第14・15・16(上)章
14
男達がぞろぞろと家の中へと入っていく。彼らはこの後彼らを待ち受けていることをまだ知らない。しかし少し考えればわかりそうなものだ。激情とサディスティックな発作に引きずられて起こした行動は、彼らにとって致命的な結果を招くということを、少しばかり冷静になって想像してみるべきだったのだ。
半ば腐った茶色の床板がぎいぎいと鳴る。ここは寝室だろうか、それとも居間か何かだろうか。レンジもコンロも置かれていないので、台所でないことくらいはかろうじてわかる。いや、そもそも彼らはそんな文明的なものを満足に持っているのだろうか。こんなボロ家に、他の家に当たり前にあるようなもののひとつでも、発見することができるだろうか。
瞬く間にその小さな部屋は血気盛んな男達によって一杯になってしまった。悪臭が辺り一面に漂う。この時点で部屋に火でもまかれてしまっていたなら、ひとたまりもないことだろう。
その不安が鼻をつき、自称報道人の男が荒い息で廊下につながる扉を開けた。廊下にも誰もいない。あの家の中で右へ左へ動いていた人影は、一体何だったのだろう。もしかすると我々は悪い冗談でもひっかけられているんじゃないだろうか、ひょっとしたらこの家の連中は俺達をからかって楽しんでいやがるんじゃないか、そんな疑心が彼らの胸に去来する。いや、この家には今は誰もいないような感じだ。こんな小さな家に人がいるかいないかくらい、廊下をちょっと覗きでもすればわかるもんだ!
iPhoneを持った左手がぷるぷると震える。その振動で画面は容赦なくぶれ、映像はもはや使い物にならなくなる。気ばかり焦ってしまい、次にするべきことに取りかかれない。大きな声を出して呼びかけるべきか、それとも相手が家の中にいないと結論づけてしまって家の中のレポートへと切り替えるか。徐々に男達の表情は怒りに満ちたもの、自信に満ちたものから、不安に囚われたもの、何か得体の知れないものに襲われる寸前の犠牲者の顔へと変化していった。これから一体何が起るのだろう。もしかしたら家の中にまでずかずかと踏み込んできたのは、取り返しのつかない失策だったのかもしれない。しかしこれで何の素材も撮れなかったということになれば、男は無力感と挫折感に苛まれることになるだろう。
「おいっ! いねえのか、出て来いよ!」
青年団の一人が獣のような怒声を、目の前の誰もいない空間に浴びせかける。本当に困ったことになったと自称報道人は思った。ここで大声なんて出されたら、ただでさえ使いづらい今回の映像がさらに使いどころのない代物になってしまう。そんなもの、彼にとってはそこらの動画共有サイトに転がっている処刑ビデオよりよっぽどたちが悪い。しかし青年団やチンピラ達が感じている不安は、彼もまた共有しているのだ。踏み込んだはいいが、連中はここにはいないみたいだ。こりゃとっとと外に出て、また出直しでもした方がいいんじゃねえのか。こういう呼びかけに、そうだそうだと柄の悪い声が応じた。
ちょっと待ってくれ。私は絶対に、絶対に取材を成功させる。こんなこと今までになかった。今回だって成功するはずさ。もうちょっと私についてきてくれ。頼む。こんなこと今までに一度だってなかったんだから。
その通り、こんなこと彼の身に起ったことは一度もない。彼が行くところ、そこには常に糾弾すべき容疑者がいたし、突撃取材を何としてでも敢行すべき犠牲者や被害者家族が常にいた。しかしそれは彼が警察などの公的な機関や他社の動向からそれなりの情報を受け取っていた限りの話だった。一人きりになると彼は無力だった。自分を守ってくれる局の“鎧”を脱ぎ捨ててしまうと彼は無力だった。
何とかしなければならない。そのためには自分を無意識のうちに抑えつけている制御機構を、何とか振り払ってしまわなければならない。不安、恐怖、逡巡、そうした弱さを振り払い、プロフェッショナルとして覚悟を決めて障壁に向って行かなければ、望むものを得ることはできないのだ。確かに連中はここにはいないかもしれない。しかしそれでは彼はただのばかだ。突入し、少しばかり探してみて、奴らはいない、だからすごすごと引き下がる、あんなに煽り立てたのに! 集会まで開いてもらって、大勢人を呼んだのに! ここまで来て何にもありませんでしたなんて、とてもじゃないがあってはならない。そんなこと、絶対にあってはならないのだ。
あってはならないんだったら、何としてでも作ってやれ。
自称報道人は意を決した。
彼は部屋の中へどたどたと戻っていき、破られた窓から外を見て女の姿を探すだろう。女は沼地のただ中でうようよしている人混みから少し離れたところに、苦痛に顔を歪ませながらおずおずと立っているはずだ。男は女の姿を見つけ、大声で怒鳴りつける。おおーい! こっち来い! ちょっとこっち来いって! 女は男のいる家の側まで怯えながら歩いてくるが、男には彼女の歩みがあまりにも遅く、いたずらに時間を稼ごうとしているようにも感じられるだろう。そしてそれが神経に障るはずだ。しかしいつものように髪の毛を掴んで振り回すわけにもいかず、苛々する気持ちを仕事にストイックな男の寡黙な表情で必死に押さえ込み、女を傍らに呼び寄せて小声で示し合わせようとする。いいか、お前はみんなに気づかれないように裏手から家の中へ入れ。それで一番奥の部屋の中から出てきて、みんなの前で俺と一悶着起こす芝居をしてくれればいい、やらせなんかじゃない、こんなことどこの局だって大なり小なりやってることだ、ちょっとばかり面白おかしく演出するだけのことじゃないか、だからこういう時くらい私を失望させないでくれ。な? いいだろう?
女は家の裏手へと向かい、男の前からすごすごと姿を消す。再び状況は彼の思うとおりに動き始めている。どうせやらせがばれたところで、世間様はそう長いことそれを覚えているほど頭がいいわけじゃない。自分を信じてさえいれば、すべてが上手く行くだろう。あとはあいつがいい具合に演技して、それなりに迫力のある映像を撮影することができれば大丈夫だ。あいつはうまくこの家に棲む女を演じられるだろうか。もし失敗したら、あいつの部屋へ帰った後で腹を蹴り飛ばして、朝までぶっ続けで怒鳴り倒してやる。そして泣きながら床にひれ伏すあいつの姿を動画で思う存分撮影してやるんだ。
この後女を如何にいたぶってやろうかという妄想。男の頭の中に怖ろしい速度で満ち、霧のように視界を這いずり回って思考能力を奪う。それは怖ろしい無意識の力であり、人としての尊厳をかなぐり捨てたこの男の必然とも言える末路だった。
そんな男が来たるべき成功と至福に身をよじらせながら再び廊下に出て、紅潮した顔をふらふらと揺らして家の奥まで進んでいく。周りの人間は彼の異変には気づかず、これから彼があまりにも大それた真似を(今のこの状況もずいぶんと私達の常識を超えてしまったものだが)しようとしていることに思いもよらない様子だ。無論、男の言ったように彼らはもはやひとつの運命共同体と言える。それだけは確実だ。俺達はだまされたんだ、あいつは自分の特ダネのために俺達を利用して、俺達にあんなむごいことをするよう仕向けたんだ、俺達はだまされたんだよ、といくら言ったところで、そんな弁解には何の説得力もない。
奥の部屋で物音がする。男の助手が裏手から部屋へ侵入し、あたかもこの家の住人であるかのように動き回っていることなど誰も知らない。いや、みんな心の中ではわかっているが口には出さないだけなのかもしれない。彼らの目的はいまやあやふやだった。結局この町で何が起こっていて、その結果誰が何をしなくてはいけないのかも漠然とした感覚の内に、霧となって蒸発してしまったかのようだった。彼らは熱に浮かされ、彼らを待ち受ける快楽の予感だけを頼りに行動していた。彼らは日頃の鬱憤を発散しようとしていた。彼らにとってはその扉の向こうにいるのがこの家に棲んでいる女なのか、果たしてこの家の住人が凄惨な殺人事件を犯したという確証があるのか、そもそもこんな解決策をとることが許されるのか、といったような事柄は何とも些末で、一から十までどうでもよかった。彼らは溜まったストレスを解消し、何でもいいから手頃な正義感にすがりついて自尊心を満足させるためだけに、ここにこうして集まり、獣のように唸り声を上げ、後先も考えずに金属バットやら鉈やらといった物騒な品々を振り回している。
女が扉に向かってくる。もうすぐこの扉は開かれ、男と女が一触即発の状態となるだろう。しかしこの場合の“女”とは一体どちらの“女”のことを指すのだろう。閉ざされた扉の向こうには、一体どちらの“女”がいたのだろう。報道記者である男に日々虐げられ、ただ彼の言うことに従うしかなかった一人の女か。それとも、すべての引き金を引き、裏から手を引いてこの田舎町を混乱の渦の中へと陥れ、人々の毒々しく染まった精神を白日の下にさらしたもう一人の女か。
扉がぎいと音を立てて開こうとする。三分の一も開かないうちに、男はその隙間にiPhoneを突っ込みながら体を扉に押しつけ、完全に開いてしまないように押さえにかかった。部屋の中にいるのが彼の助手だということがおおっぴらになれば、せっかく盛り上がった人々の意気が挫かれてしまう。
「ちょっと! 取材をお願いします! お話だけでも、聞かせてくださいよおッ!!」
経験の浅い劇団員が感情過多の声を張り上げるように、男はつばを飛ばしながら喚き散らした。ここからは渾身の演技を披露しなければならない。相手との感情の壁をつくり、いつものような無神経さを前面に出して、展開を盛り上げるのだ。
すべてが変わったのはこの瞬間だった。まさかこんな風に何もかもが変貌してしまうとは、刺激的な展開を追い求める彼であっても予想しなかったに違いない。彼はその変貌に恐怖し、身を切られるような不安感に襲われて扉からその身を引きはがした。彼は取材を続けたいと思った。しかしこれ以上何事もないような顔をして動画を撮り続けるのは、彼の身の破滅になるかもしれないと(驚くべきことながら、その時初めて)肌で実感した。
扉の向こうにいるのはアカネという名前の女ではない。ぐぐぐぐぐぐというくぐもった呻き声が聞こえるが、どうも私達が部屋で聞いていたような彼女の声とは違う。がりがりと扉を引っかく音。絶え間なく響いてくる振動。体を打ちつけているんだろうか。片手に握っているiPhoneが何を記録しているのか、想像しただけで悪寒が彼の背中一面に広がり、もはや耐えられなくなった。今度は全身の力を使って扉を押さえにかかる。がしがしという、部屋の内部から何かを叩きつけるような音が漏れ出し、家中に瞬く間に広がっていく。チンピラや青年団の連中も何か様子がおかしいと言うことに気づき、ある者は顔を紅潮させて鉈を構え直し、ある者は口もとを引きつらせながら後ずさったが、男が扉を押さえるのを手伝おうとする者はいなかった。
ぐぐぐぐぐぐという呻き声は女の発するもののようでもあるし、男の発するもののようでもあった。あいつらはじっと身を潜めていて、侵入者を思う存分威嚇することができるような好機(例えばこのように狭い廊下のスペースに押し込まれて、半ば身動きが取れなくなったような場合)をうかがっていたのだろうか。とすると、もうアカネは冷酷で狡猾なあいつらの捕虜になってしまっているのだろうか。殴られて昏倒したか、椅子か何かに縛られて猿ぐつわでも噛まされているのだろうか。彼は彼女を助けに行かなければならないだろうか。
知ったことかッ、と自称報道人の男は心の底から思った。
15
(とあるテレビ局員の取材ノートの、最終ページに残されていた文章
明らかにノートの持ち主の筆跡とは異なる)
ぼくにはおじいちゃんもおばあちゃんもいないよ
知ったことじゃないからね
ぼくにはお父さんもお母さんもいないよ
知ったことじゃないからね
ぼくは中学生だけど、幼稚園児みたいなことばをしゃべるよ
そういうふうにきょういくされてきたからね
みんなはぼくがこんな風にしかしゃべれないと思ってる
おとなが思うこどもってのはたいていそうなんだ
だけどぼくが言うのもなんだけど
こどもっていうのはじっさい あたまがわるい
おとなに負けないくらい あたまがわるいのさ
そしてとっても わるい心をもっている
こどもがじゅんすいなこころをもっているってのは うそだね
だからおとなもこどもも みんなじごく行きさ
みんな死ななくちゃいけないんだ
そしてみんなじごくに行かなくちゃいけない
もしぼくがしょうせつを書くんだったら
でてくるひとたちをみんなころして
みんなじごく行きにしちゃうからね
言ったはずだよ
すこしアンフェアだって
だから いいやつも わるいやつも
みんなひっくるめて
じごく行きにしてやるんだ
だれにも なんにも 言わせないさ
だれも 生きては かえしちゃいけないよ
ぜったいに ぜったいにね
16
何てこった。こんなことになってしまうなんて。まったく想像していなかった。こんなこと、自分の身に実際に起こるだなんて誰が考えるだろう。
とにかく私はこの場から脱出しなくてはならない。扉の蝶番がはじけ飛ぶ音、そしてチンピラどもの呻き声、どたどたと足を踏みならす音、だけど私はこいつらには構っていられない、あとは自分で何とかしてもらうしかない、金をもらってやっているに違いないのだから、私はこれまでああいう連中にとんでもない額の金を払ってきたのだから、私は一番に逃げ出さなくてはならない、私は日本の報道界を担う人材なのだから、私は日本の報道界、テレビ界を担っていくジャーナリストなのだから、こんなチンピラ連中と一緒にされては困る、おい! 私の通るスペースを空けろ! まごまごするんじゃない! おいそらそこを通すんだ! 私は脱兎のごとく、脱兎のごとく、その悪魔が棲む呪われた家から脱出する、逃げ出す、転がり出る、あいつらはまごまごしている、ぼやぼやしている、鉈だのなんだのを振り回しながらそこにいつまでも留まっている、私は振り返らない、あの家からだけじゃない、この沼地から、この世のものとは思えない臭気を放つ黒々としてどろどろとした沼地から、逃げ出さなくちゃいけないんだ、おいチンピラ、チンピラ、チンピラ、チンピラ! あいつらが、あいつらが何とかダムみたいに、ダムみたいに、あの化物どもをせき止めておいてくれるはずだ、そして私がこの沼地から脱出する時間を稼いでくれるだろう、ちょっとは役に立ってくれなくちゃ困る、役に立ってくれなくちゃ困るんだ、ここは態勢を立て直さないと、何とかこの状況を何とかしなくちゃいけない、ただもう私はあの家には戻れない、この沼地にも戻れない、これだけは確実だ、何故かというと私はさっきはっきりと感じたんだ、どういう了見かは知らないが、あいつらは私を殺す、私を殺すと、直接口に出して言ってきたわけじゃない、声に出して言ってきたわけじゃない、そうじゃないんだが、私はあの時確かに感じた、理由は聞かないでくれ、どうか聞かないでくれ、ただ感じたんだ、あいつらは私を殺そうとしている、あいつらは確実に人間ではない、あいつらは日本人じゃない、日本人じゃない、日本人じゃなかったら真っ当な人間じゃない、日本人じゃなかったら真っ当な人間じゃない、いやそんな当たり前の話じゃない、あいつらはどこか別の世界、別の宇宙からやって来た人殺し、超次元の人殺しのようなもの、私達には理解が及ばない、冷酷で、生まれながらにして血まみれで、どうしようもなく怖ろしい連中、そいつらが私を殺そうとしている、私を殺そうとしている、この私に、危害を加えようとしている、
はやく逃げなくちゃいけない、本当ならみんなほっといて私だけでも一目散にこの沼地から逃げ出すべきなんだ(私には日本の報道界を担う選ばれた人材としての責任がある、責任があるんだ)、ただひとつだけ忘れてはいけないことがある、足がもつれるが私は冷静に思考している、合理的に思考しているんだ、そしてその合理的な思考から忘れてはいけないことを絞り出して、喚起して、歓喜して、換気して、かんきかんきかんきかんきかんきかんきして、乾固しなければならない、泥と土が、乾固しなくてはならない、責任問題になっては困る、責任問題になってしまっては泥と土が私の顔についてしまって、再起不能になってしまう、再起不能になってしまう、再起不能できなくなってしまうから、私のこの冷静沈着な合理的思考で、その当然の帰結として、急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げ急げいそげいそげいそげいそげいそげ、私は叫ぶ、
みんなも逃げろお! みんなも逃げるんだァッ!!
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