2話『喧嘩なら買ってやる』

 目を覚ました千春の目に最初に飛び込んできたのは、青々とした自然と太陽の光だった。

 視界いっぱいの木々の間から射し込む光に目を細めながら、千春はゆっくりと上半身だけを起こす。

 しっとりとした地面。堂々と立ち並ぶ大木で構成された森だ。

 周囲は木々の影のせいで太陽の高さは真上にあるのだが薄暗く、大木以外の植物は地面を覆う苔程度。澄んだ空気も合わさりとても神聖な雰囲気に包まれている。

 顔にかかった自身の黒髪を、ふるふると首を振ることでどけた千春は、ふぅと息を吐いた。

 

 ここは……どこだ……?

 

 いつも使っていたパソコンも、ラノベと漫画ばかりで参考書が一冊もない本棚も、脱ぎっぱなしの服で散らかしたベッドも見当たらない。

 あの閉め切った自分の部屋ではないことは確かだ。

 だとすると、あの不思議な空間で女神と話したのは、どうやら本当のことのようだ。

 それになんだか体が軽い。さっきまでいた不思議な空間ほどではないが、違和感を覚えるほどに体が軽く、まるで千春のために体が最適化されているがごとく動きやすい。

 着ている服も変わっている。だらしなく着ていたワンピースから、少し大きめの黒いシャツとフード付きの長袖の前の開いたパーカー、フルジップパーカーというやつか、チャックついてないけど。そしてゆったりとした黒いズボン、運動靴のようなこれまた真っ黒の靴。

 全てが上から降ってくる太陽の光を全く反射しない。それに、服を見下ろしていたのになぜか見失う。目の前のものを見失うという不思議な感覚。

 肌触りは滑らかで、服の重さは全く感じさせない。

 パーカーの裏側には、薔薇を背景に佇む龍のデザインの小さなバッジが隠されるようにつけられている。

 まるで、影を着ているみたい。

 そんなことを思いながら、千春はピョンと跳ね起きた。

 体が軽いし筋肉もある。今までの千春だったらありえないことだ。引き籠もり歴の長さから、体の貧弱さには自信があるくらいだったのだから。

 とりあえず、状況を整理しよう。

 ぐっと伸びをしたその時、背後から聞こえたガサッという音に、千春は慌てて振り向いた。

 振り向いた視線の先にいたのは、近くの草むらから飛び出してきた一匹の蛙。

 普通なら「驚かせるなよ……」的な反応をして、安堵するところだが、千春にはそれができなかった。

 理由は簡単、現れた蛙は、普通じゃなかった。

 形は普通の蛙。まぁ、額にある角を除けば。そして、鮮やかな虹色の肌も見なければ、形は普通の蛙だ。

 あと特徴をあげるなら、大きさが大人の人間レベルということだけだろうか。

 この三つを見なければ、普通の蛙だ。

 たった三つの点が、普通の蛙と違う。そして、絶句し、冷や汗を感じるには十分の違いだ。

 明らかにおかしさ以外何もないその蛙に、言い知れない恐怖に襲われる千春。

 そんな千春を、蛙は一瞥すると、千春の後ろの景色をボーっと眺め、その後方向転換。

 きれいな回れ右をしてから、蛙は来た道を戻るように大きくジャンプし、消えていった。

 最後に四メートル程の木を、軽々越える跳躍を見せて消えた蛙に、千春は澄み切った空を見上げ思う。

 不安だ。

 正直、社会不適合者と言っても過言ではないほどに、ダメ人間であるという自覚はある。だが、いつもいつも根拠はないが不安になったことはない。かといって強気であるというのも、また違うなとも思うのだが。

 もし、今この状況が、紛れもない事実であり、ここが異世界だとすれば。

 そう考えると、先ほど以上の恐怖が襲ってくる。

 自分の胸に手を当て、激しく動く心臓を感じる。

 怖い。怖すぎる。

 

 ―――この事実に、ワクワクしている自分が。


 もちろん不安から生まれる恐怖もある。

 その恐怖によって抑え込まれている、このワクワクとしている自分に感じる恐怖。

 それが、なによりも怖い。

 恐怖を感じる状況に抑え込まれた感情に、一番の恐怖を感じる。そんな複雑でおかしなことに、さらに笑いが零れる。

 そして、たった一言出てきた言葉。


「らしくないな……」


 自分らしくない。いつも通りのスタイル。それでいこう。

 そう決めた千春は、少し記憶を掘り返す。

 イシスから届いたメール《君たちは、世界に挑戦する権利を獲得した》。イシスの言葉『私の創りだした世界に挑んでもらう』。

 つまり簡単に言うと、千春はイシスに喧嘩を売られたってわけだ。

 千春のいつも通りのスタイルでいくのなら、売られた喧嘩は全部まとまて買いまくり、等しく返り討ちにしてお帰りいただく。

 どうすればこの喧嘩に勝てるのかは知らんが、それは喧嘩を買ってからでも問題なかろう。

 めんどうなことは嫌いだ。感情を抑え込む? んなややこしいことやってられるか!

 千春は空を指さし、さっきと変わらない笑顔で叫ぶ。


「おいこらイシス!! 私に喧嘩売ったこと後悔させてあげるから、覚悟しときなさいよ!!」


 大声で創世神に向かって宣言する。

 この夢のような状況。

 でも、夢なら決着がつくまで覚めないで欲しい。

 だって、喧嘩買っといてホントは夢でしたなんて、肩透かしもいいとこだ。

 それに、回線ぶち抜いて逃げるなんて、常識外れ過ぎるしね。

 つい数分前まで、千春を支配していた恐怖は、跡形もなく消え去っていた。

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