第19・20章(最終回)

19

 僕はすべてを見た。あの沼地で起きた、すべてのことを。あいつらがものの数分の内に物言わぬ死体に成り果てて泥の中に倒れるまでを、僕はじっとこの草むらの中から観察していたんだ。声も出なかった。しかしおそらく声が出なかったおかげで、僕は今でもこうして荒く息をして、この残酷な世界でささくれてしまった怠惰な生を送っている。

 だけど僕はこのまま黙っていてはいけないんだろう。それはわかってる。何としてでも声を上げて、あの沼地でとんでもない殺戮が行われたんだ、あの沼地のぼろ家に棲む二人組がすべての引き金を引いた張本人どもなんだと、みんなに知らしめなければならない。泥に足を取られても、僕は負けるわけにはいかない。あいつには散々嫌な思いをさせられたけど、中学校の同級生だったという事実には変わりない。お気に入りの生徒を殺され、そして今度は昔の友達まで無残に殺されたんだ。例え町長に黙っていろと言われても、僕は納得できない。真実を追究する。何としてでも、真相を解き明かすんだ。

 しかし足を取られる。泥がどのねばねばした体の至る所から手を伸ばして、僕の足を引きさらいにかかる。ここに一ヶ月前、体中を鉈やナイフといった凶器でずたずたにされた状態で町の青年団の人々が倒れていた。それはもう二目と見られないような光景だった。全身から流れる汗を疎ましく思いながら、僕は彼らが殺される光景を見ていた。家の外で待っていた町の人々が突然半狂乱になって身をよじらせ、一人また一人と沼の中へぶくぶくと沈んでいった。僕にはどうすることもできなかったし、どうするつもりもなかった。これは全部あいつらの自業自得なんだ。わざわざこの僕が出て行ってあいつらを助けたり、命乞いをしたりする義務なんかないだろう。

 ただ、僕は真実を知りたい。すべての真実を、この耳で、この目で、しっかりと確かめなければならないのだ。

 あの家はまだそこにある。噂の住人はもう引き上げてしまっているだろうが、証拠品の一つや二つは残っているかもしれない。とにかく、何か真実の欠片のようなものを持って帰らないと。

 いたずらに急いてしまう気を何とか抑えつけながら、僕は家の中へ入る。扉には鍵がかかっておらず、あの時あんなに大きな音をこの沼地全体に響き渡らせたこの蝶番も、今ではほんの少しの衝撃で折れてしまいそうな弱々しい音を発するだけだ。ぺた、ぺたと僕の履いている靴についた泥が床板の上に落ちていく音。ひんやりとした空気。逃げ出したいが、そんなわけにもいかない。

 あの二人はこの家へ家財道具などを持ち込んでいたのだろうか。少なくとも彼らが乗っていたとおぼしき軽トラックはいつの間にか煙のように消えてしまっている。家の中にある机や椅子は、おそらくは彼らがここへ乗り込んでくる以前から土臭い風の応酬に耐え続けてきたのだろう。靴入れの“残骸”にはその側面いっぱいにびっしりとかびが生え、僕の入った一番奥の一部屋に置かれていた木製の椅子は足の部分がべこっと大きくへこんでいるのだが、何故かバランスを上手く保ったままその場に立ちつくしている。

 死人だ。どこもかしこも死人だらけだ。

 眼をくるくるさせていると、部屋の奥に置かれた小さな机に表面が泥まみれのノートが一冊、息を押し殺すようにして横たわっている。

 どうして“横たわっている”なんて表現を使ってしまったんだろう。僕は国語教師なんだから、こんな乱暴で間違った言葉の使い方なんてしていたらだめだ。しかしどうしようにも教科書に載っているような日本語だけでは表現できないような事柄が、僕の脳裏をしきりに“這いずり回っている”。どこもかしこも“死人”だらけだ。しかしこのノートだけは、その今にも灰になって消えてしまいそうな机の上で確固として自分を“主張”している。少なくとも僕にはそう思われる。

 こんな文章を書くような生徒がいたとしたら、僕はそいつを職員室へ呼び出してこんこんと説教してやるだろう。そして国語の点数はもちろん零点だ。教師である僕がこんなぼろ家に入ったくらいで気もそぞろになってしまうなんて、何て情けない。

 僕は手を伸ばす。もちろん机の上のノートを取ろうとして、手を伸ばすわけだ。何も難しいことなんかない。単純明快な事実、単純明快な僕の行動。だけどさっきから妙にぞわぞわするこの感覚は一体何だろう。

 僕は表紙をめくる。そこには文字が書いてある(ばからしいようにみえるかもしれないが、こうやって自分の思考を整理しながらでないとどうも行動に踏み出せない)。僕は最初このノートを、あいつの取材ノートだと思っていた。あいつがこの事件の取材に我も忘れて取り組んでいたのは町の人間なら誰でも知っているし、あの事件の一週間後に警察の人間が僕の家にやって来て、彼が取材に使っていた大学ノートが一冊行方不明のようなんですが知りませんかと僕に尋ねてきたのだ。さあ知りませんねと言っておいたが(僕は実際知らなかった)、机の上に”横たわった”それを見たとき、さてはこれがその取材記録が書き込まれたノートなのではないだろうかと直感的に思ったのだ。

 しかしどうも違うようだ。これはあいつの取材ノートではなく、どうやらあの二人組がこの家に持ち込んだノートらしい。

 はじめの数ページはあの子のことが書いてある。あの子が郵便局で仕事をし始め、この町のありとあらゆることを知り、そして沼地に棲む二人組のことを深追いしてあいつらの罠にかかってしまうまでが、不思議なことに“あの子の一人称”で、つまり“あの子が自分の体験や考えていることを話している”ていで記されている。本人の手によって書かれたものでないことは明白だ。何故ならどうもあの子の性格を誤解しているような、普通の子供なら誰でも持っているような意地悪で歪んだ側面を、無理に誇張したような描写が散見されるからだ。しかし全体的に見ればあの子の純粋な性質、世の中のために働きたいと真剣に思う男の子のかわいらしく活発な側面を、うまくすくい取って描けていると言えるだろう。結末を少し変えれば、子供向けの冒険小説として有名どころの出版社から売り出してもいいくらいのまとまった文章になっている。

 しかし読み進めていくと、記述は男の子の一人称からあの郵便局長の一人称へといつの間にか変わり、子供の持つ純粋さとは打って変わった大人の責任感や思慮深さといったものを鋭く読む者に感じさせるような文章になった。

「まさかこんなことになるなんて、思いもしなかった。今でも信じられない。信じられないが、いつまでもこの茫然自失の状態に陥ったままでいるわけにもいかない。」

 日々の仕事を懸命にこなし、町の人々みんなから愛されていた郵便局長がある日突然子供殺しの犯人の汚名を着せられ、動揺し、愕然とし、次いで勇気を取り戻していく様が克明に描かれている。彼の懊悩、苦痛、そして真相を究明しなければという切なる想いに、私も胸を突き動かされた。

 時間を忘れ読みふけっていく内に、私は郵便局長の惨たらしい死から報道記者の冒険の顛末へと視点を移すことになった。

 「そうなれば準備しなくてはならない。早速明日から、沼地の二人組に関する調査をはじめてみようではないか。そしてその結果を私の報道番組で全国に知らしめ、人々に具体的なアクションを起こさせなければならない。」

 「不安、恐怖、逡巡、そうした弱さを振り払い、プロフェッショナルとして覚悟を決めて障壁に向って行かなければ、望むものを得ることはできないのだ。」

 素晴らしい。彼は真のプロフェッショナルだ。僕は彼のことをこれまで少し誤解していたらしい。

 彼のような人間は必要だったのだ。彼のような人間が。僕は彼のことをかつてのいじめっ子だと言って忌避していたけれども、彼もあの時は子どもだったのから当然その罪は許されてしかるべきだ。確かに僕にだっていじめられるだけの理由はあったに違いない、だから過去にされたことをいつまでも蒸し返して恨みがましく反芻するなんてのは、だいの大人がするようなことじゃない。その証拠に彼は立派にジャーナリストとしての仕事に邁進していたじゃないか。それに比べて延々と面倒くさい自意識をこねくりまわしていたこの僕はどうだ。恥ずかしくなる。僕は微笑する。

 文章は彼の一人称と、神の視点の三人称で交互に書かれていたが、彼の心の強さ、彼の仕事に対する誠実さがこれでもかと伝わってくる。

 ここへ来た目的すらも忘れて読みふける。

 僕はページをめくった。 


 

 信じられないことが起こった、起こってはならないこと、こんなことが起こるとは想像もつかなかったことが、


 そこには、僕がいた。

 「僕はすべてを見た。あの沼地で起きた、すべてのことを。」

 そのページからは、この僕のことが書いてある。

 事細かに、何から何まで。僕の頭の中まで。

 はじめて読む気がしない。

それはそうだ、さっきまでこんなようなことを

頭の中で

考えていたんだから。

 「それはそうだ、さっきまでこんなようなことを

頭の中で

考えていたんだから。」

 頭がくらくらする。 意識がもうろうとして、

 耐えられない

 「頭がくらくらする。 意識がもうろうとして、

 耐えられない」

 問題の箇所にさしかかった瞬間から、何かに取り憑かれでもしたかのように体が重くなって、視界がぼやけ始めた。

 何が起こったんだろう、集中力が続かなくなったような、集中力が続かなくなったような、そんな感じがする。

 あの二人はこのノートに一体何を書いていただろうか。

 わかった気がした。

 あいつらは書き終わった あいつらは書き終わった だから

 この僕の操り人形としての 役目も終わるのか

 そう思った途端、抑えつけてきたものが外れる。僕を、どうにか抑えつけて一人の人間として振る舞わせてきたようなものが、確かにその瞬間に外れる。僕はその気味の悪くなるような思考を押しとどめることができない、とめどなく溢れ出る思考の奔流、ペンを持った手、ペンを持った手が白い紙の上を走って行く、どうやら僕の思考はその筆致にあわせてうねりをあげ、のたくり、あることないことをぺちゃくちゃとしゃべりまくるようだ。けたたましく。まるで頭の中に誰か別の人間が入っているような、そして僕はそいつに抗えず、そいつの書くその文章をただ強いられるがままにわめきちらすことしかできないというような、そんな感覚、そんな感覚が、僕を襲う、

ああその通りだその通りだその通りだその通りだ、そういうやりかたなら何だってできるだろう何だってできるはずなんだ、もうこれは理屈なんてもんじゃない理屈なんてもんじゃない、これをどこかで読んでいる奴がいるこれをどこかで読んでいる奴がいる、確かにそれがわかる、理屈じゃない感覚でわかるんだ、僕がこうしてこの蛇のようにのたくる字面を読んでいるのと同じように、どこかでこんな僕の一挙手一投足を、考えていることまで、すべてをじっくりとなめるように読んでいる、もしくは忙しく読み飛ばしている奴がいる、ああそういうことだったのか、怖ろしくなってきた怖ろしくなってきた、ああそうだろうそうだろう、そりゃ小説を書きさえすれば、小説を書きさえすればいくらだって人が殺せるだろう、いくらだって人に暴力が振るえるだろう、そんなことわかりきったことだ、だからその権利を履行した奴がどこかにいる、それだけのことだ、しかし思いもよらなかった、この僕が、僕を含めたすべてが、ただ文字で書かれただけの存在だったなんて、ただの架空の登場人物に過ぎなかっただなんて、思いやしなかったんだ、そりゃそうだ、あまりにも突飛すぎるし、唐突すぎるし、ナンセンスだ、ナンセンスに過ぎる、しかし確かなことらしい、僕らはみんな、ただの操り人形に過ぎなかった、操り人形にすぎなかったんだ、しかしいくら文章だからって、いくら小説だからって、この苦痛は、この絶望は、確かに僕が感じている、僕が感じているんだ、その感情は本物、残酷なことに、この感情だけは本物なんだ、「我思う故に我あり」なんて言葉、信用すべきじゃない、僕は今恐怖で吐きそうなくらいだ、しかしここに僕という人間はいない、確固とした僕の肉体なんてものは、存在しないんだ、


 あいつらは この僕をも含めた事件の関係者の

 行動 意志 感情

 すべてを あらかじめノートに残し その通りに僕たちを

 操っていた

 ようするに みんな地獄に落ちたってことだ


 僕は逃げ出したい どこへでも構わない

 とにかくこの

 家からは 沼地からは


そして僕の頭上には ぼんやりと

 あいつの女 あいつの女が ふわふわと 浮かんで

 旋回して ぶんぶんとうなって

 僕の頭上で ぶつぶつ ぶつぶつと


 ああ そういうことだったのか

 あいつは

 罰を受けたんだな

 そして この僕は

 あの郵便局長と 同じように

 駅のプラットフォームで

 体を揺らしながら

 揺らしながら

揺らしながら

 最終電車を待つ

 最終電車を待つが

 もう待ちきれない



20

 これですべての記録は終わるが、気にしないでほしい。

 東京から来た自称報道記者の連れていた女は、まだ彼の頭上でくるくると旋回を続けている。

 私はひとつの事件を誰しもが思い描くような平凡な方法で一から順に描くということに、ほとほと飽きてしまったのだ。

 それでみんなを巻き込もうとした。はしごを外されてしまった人々(真相を解き明かしてやると息巻いていた中学生、郵便局長などを含め)には申し訳ない気持ちでいっぱいだ。しかし彼らが白い紙の上に文字で書かれた存在に過ぎないなんて事は、誰の目にも明らかなことだったはずだ。それは今これを読んでいるあなたが、一番よくわかっていることだろう。だから人が何人、どれほど残酷な方法で殺されようとも大した問題ではない。だってこれは小説だから。ただの小説なんだ。あの若いセンセイの断末魔の叫びを、どうにか本気では取らないでほしい。

 実際に起こった出来事にどれほどの手を加え、どれほどの想像力を注ぎ込んで接ぎ木を行ったかは明らかにしない方がいいだろう。しかしこれだけははっきりと言える。

 これまで語ってきたことはすべて本当にあったことだが、真実は誰の目にも触れることがない。真実を解き明かそうと探偵ごっこに手を出した素人達はみんな悲惨な死を遂げた。探偵なんて死ねばいい。探偵なんて死ねばいいんだ。



 私は彼らにはとっとと死んでもらいたかったが、どうにかそんな希望に添うような形で物語を終えることができたわけだ。





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