せられた言葉に、千春はもう一歩後ろに足を動かす。

 そんな千春に、男は「まいったな……」と呟きながら、ボサボサの栗色の髪をかく。


「あ~……ごめん、これがいけないのか」


 自身の右手が握っている白銀の長剣を見て、男は納得したように頷くと、持っていた長剣を腰の鞘に収めた。

 それを見て、千春は恐る恐る男の顔に目を向ける。

 濃い栗色の髪に、それよりも少し薄い瞳。爽やかな印象のある、千春よりも頭一つ背の高い男は、一般的にイケメンに分類される人間だ。

 そう簡単に分析した千春は、男の顔に内心首を傾げる。

 どこかで見たような。そんな既視感を覚える顔。

 いや、しかし。ここは千春がいた世界じゃないんだ。千春にとっては全ての人間が初対面ではないか。

 だが、それでも既視感の残る男の顔に、大して多くもない知人の顔を一人一人思い出しながら、その疑問に答えを見つけようとしてみる。

 すると、男は千春の顔を覗き込むように見ると、千春に首を傾げながら言った。


「どっかで……会ったことある?」


 男の質問に、千春が男の目を見ると、男は目を細めて微笑む。

 その仕草に、千春の記憶が答えを告げる。

 どっかで見たことあるとかの話じゃない。

 千春は目の前のこの鎧の男に、会ったことさえある。それもはるか昔から。

 昔から、千春とは腐れ縁。

 離れようと思っても、結局一緒にいることになった、腹の立つバカ。

 そいつの顔に、そっくりなんてレベルじゃなく似てる。

 そこまで考えた千春は、さっきの自分の言葉を否定する。

 全ての人間が初対面、じゃない。

 いるじゃないか。あの自称女神の言葉を信じるなら、八人だけ・・・・。

 そして千春は、目の前にいる男がその八人の中の一人であると結論を出し、小さく言う。


「冬樹……?」


 千春の言葉に、男は一瞬驚いたように眉を吊り上げた。

 その仕草で、自分の結論が間違いでないと、確信した。

 そして、男は千春の顔を数秒見てから、


「あぁ~……………………千春!?」


 ネタか! とツッコミを入れたくなるほどの間を置いて、驚愕の声を上げる男――冬樹に、千春は肩を落とした。

 なんで……どうして異世界に来てまで、こいつとの腐れ縁は切れないのだろうか。

 まぁ、最後にこいつと話していたのだから、順番としては妥当なのかな。

 そんな根拠のない考えで、驚いた心を元に戻した千春は、目の前の冬樹に目を向け、次に深く深くため息。

 とりあえず、あの自称女神は恨んでおこう。とりあえずね、うん。

 いろんな意味で、どっと疲れた千春は、後で気付くことになる。

 まだ、この世界に来て一時間も経っていないのに、こんなに疲れているという、悲しい事実に。

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