第16(下)・17・18章 <次回最終回>

16(続き)

 私は首を振る、私は横を見る、私は手足を絶え間なく動かしながら、私はこの沼地に集まっていた町の連中を、あいつらの姿を確認する、何とかあいつらにも賢く振る舞ってもらわないと、まあ人死にが出るのは避けられないだろうが、あまりにもそれが多いと私の責任問題になる、まあ一人や二人、一人や二人ならそれをまた番組の特集で煽り立てることもできるだろう、だが今はそんなことを考えていられるような余裕はない、

 何てことだ、何でこんなことになる、何でこんなことになる! こんなことなら町の連中なんかに構わなければよかった、首を振って確認なんかしなきゃよかったんだ、汗みどろになって走る私の真横に広がる沼地、その中央にできた島のような一角に大きな肉の塊が、大きな肉の塊がべろんと一枚横たわっている、あの肉の塊も汗をかいているのか、それとも真っ赤な汗をかいているのか、赤い肉の塊、茶色い肉の塊、肌色の肉の塊、青や黄の原色の色彩がきらきらと光る肉の塊は、いくつもいくつも積み重ねられ、巨大な一枚の塊になって、町の連中の、さっきまであんなに正義感に燃えて叫んだり拳を振り上げたりしていたあの町の連中が―男も女も、老いも若きも、子供さえも―物言わぬ死体になって、べろんと横たわった大きな肉の塊になって、泥にまみれている、ところどころひどく変色している、何が起こったのか、そんなこと疑問に思う余裕だってない、どうせあいつらが手を下したんだ、みんなの腕を引きちぎり、足を引きちぎり、胴体に開いた穴から内臓を引きずり出して、頭を潰して沼地の、円状に巧みに形成されたこの世の場所とは思えないその沼地に、積み上げていったんだ、そしてひとつの肉の塊のようになった、そうに決まっている、そんな光景を見ても私はまだ走り続けなければならないのか、私はこの手足をなおもちぎれんばかりに動かさなければならないのか、みんな死んだ、とにかくみんな死んでしまったんだ、私はあいつらのようになるわけにはいかない、私は犠牲者にはならない、少なくとも大勢いる犠牲者の内の一人には絶対にならない、だから走り続けなければならない、あいつらはもう死んだ、もしかしたら次は私の番かもしれない、この沼地に集まってきた善良な町の人々を襲った冷酷極まりない超常的存在が、彼らの次はこの私に狙いを定めているかもしれない、そうなるとうかうかしてはいられない、うかうかしてはいられない、

 ひええぇという情けない声が背後でする、あのチンピラども、役に立たない青年団の連中どもが一斉にあの家から飛びだしてきたんだ、多分そいつらの顔は血に濡れている、手足も、どろどろのリンパ液や脳漿の滓で濡れているだろう、たぶん目の前でみんなの頼りになる「先輩」がずたずたに引き裂かれて、鶏の唐揚げみたいにじゅーじゅーと蒸気をけたたましく噴出しながら泡を吹いて死んでいったんだろう、誤作動を起こしてオーバーヒートした機械仕掛けの大きな鳥みたいに、ギリギリギリギリギリギリと苦悶の断末魔を空気中に吐き散らかしながら「先輩」は死んだ、あんなにカリスマ性や人望があってみんなを引っ張っていた唯一無二の人が、あんなに気持ちが悪くてグロテスクで、情けない死に様を演じることしかできないなんて! あいつらが怖がるのも無理はない、あいつらが怖がるのも無理はないさ、

 「助けてぇッ! 助けてえェッ!!」

 「ユルシテッェ! ユルシテッェ! お願ァアイッアアアアアーッ!!!!!」

 うるせえぞお前らピーピーピーピー!! お前ら鉈だのバットだの武器はたくさん持ってるんだからちょっとは私の役にでもたったらどうなんだ!

 「先輩」の死に様は想像するとちょっとばかみたいで思わず笑ってしまう、だがお前らは勇敢に戦い、英雄として猛々しく死んでいくことができるはずだ、ここで勇気を出して反撃できないでどうする、目にもの見せてやれないでどうするんだ、お前らの底力、精神力を今こそ見せてやるんだ!

 「くそッ!! 男の子を、かわいい男の子を殺しやがってえぇッ!! ゆるさねええええええええええええェッ!!!」

 青年団の中で最も血気盛んで通っていたゲンちゃんがスコップを片手に持って、勇猛果敢にあの家へと舞い戻っていく、それは最期の彼の姿、最期の彼の後ろ姿、ゲンちゃんはその家の軒先までたどり着かないうちに、どろどろとした沼地の水に足を取られて転び、そのままミキサーの中に体を突っ込まれたかのようにがりがりとかき混ぜられる、ゲンちゃんが危ないとさらに二人ばかりが救出に向う、しかし私の頭の中でぐるぐると回るがりがりという音は、めらめらと復讐の炎を燃やしながらひたひたと追いかけてくる、ぱたぱたという足音、視界がふらふらする、後ろを振り向いてはいけない、そんなことは十分承知だ、だから私は振り向かない、しかしそこで何が起こっているのか、私の走っている位置から50メートルと離れていないような場所で何が起こっているのか、私にはすべてわかる、手に取るように、半ば強制的にその映像を見せつけられる、ゲンちゃんはこうやって死ぬために生まれてきた、ゲンちゃんはこうやって死ぬために生まれてきた、歓呼の渦が私の耳の穴の中のさらに中のそのまた奥の奥の奥の方で、電動ドリルのようにぐるぐると回る、ゲンちゃんの体が、そして助けに向かった若い男達の体が、がちゃがちゃと目まぐるしい渦巻きの中でどんどん肉をこそぎ取られていき、骨についた赤い肉、白い骨について赤い肉、そして黄ばんだ神経線維をがちゃがちゃと徐々にこそげ取られていき、頭蓋が割れる、頭蓋が割れて中のものが容赦なく沼地に吐き出される、ぱっくりと開いたその割れ目をあわてて抑えようとするがもう間に合わない、そして男達の体がばらばらになっていく、そしてその遥か先を逃げていた他の連中の集まりも、恐慌と混乱の中でばらばらになっていく、それぞれがそれぞれの死を、彼ら一人だけで受け入れようとする、頭を振りながら逃げる一人の男の腹に沼地の水がかかる、衝撃が発生し、男の腹ははじける、パンッと音を立てて、男の腹がはじける、

ああああああ、あああああああ、あああああああぁぁぁぁぁぁッ!!!!!! 

 自分の声が、自分の声が聞こえる、こんなにはっきりと、こんなに明瞭に聞こえるなんて、そして私は何故か叫んでいる、何をしようとするでもなく、両耳を塞ぎ、両眼を塞いで、声の限り叫んでいる、まるで自分のものではない、どこか他の場所でどこの馬の骨とも知れないような奴が発しているやかましい叫び声、



17

 狂乱が狂乱を呼び、恐怖が恐怖を喚起し、彼らは瞬く間にちりぢりばらばらになった。さっきまでの一体感やお祭り気分がどこへ行ってしまったのかはわからないが、とにかく何か彼らの身に重大な事柄が起こったらしい。ある者は体を痙攣させながら泥の中に倒れ、ある者は星空を仰ぎながら「助けて、助けて」とただひたすらつぶやくばかりだ。集団ヒステリーにしてはあまりにも状況が混沌としすぎているようにも感じられる。

 彼がどのような感情を抱き、どのような恐怖を抱き、どのように振る舞っていたかはこの際どうでもいいことかもしれない。行われなければならないのは、“結局は何が起こったのか”ということを観察し、分析し、解説を交えつつ報告することだけだ。さっきからどす黒い叫び声を夜の沼地に吐き出しているこの男―東京からやって来た自称報道人―は両耳に手のひらをかたく押しつけ、必死になって眼をつぶっている。もう何も見たくなんかない、真実なんてどうでもいい、ただ俺はこの沼地から、いやこの町そのものから逃げ出したいんだという感情が、その表情からこれでもかというほど伝わってくる。苦悶にもだえながら泥の海をばしゃばしゃと渡っていく彼は、もうこの沼地から生きて生還することはないだろう。流れは確実に彼めがけてその進行方向を指し示していたからだ。

 チンピラや青年団の連中は彼らが持っていた武器を、パニックの中で沼地のどこかへ放って忘れてしまっていた。クワ、鎌、金属バット、包丁、ナイフ、カッターといった銀色にきらきら光る連中が、恐れをなして逃げ出そうとする男達の手から抜け出て沼地の中へ一時的に潜伏したのだった。

 (恐怖に囚われた彼らは気づいていなかったが)その沼地には確かに泥流が発生し始めていた。岸に沿って走り、渦を巻き、対角線上に伸びていくその流れは次第にその沼地全体を包み、端から端へぐるぐると回り始める。男が聞いたあの物音はこの沼地の水の中から発せられたものだった。そしてそれは太平洋を横断し、大西洋を縦断する超大型の海流のようにたおやかにひとつひとつの凶器を流れに乗せて回収していった。それは蛇のようでもあり、スモッグで汚れてしまった空を走る星雲の波のようでもあった。そしてその流れが行き着く先にはあの自らの身の破滅を引き起こした愚かな男が、プールで足をばたつかせて遊び子供のように声を上げて騒いでいる。

 天と地が逆転したかのようだった。沼地の水は打って変わって妙に透き通り、天空に光る星々を反射して第二の夜空のごとく広がっていた。そんな美しい光景も知ったことかとばかりに男は、叫び声の次は呻き声を上げ、ずぶずぶと知らず知らずに深みへとはまっていく。そして男を追いかけるように町の青年団やチンピラ連中、生き残った数少ない町民が4、5人、ぐぐぐぐぐと硬い泥をかき分けるようにして必死になって沼へ入っていく。それは集団で入水自殺を敢行しているかのような、宗教的な情熱すらも感じさせる異様な光景だった。夜の闇の中、人間の形をしたレミングの群れがその生存本能から次々と水の中へ飛び込んでいく。その水の中には彼らを誘う光源があったのかもしれない。青色の遊星がぼんやりとゼリーのような閃光で人々の顔を照らし出している。

 「アカネ! アカネ!」

と男は叫ぶ。しかし彼は女にもう一目会いたいと思って思わず声を上げたわけではなく、いまわの際で感情的な愁嘆場をもう一度演じることで女を巻き添えにしようとしたに過ぎなかった。アカネ! 俺はお前を愛している、お前を愛しているんだ! お前は俺が絶対に守るッ! 俺が絶対に……!

 男の両手が水面をかき、次いで沈んでいく。ぶくぶくと肺臓から空気が漏れる音。どうしようもない運命に身を任せるしかない男は、とてつもない崖っぷちで彼女を自分の地獄に引きずり込もうとしたことを後悔などしない。男は物事について後悔するだけの神経も、分別も持ち合わせてはいなかったのだ。水中を泳ぎ始めるネズミの群れを眼下に眺めながら、彼の女はこの世とあの世の境目で自らの悲惨な人生を思い、ひっそりと涙を流した。

 ゴゴゴッという重苦しい音が響き渡り、遠くなりかけていた男の意識を再び目覚めさせた。泥流が、泥流が男のほうへ向かってくる。確実に男のほうへ向かってくる。近づいてくる運命、恐怖を呼び起こす水中の震動、そして濁った渦の先端部分が勢いよく男の体を突き抜け、その場に釘付けにした。男の後を追って訳の分からないまま沼へ入ってきた町民達も同じくその場に釘付けにされ、もはや手足を動かすことすらもできなかった。そしてその後にやってくるものは明らかだった。彼らがこの沼地のどこかで手放してしまった数々の凶器が、牙をむきだした小動物のように彼らに向かって高速で突っ込んできたのである。もはや沼地とその向こうに広がる大洋とは隔てるものがなくなり、茫漠とした海のすべての重みが大きな流れとなってナイフを振るっていた。

 沼地の巨大な水槽を満たす黒々とした墨に、バッと鮮やかな血がいくつも滲み、先を争うようにして端から濁っていった。夜闇の中で点滅する赤色灯の幕の隙間に、7、8体の人体が水流でくるくると回転しながら底に沈んだり、逆に水面へと急浮上したりしている。まだ彼らは意識があり、両手足を何とか動かして泳ぎ出さなければと必死の形相をしているが、胸や腹、足などの至る所に食い込んだ彼ら自身の武器―先の丸まった金属バットですらも容易に彼らの肉体を突き抜けることができた―の痛みで失神寸前にまで追い込まれているのだ。体の中を縦横無尽に走る血管、その至る所の断面から彼らの生命を司る真っ赤な血が、酸素を含んだ血が、どろどろと沼地の水の中へ流れ出していき、その代わりに溶けたチョコレートのように粘ついた泥水が大量の水草の欠片とともに容赦なく侵入してくる。細胞の最後のひとつにまで泥水が浸透していった時、彼らの世界がすべて腐ったように変色し、再び太陽の光を垣間見ることなどないのだと彼らは直感的に理解する。撹乱、人生の撹乱、思考の混乱、無慈悲なテロ攻撃が彼らの頭上から降り注ぎ、彼らは溺れ、人生の端から端へとひとっ飛びし、ぐるりと旋回し、何が何やら自分達でもよくわからないうちに死の谷底へと叩き落とされてしまう。それは不可避の運命であり、ひょっとしたら避けられたかも知れない末路であり、どうしようもないほど大きい不可視の力によって導かれた帰結だった。その帰結ははなから理解不能で、他罰的で、気まぐれで、私達の精神をかき乱すほかに能がない。

 彼らの死体がばらばらにほどけ、びちゃびちゃに濡れた繊維状の塊になり、ゆっくりと沼の底へと沈んでいく。



18

 彼女はどこへ行ってしまったのだろう。あの“悪魔の棲む家”に潜伏していた二人は、一体どこで何をしているのだろうか。町の人々はこの出来事をどのように処理し、どのようにけりをつけたのだろう。町の人々は果たしてことの真相までたどり着けたのだろうか。そしてこの出来事の裏に、“真相”なんて大仰な言葉で表現するようなものがはたして隠れていたのだろうか、もしくは全くそんなものは隠れていなかったのだろうか。

 この町へやって来たあの素性の知れない若者二人は、私達の知らない間に煙のように姿を消した。結局沼地へと行かなかったがために命を取り留めた町民達は、もうそれ以上あの中学生と郵便局長の殺害を使って探偵ごっこをやろうとは思わなかった。沼地で一夜のうちに多くの人々が死亡したあの“事故”に関しても、その日の午前から吹いていた強風と、月が雲に遮られたことによる視界不良、そして沼地の周囲を囲む柵や街灯の類いが全く設置されていなかったという行政上の不手際にすべての責任が帰された。町長(とその後釜に据えられた何も知らない新町長)が辞職することによって町の人々は、何となくこの事件にも一区切りがついたかのような気分になって、再び日々の話題を町の外(主にテレビやネットの世界)に求めるようになっていった。要するに何かが起きるようで何も起こらず、何かが起こっていたに違いないのに誰も何も知らず、何かが起こらなければならないのに皆が何もしなかった、ということだ。そして無意識にでも忘れ去ろうとなどこれっぽちも思っていなかったのにも関わらず、町の人間は一人残らずこの事件について一ヶ月もしないうちにきれいさっぱり意識の中から外へ追いやってしまった。忘れてしまったというよりも、まさしく“絶妙な具合に”すべてがどうでもよくなってしまったというのが正しい表現かもしれない。

 こういうことはこの日本ではよくある話だ。




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