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大塚已愛

第1話

 目の前に置かれたアップルパイを見て、サミュエルは二、三度目を瞬かせた。面食らったときの癖である。


 焼きたての正方形のパイ生地の上には、薄くスライスされた林檎が隙間なく綺麗に並べられていた。中央にも林檎で作られた花が乗せられ、目にも鮮やかだ。パイ全体に塗られている淡紅色のシロップが、いっそうその姿を華やかにしている。


 こんな繊細なアップルパイは、あまり英国では見ない形だ。しかし、サミュエルが面食らったのはそのせいではない。問題はサイズの方だ。


 それはあまりに巨大なパイだった。厚さは一インチ程度だが、少なくとも一フィート半四方の大きさがある。銀のトレイにのっているのも、大きさに合う皿がないせいだろう。サミュエルは思わず向かい側に座る少女を見つめた。


 少女――エディス・シダルは子供のように目を輝かせ、にこにこしながらパイを見ている。無邪気すぎて何も言えない。



 その日、偶然ブルームズベリーでエディスと会ったサミュエルは、隣のフィッツロヴィアに出来たカフェへ行こうと誘われた。彼女はその店のアップルパイが食べたいらしい。特に何も考えず、サミュエルはエディスに同行したのだが、正直このサイズは想定外だ。甘いものが好きだと聞いてはいたが、まさかここまでとは思わなかった。

しばし唖然としていると、エディスが身を乗り出すようにして話し掛けてくる。


「ね、美味しそうでしょ? ここのアップルパイはサイズが大きいから、一人だと注文できないの。もちろん切り分けたものも提供しているんだけど、焼きたてが食べたかったら、このサイズを注文するしかないのよね」


 屈託なく笑うエディスに、サミュエルが疑問を口にする。


「……二人でも食べきるには、かなり難しいサイズだと思うけれど」


「大丈夫、これくらいなら私一人でも余裕だから、まかせておいて。甘いものは別腹って言うじゃない」


「そういうもの……だろうか?」


「そういうものよ!」


 胸を張り自信満々で言い切ると、エディスは早速アップルパイを六等分し、一切れずつ二人の皿に取り分けた。六分の一とはいえ結構大きい。パイ生地の中にも林檎のコンポートがぎっしりと詰まっており、一切れだって十分食べ応えがありそうだ。


「はい、焼きたてだから、火傷しないように気をつけてね」


「……ありがとう」


 渡されたアップルパイはずしりと重く、かなり熱そうだった。少し冷まそうとするサミュエルとは反対に、エディスは早速パイを食べ始める。躊躇のなさから察するに、彼女は猫舌ではないらしい。


 パイを食べるエディスの姿を何ともなしに眺めていたサミュエルが、ほんの少し目を見張る。少女の食べ方があまりにも綺麗で、且つ、幸せそうだったからだ。


 自称・美食家達のように、一口食べるごとにわざとらしく唸るだとか、大袈裟な反応をとるわけではない。むしろ一言も発せず、上品な手つきで静かにパイを食べている。けれど、その表情――笑みがこぼれる唇や、きらきらと輝く瞳、そしてほんのり色付く頬から、彼女が心底『美味しい』と感じていることが伝わってくるのだ。子供のように素直な様が微笑ましかった。


サミュエルの視線に気づいたのか、エディスが少し照れ臭そうに笑って言う。


「ヨルダーンスの《酒を飲む王様》って絵があるじゃない」


「うん」


「あの王様が食べてるパイってすごくおいしそうでしょ? その絵のことを思い出したら、矢も楯もたまらずアップルパイが食べたくなってしまったの」


 楽しげに笑う少女に、だからあんなところで会ったのか、とサミュエルは納得する。


 サミュエルは食べ物を『美味い』と感じたことがない。というよりも『美味い』という感覚がよくわからないのだ。甘いか辛いか、濃いか薄いかくらいの感慨しかない。食べるのはあくまでも『必要だから』であって、味については深く考えたこともなかった。けれど、アップルパイを食べて幸せそうなエディスを見ていると、その感覚がわからないことが、ほんの少し残念に思えてしまう。


 あっという間に一切れ目のパイを食べ終えたエディスを見て、サミュエルはようやく自分の皿に手を付けた。少女に見惚(みと)れていたことを隠すように、少し急ぐ。まだまだ熱いパイを口の中に入れたとき、ふとエディスと目が合った。二切れ目のパイを手にした少女が、心底嬉しそうに、にこっと微笑む。


 何故だか一瞬、身体の奥がどくんと鳴った。


 その瞬間、なんだか今までに感じたことのない不思議な感覚が心の奥から沸き上がる。


 甘やかで、そしてどこかくすぐったい。舌の上ではなく、胸の奥に暖かさが広がるような感覚だ。


 これは一体、何なのか。


 戸惑うサミュエルに、エディスが嬉しそうな顔で言った。


「どう、凄く美味しいでしょう? 美味しいものって、誰かと一緒に食べると、何故だかもっと美味しく感じるのよね」


 楽しそうに微笑むエディスを見て、サミュエルはこれが『美味しい』という感覚かと、はじめて察する。これが美味しいという感覚であるのなら、彼女が幸せそうな顔になったことも納得できた。心のどこかに、ぽっと火が灯ったような気がする。


 多分、同じパイを一人きりで食べたとしても、この感覚は訪れまい。彼女の幸福が自分にも伝播したに違いなかった。きっとエディスの言う通り、二人だから、はじめて自分は『美味しい』と感じることができたのだろう。


 口の中のパイを呑み込むと、サミュエルはエディスに頭を下げた。


「そうだね。……僕の方こそ、ありがとう」


 お礼を言われた事に、エディスは一瞬きょとんとした顔になる。しかし、すぐに満面の笑みで頷き返す。


「気に入ってくれて嬉しいわ。また二人でお茶を飲みましょうね! 最近、ソーホーに美味しいお菓子屋さんができたのですって。そこの自慢のケーキがね……」


 いろんな菓子の名前を出して笑う少女はどこまでも明るい。


 あっという間に二切れ目を食べ終えて、三切れ目に手を伸ばすエディスの話を聞きながら、サミュエルはようやく二口目のパイを食べる。


 それは、不思議と沁みる程に美味だった。

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