第3章 水知様
水知之須原岐神(ミナシリノスハラギガミ)。
通称、水知様。
その昔、この辺り一帯を治めていた聖之阪が、聖山の洞窟に、とても人とは思えない異形のモノを見つけた。
人とは思えぬ虹彩、蛇のような瞳孔。頭上に浮かぶ光輪。首筋と足に黒丸の模様。長く鋭い、恐らく塗られたものでは無い黒い爪。
内側から薄く光る身体。
妖艶とも言える細く長い黒髪。
そして、ここにいた者が皆、目を向けたであろう、腹部の大きな一つ目。
これらを見てまだそのモノを人と称する愚かな人間は居ないだろう。
あるものは逃げ出し、あるものはその場で膝をつき絶望し、あるものは跪き許しを乞い、あるものは崇め称えた。
俯き、水たまりに胡座をかいて座るそのモノは、俯いたままゆっくりとその中の一人の人間を指さした。
誰もがモノに畏怖を示す中、一人何もせずただモノを見つめていた人間を指さし、ソレは、静かに、淡々と話し始めた。
『そなたに問おう。そなたらは、人間か。』
人間は頷いた。
ソレをじっと見つめていたのは、年端もいかぬ、みすぼらしく、汚い子供だった。
『人か、そうか。人の言葉を話すのは久しくてな。聞き取れぬ言葉が無いことを妾は望む。さて、人間よ。ここへ何しに来た。』
すくっと立ち上がり、長い前髪を揺らして少年に手招きをしたソレは少年を見下ろす。
泣き叫んだり、武器を探したり、耳を抑えガタガタと震えるだけの大人達を掻き分け、ソレの元へ行った少年はぽつぽつと話しだす。
「みず…みずがいるって…みんな言ってた。やまには、きっとみずがあるからって」
少年に目を向けていたモノは、決して武器とは言えない枝キレを持ち、此方へと走り出してくる人間に目を向け、指をさし、ゆっくりと弧を描いた。
そこには水の膜が張られた。硬いとは言えないただの水。
入れるはずの水の中には誰も入ることが出来ない。
その膜の中には、少年と、それを見つめ直すモノだけがいた。
『そう…そうか。水が足りないのか。山付近に人間が住み始めたのだな。暫く寝ていたもので気がつかなかった。入ってくる情報が少なくなったのも、妾の元へ帰る水が少なくなったのも人間が住んだからか。』
水の膜を叩く大人達をよそ目に、宙にゆっくりと、ソレは何かを描き続ける。
「ぼくは、いけにえだって、みんなはいってた。」
それを聞いたモノはピタリと、動きを止めた。
そして大人を、見た。
一瞬にしてその場は凍りついたように静寂に包まれ、少年以外の人間は、誰一人として動くことを許されなくなった。
瞬きも、涙を流すことも、声を上げることも出来ず、固まりそして大人たちも皆、ソレを見た。
膜が消える。
『このみすぼらしい痩せ細った年端もいかぬ子供を生贄と申すのか。愚かな人間どもよ。』
張り詰めた空気が震える。腹の底に響くその声は、聞くだけでさぞ恐ろしいものであろう。
『妾が何かを知っての行動か。』
その場にいる人間の中で、1番位の高い者を指さしたソレは怒りに満ちていた。
長い髪はゆっくりと浮き上がり、腹の目は見開かれ、顔を覆い隠す前髪の隙間から見えた目は、その者を睨みつけていた。牙を剥き今にも襲いかかりそうなソレに、村長は叫んだ
「水知様を探していたらここへ辿り着いただけなんだ!!!だから許してくれ!!あんたの住処を荒らすつもりはないん」
村長の片目が吹き飛ぶ。
叫ぶ村長の声をかき消すようにソレは叫んだ。
『妾こそが水知之須原岐である!!!!!!妾にこのような生贄なぞ必要ない!!!格下の神もどきと同じ扱いなぞ無礼にあたるとは誰も思わなかったのか!!』
腕を一振した水知様に合わせ、大人達は跪く。
水知様は少しづつ歩きだし、階段を下り、少年を抱き寄せる。
『このような子供に生贄なぞという穢らわしい役割を背負わせた上に、大人共はぶくぶく太っておきながら、この子供は痩せ細っている。あぁなんと愚かか。妾の愛しい人間はもう居なくなってしまったのか。愚かな獣同然の人間しか居ないのか。何とか言え!!!!!』
子供のように泣きわめく大人に見向きもせず、叫んだ水知様の服の裾を少年が掴んだ。
それに気づいた水知様はスっと落ち着き、髪もストンと浮くことをやめ、重力に従う。
「か…かあさんは…いつも…ぼくにたべものくれる…。いくらおなかすいてても…ぼくにくれるの…」
泣きそうになりながら話す少年の声を聞き取れた人間は居なかったろう。そんなことを聞こうとした人間は居なかったろう。
泣きわめき続ける大人の声に、きっとかき消されてしまっている。だが、水知様はそれを聞き逃しやしない。
『そうか…そうなのか。少年。母は好きか?この中に、少年の父親は居ないな?』
水知様の表情は見えない。が、きっと見えていたら、誰もが安らぐような、女神のような微笑みを浮かべていることだろう。
水知様の問いに頷いた少年の動きを合図に、水知様は腕を一振した。
そして、少年を深く抱きしめた。
少年は、水知様に包み込まれ、心臓の鼓動を聞いていた。
優しい音に目を伏せる少年の頭を、静かに撫でる。
洞窟ではあるが、所々に隙間がある。そこから陽が差し込み、二人を照らしだした。なんと神々しく、また美しい光景だろうか。
その場には、水が流れる音だけが響いていた。
赤黒い液体と水がまじり、人間だった肉塊をもまぜ、一つの水の塊を作り上げていく。
それがまとまった瞬間、その塊はただの綺麗な水へと変化した。
それを合図に水知様は少年を抱きしめるのをやめ、少し離れる。
「…みなしり…さま?」
不安そうに水知様を見つめる少年に優しく、こういった。
『これを持って、村に帰りなさい。ここを出ると川ができているから、そこを下って行けばすぐに村に着く。村のものには、水知様に会ったと言って、村長の次に偉いものに、籠の中の紙を渡しなさい。分かったか?』
木のカゴに入った沢山の桃と紙を渡し、少年の頭をまたなでると、少年は元気よく頷き笑い、洞窟を出ていこうとする。
『あぁ、少年。名を聞かせてくれないか?』
「なまえ…?ぼくのなまえは…」
少年は、冴木 飾(サエキ カザリ)と、名乗った。
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