第12・13章

12

 僕はここにいる人々は冷静さを完全に失っていると思う。目をむいて怒鳴りたてている男達や女達の中でひとり沈黙を保っているということが、どれほどまでに恐怖感と孤立感を生み出すか、知っている人は知っているはずだ。

 それにしてもあの壇上に立ってさっきまで軽快な調子で演説していた、あの男は誰だろう。どこかで見たような気もするが、どうも思い出せない。しかし彼は自分のことを報道番組の関係者だと言っていて、その番組名はこの田舎町でも知らない人はいないくらいの有名な番組だった。そうだ、みんなその番組の名前が出た途端にがらりと態度を変え、俺にインタビューしろ、私に説明させて、と血眼になってがなりはじめたのだ。

 そして今夜行われるはずの集団リンチの準備が整った。

 はじめは集団リンチなんか誰も考えてはいなかった。それは壇上でみんなに根拠のない考えを吹き込んで煽り立てたあの男も、おそらくはそうだっただろう。彼がやりたかったことは純粋な取材であって、要するに町の住民に情報提供を呼びかけるとても単純な町民集会のはずだったのだろう。しかし彼によって“事実”を知り、何かをしなければならない、次の犠牲者が出る前にどうにかして動き出さなくてはならないと説得されてしまった町民達は、次第にそのよこしまで暴力的な感情のうねりでもってこの公民館の空気をかき回し始めたのだ。おい聞いたかお前ら、あの町外れに棲んでるろくでもねえ若造達が殺したんだとよ、あんなかわいい男の子だったのに、あんな素晴らしい人だったのに、殺されちまったんだあいつらに、確かに証拠があるわけじゃない、だけど早く動き出さないと次の犠牲者が絶対に出る、その前に何とかしなくちゃいけない、じゃあ何をしたらいいんだ、決まってる、当たり前のことさ! あいつらをぼこぼこにして、警察に突きだしてやるんだ! いや警察に突きだしたって何になるんだ、結局警察は今のところ動いていないみたいだし、どうせ証拠不十分で釈放されちまうのがおちさ、そんな、そんな、じゃあこの町は危険なままじゃないか、一体どうすればいいんだ、どうすればいいんだい、あの人でなし連中相手に、私達はどうやって元気な子供達を守っていけばいいんだい!

 手はあります、手はあるんです、と男が壇上で無意識に揉手をしながら言った。私達は報道の人間です、私達は常に正義の側に立ち、一般庶民の味方として日夜取材に勤しんでいるんです、もしかしたら警察は当てにならないかもしれない、しかし私達ならあなたがたの力になってあげることができます、みなさんのご意見をお聞かせください、みなさんにどんな小さなことでもよろしいので情報をご提供いただきたい、私達はそれを電波の力で日本全国に知らしめます、そうすれば警察だって本腰を入れて動かざるをえなくなるでしょうし、社会的な罰だって与えることができます、私の隣にいるこの女性を見てください、この人はアカネさんといって、駅の近くで食堂をやっておられる、みなさんもよく知っている女性です、アカネさんは私の大切なパートナーですが、彼女もこの町で彼らが起こした残虐な事件には胸を痛め、子供達の安全を心配しています、この女性のやつれてしまった顔を見てください、私達はこんなことをもう二度と起こしてはならないのです、そのためにみなさんどうかご協力ください、私は一報道人として動き始めようと思っています、ですからみなさんもぜひご協力をお願います、今夜8時から私はあの沼地で再び、彼らへの突撃取材を敢行したいと思います、その時にみなさんのインタビューも同時に撮らせていただく予定になっております、ぜひあの容疑者達の不気味な家を真摯な面持ちで見つめるみなさんの横顔の素材を下さい、私達は本当に胸を痛めています、テレビの前の多くの視聴者も胸を痛めることでしょう、日本中の人々が許せないと思うはずです、ですからみなさん、あの沼地で今夜、みなさんのつらい心の内、感情をさらけ出してください、私達に見せてください、そうすれば何かが起こるはずです、神様は私達に微笑むはずです、お願いします、みなさん、私の番組にどうか力を貸してください、みなさん、どうか……。

 僕は男の考えが変化していくのを、まるで私の手の内にあるかのようにまざまざと観察することができた。あの男の狙いを理解するのは簡単なことだった。中学生の頃、トイレであいつとその手下どもに襲われた僕は個室に押し込められてモップの柄で小突き回され、頭を無理矢理便器に押しつけられてその中の汚水で顔を洗わされた。それがそこから半年にわたる絶えざる暴力の始まりだったわけだが、僕を壁に押しつけて腹部を殴りつけてきた中学時代の彼も、はじめはグループ内で威勢を張るためにたまたまその場にいた僕を手っ取り早く道具として使おうとしか思っていなかったに違いないのだ。しかし周りの同級生に囃されて徐々に気持ちが大胆になってきた彼は、次第にカッターやバットを休み時間に校舎へ持ち込んでこの僕を長時間難詰するようになった。奴は結局周りの人間の反応に踊らされ、空気を読みすぎて勢いがつきすぎてしまうばかみたいな藁人形にすぎない。あれから二十年ほどの歳月が流れたが、奴はやはりまだ変わってはいないようだった。

 大人の社会は子供の学校生活は違うんだと多くの人は言う。しかし良心のかけらもなく、周りの人間の評価ばかりを優先して身の振り方を決めるような、そんな心の底から邪悪に染まったような奴が信頼や人望、名声を勝ち得ていくという点では、全く変わるところがない。私は自分の担当するクラスだけはそんなことにならないように、自分なりに努力してきたつもりだ。あんな奴には僕はだまされない。

 僕はその広いのか狭いのかよくわからない公民館のホールの中で、怒りに燃える人々の群れに揉まれて台風の目のようになっていた。人々はいきり立ち、冷静さをなくし、事態が自分に都合のよい風に流れていると感じた壇上の男に体よく利用され、奴の子飼いに成り果てておんぼろのエンジンのように轟音を辺り構わずまき散らしている。

 やるぞ! 俺はやるぞ! 私も、私もやってやる! 正義の力を、見せつけるんだ! 何とかしなくちゃあ! どうにかしないと! 自分達で動かなくちゃだめだ! みんなでひとつになって、立ち向かわないと!

 男はまさに救世主だ。東京(田舎の人間にとっては反感を持つべき土地であると同時に、あこがれさえ抱いてしまう土地でもある)からやって来たテレビ業界の(これにも田舎の人間は免疫がなかった、自分達のためだけに動いてくれると知った途端常軌を逸したお追従やご機嫌取りのにやにや笑いが始まる)男はまさに犯罪の恐怖に怯える人々の救世主となって、興奮した人波に押されながら壇を降り、僕のいる出口の付近までゆっくりと歩いてきた。奴は自分が受けている歓待に何の疑問も感じていなければ、罪悪感や居心地の悪さも感じてはいない。彼にとってこれは当然のことで、東京を離れて田舎の町に舞い戻ってきた人間が(錦を飾ることで)得ることができる束の間のご褒美なのだ。

 体が痺れたようになって声も上げられないでいる僕に気づいて、奴が近寄ってきた。相手が自分に反感を持っているなど、攻撃を仕掛けてくることなど絶対にない、この世界の真実は自分だけが握っているのだと根拠もなく確信している男の顔。その両眼が新たな遊び道具を見つけた歓びで歪み、頬の筋肉に冷たい血が注ぎ込まれてぷっくりと膨れる。メイクをしているわけでもないだろうが、顔中が何故かてかてかと光り輝いている。あつらえたような詐欺師の顔。近づいてはいけない男の顔。心の底まで悪意と鈍感さに満ちあふれた男の顔。

 「ああ、ダンちゃん。来てくれたんだね。」

 また、クラスみんなでたのしいことでもしようや。

 世の中には近づいてはいけない人間がいる。こいつもその一人。そんな奴のために、僕のクラスのあの子が死後もその名前を利用されようとしている。こいつとは違って、あの子は大人の言うことをよく聞く、純粋で本当にいい子供だった。僕にはわかる。つらい経験を経てきた私には本当に善良な子供、嘘をつかない清廉な子供を“判別”することができるのだ。

 あの子は仮面を被ってはいなかった。お前の思い通りになどさせたくない。



13

 こいつらがこれから何をしようとしているのか、そんなことは知ったことじゃない。そして何が起ころうと、責任など私にはひとかけらもない。もうあの騒動以来私が抱え込んできたあの気持ちと再び付き合わなければならなくなるのはごめんだし、これ以上失敗を繰り返せばキー局での出世が遠のいてしまう(最悪の場合、地方局へ飛ばされることも覚悟しなくてはならないだろう)。まあ何が起こるにせよ、カメラ映えのする、視聴率の期待できる展開になってくれればありがたい。私の独占取材。私が日本のジャーナリズム史、そしてテレビ報道史に燦然と名前を残す。その第一歩が今踏み出されようとしている。

 太陽が沈み、オレンジ色の夕暮れが灰色の夜にかき消されようとしている。私はこういう詩的で文学的な表現は大好きだ。昔は小説家を志していたこともある。テレビ局に入って執筆自体はやめてしまったが、私は今も昔も熱心に日本の小説を読み、繊細な感性を研ぎ澄ませた根っからの“文学”青年だ(芥川賞の受賞作は、毎年必ずチェックしている)。だからこそ私は熱心にシナリオの新人賞の審査員も勤めていたわけだが、その時以来の情熱を私は取り戻しつつある。そしてこの現実に居心地の悪さを覚える文学的感性を持った一人間として、私はこれからやるべきことをやっていくだけなのだろう。私は自分の感情の整理を終えつつある。すべてが思い通りに進んでいくはずだ。

 またもたもたしているアカネを怒鳴りつけてこの沼地まで引っ張ってきたが、正直こいつには出る幕がない。映像記録用のiPhoneは私が構えているし、町民達は興奮してしまって手がつけられず、とてもじゃないが構成や演出を踏まえて行動してくれるよう頼むことなどできない。要するに手がつけられないのだ。見渡すと、中に何人か農作業や山での作業で使う鎌や斧を持ってきている町民が何人かいた。何に使おうとしているのかよくわからないが、まあ彼らは彼らなりの方法で感情を吐き出そうとしているだけなのだろう。彼らは彼らの責任において、彼らがやるべきことを行う。私はそれに何ら責任など持たない。もし事態の収拾がつかなくなりちょっとばかりまずい状況になったとしても、そちらの方へはiPhoneを向けず、隙を見て沼地から離れれば今後もテレビマンとしての私に火の粉が降りかかることはないだろう。

 集まってきた町民達(二十人以上はいるだろうか)を十分ばかりただぶらぶらさせておく。これがこいつらの感情を徐々にかき立て、クライマックスに向けて状況を盛り上げていくテクニックだ。こいつらはいまかいまかと事態が動き出すのを待っており、その頭の中でははやる気持ちが風船のように徐々に大きくなっていく。めいっぱい大きくなった風船の表面を私が針先でちょっとばかし引っかいてやる。爆音、そしてエナジーの爆走。それこそが刺激的で興味深い展開というわけだ。こういうものが、真にテレビで流す価値がある面白いもの、魔術的な速さでネット空間を駆け巡り人々を突き動かしていくものに他ならない。

 ぞろぞろとゾンビのように沼地のほとりに集まってきた町民達は、ある者(主に男達)はどこか物見遊山的な興味本位とこれからかち込みをかけてやるぞという興奮を、ある者(主に女達)は冷酷な殺人者に対する恐怖と強烈な憎しみを、各々の表情に色濃く浮かび上がらせている。要するにみんな人殺しの顔をしているというわけだ。

 彼らがはやる気持ちを抑えきれなくなるだろうという頃合いを見計らって、私が群衆の中から一歩進み出る。私の眼前には哀れな人々を飲み込まんと待ち構えている邪悪な沼地の濁った水と、その先に鎮座している閻魔大王の玉座のような悪魔の家が強烈な腐臭を放っている。戦いを挑む我々は、決して途中で使命を投げ出したり、くじけてしまったりということはない。この強い意志と根性こそが、この日本という国を世界に名だたる一等国まで発展させていた土台となっていたのだ。この町民達はその意識を見事に私と共有している。みなが勇壮な決意を体全体で表現している。私は感動で目頭が熱くなるのを抑えられない。抑えられない、いや抑えてはいけないのだ。

 「みなさん、少しばかりここで待っていてください! まずこの私が彼らに独占直撃インタビューを仕掛けます。その様子をどうかこの場でご覧になっていてください。それからは如何様にも好きに行動していただいて構いません。ただし、時々少し時間を取ってみなさんにもお話をお伺いすることに、なると思います!」

 まるで映画の中のヒーローにでもなったような気分だ。周りを固めている町民達も私の呼びかけに応答して、それぞれが声を張り上げたり足を踏みならしたりする。これほどまでに気持ちがいいものになるとは思わなかった。私はこれからあの郵便局長の身にかけられた嫌疑を晴らし、真実を明らかにする。そもそも何故私はあの郵便局長にここまでシンパシーを抱くようになったのだろう。もしかしたら彼と同じ名字を持っているということが大きく影響しているのかもしれないが(私と彼はどちらもナカタという名字だ)、もちろんそれだけではない。この社会のために本当に役に立つ人間、責任感のある人間が不当にも殺人犯の汚名を着せられ、みすみす殺されてしまったのだ。こんなこと、許しておいていいわけがない。

 その感情を、私はこの町の人々とも共有していた。私は沼地を歩き出す。そうすると彼らも私に付き従うように同じく泥の中に足を踏み出すのだ。私達は一個の運命共同体であり、ひとつの目的に向って規律正しく行動しなければならない軍隊のようなものだ。私達にとって沼地のぬかるみなど何ら問題にならない。歩きにくいだの靴が汚れるだのそんなことをごちゃごちゃ言うような奴は、とっとと立ち去ればいい。家に帰ってママに甘やかせてもらっていればいいんだ。私達はそんな甘ちゃんじゃないし、ちょっとやそっとのことでへこたれるような学生気分のノリの連中とは違う。視界の端でクワや金属バットの先端が月の光を受けてきらきらと輝いている。こいつらを制御するのは想像以上に難しいかもしれない。しかし最初に私が突撃し、インタビューに応じてもらえないという展開まではどうにか持ちこたえてもらいたい。そうすればどこまでもとりつくしまのない冷酷な容疑者に対して人々の正義の怒りがついに爆発したのだという展開に持っていくことができる。

 沼地の端から奴らが潜んでいるあの不気味な家までは30メートルほどしかなかったが、私達にとってそれはあまりにも遥かな道程だった。大げさな例えに思われるかもしれないが、それほどまでに私達の感情は義務感と正義感によって高ぶっていたのだった。そこにいる、そこにいるんだ、あのろくでもない連中がいる、ここで一仕事だ、生意気なあいつらの鼻柱を折って、一生立ち直れないようにしてやるぞ。

 連中は確実に家の中にいる。いくつかある小さな窓の中から灯りが漏れていて、しきりに右へ左へと動くふたつばかりの人影が見える。背後で何人かが息を呑む音が聞こえた。私は彼らを両手で押しとどめ、一人でゆっくりと戸口に向って歩き出す。iPhoneを構える右手がぷるぷると震える。落ち着かなくてはいけない、これは東京でいつもやっていたようなことなんだ、ただ今回はカメラマンの役も兼任しなくてはならないという、それだけのことじゃないか。増幅されていく恐怖と不安感。いつもとは違う。しかしこれも猛り狂う私の気持ちと期待感の裏返しなのだろう。心臓の鼓動が早くなったとき、人にはそれが恐怖なのか興奮なのか判然としないことがよくある。今回もそんなところだ。できるだけものを考えずにぱっぱと仕事に取りかかろう。コンコンと、考えるより先に左手を出して扉を叩いた。応答がない。5秒たったか、それとももうすぐ10秒ほどが経過しようとしているのか。応答がないことは想定していたが、どうにも我慢できそうにない。すぐさま2度目のノックを叩き込む。強く、相手になめられないように、扉の表面が少しへこんでしまっても構わない。いつまでも家の外でわちゃわちゃとしているだけではいられない。これでは充分な画を撮ることができない。3度目のノックを叩き込む。そして叫ぶ。いるんでしょッ! わかってるんですよッ! 「出て来いよ!」と背後で柄の悪い声がする。ああだめだ、ここは番組では使えないだろう。あくまでもあっちが不誠実で、あっちが悪いんだという風に演出できなければだめだ。「出て来いおらぁッ!」 物事は上手く行かない。町の若い連中が連れてきたチンピラ。町民が彼らをどこから連れてきたのかは知らない。ただ夕方あたりに私が沼地へ着いた頃にはチンピラ達はもうその場にいて、金属バットだのメリケンサックだのを服の端でぴかぴかに磨いているところだった。まだはたちを越していないか、越したばかりというところ。3、4人。しかしその背後にもう一人、30代後半くらいの男がいて、若いチンピラ達からは「先輩」と呼ばれていた。この時点で気づいて警戒するべきだった。ちくしょう。思ったより使える素材は少ないかもしれない。不安感が私を襲う。後々問題になったらどうしよう。過去にこういう連中とは何度か仕事をしたことがあるが、今回ばかりは少し事情が違う。こんな連中がいたんだと写真か何かに撮られて、ネット上に拡散されてしまったらどうしよう。全く、物事は何事も思い通りには進まないものだ。どうか興奮して過激な真似にだけは出るんじゃない。そんなことをしたらすべておじゃんだ。しかし一体全体、この町の人間は何でこんなチンピラ連中と知り合いなんだろう。どうやってこんな連中を連れてくることができたのだろう。町民はどいつもこいつもこのチンピラ連中と距離を置くことなく、あたかも同じ仲間だと言わんばかりの姿勢で一緒にスクラムを組んでいるじゃないか。

 思考があちこちへとぶ。私は若干冷静さを欠いてしまっているようだ。こんなことではだめだ。しかしおかしい。今まではこんなことなかったのに。今までは、他の取材では物事はもっとスムーズに進んでいたはずだ。もしかしたら、報道関係者が私一人だけというのが不安感を増幅させる原因のひとつかもしれない。ここに真の仲間はいない。いざとなった時に連中が足手まといにならないよう、私にはただ祈ることしかできないだろう。

 それにしても気が急いてしまう。何かがおかしい。強烈な磁場のようなものが形成されている。何とかこの精神的な膠着状態から脱しなくてはいけない。

 「おい、窓が開いてるぜ。」

 ふと横を見るとチンピラの一人が、窓ガラスが割られているのを指してみなを促すようにくいくいと首を動かしている。

 余計なことをするな、と声を張り上げそうになる。しかしここで私が冷静さを失ってしまったらすべておしまいだ。確かにこの家は窓ガラスがすべて割られていて、潜んでいる二人の灰色の心象風景がそこに見えるようだった。殺人鬼の家としてあまりにも画面映えがする。ただこいつらの挙動を見る限り、こいつらはこれからこの窓ガラスが割れているのを利用して中に侵入しようとしているのだろう。それは許可できない。私が立てていた構成が無茶苦茶だ。あくまでこちらは誠実な態度を(少なくともはじめのほうは)とっておかなくてはならない。相手の不誠実さと邪悪さを画面から滲み出させるような、計算された微妙な展開というものが必要だったはずだ。しかしこれではもうどうにもならない。コントロールがきかないのだ。こいつらはこの家の中に忍び込んで二人を引きずり出す気満々だ。そうなればもしかしたらテレビでは放送できないような事態に発展してしまうかもしれない。この収録そのものが、私のキャリアに打撃を与えるアクシデントになってしまうかもしれないのだ。

 「みんな、冷静になってください、冷静に!」

 あいつら家の中でうろうろしてるくせしやがって俺たちの言うこと聞きやがらねえ! こりゃ引きずり出してぼこぼこにしてやるしかねえ!

 チンピラの一人が叫ぶ。「先輩」や町の青年団の連中だけでなく、町内会の人々もそれにうんうんと至極当然のような顔をして賛同している。

 まずい。これはどうしようもないことになった。血気盛んな男達。血気盛んな女達。沼地の泥がちゃぷちゃぷと気色の悪い粘液質の音をたてる。耳だけでなく、それは神経にもさわる。

 いや待て、よく考えるんだ。私は今この扉に左手を置き、相手の返答を待っている。どれだけ時間がたっただろう。1分、それとも2分くらいだろうか。どちらにせよ時間が止まっているようだ。相手はまだ動き出さない。まだこの現場でたいしたことは何も起きてはいない。考える時間はそれなりにある。冷静になって頭の中で考えを巡らせれば、おのずと次に取らなければならない行動は決まってくるはずだ。考えろ、よく考えるんだ。思い出せ、平成になる少し前くらいにとある大きな詐欺事件の首謀者が(事件の名前自体は完全に忘れてしまったが)逮捕の直前にアパートで暴力団の構成員に襲われ、報道のカメラがずらりと並ぶ前で暴行されて死亡したという事件があった。あの事件の当事者となった報道関係者はその状況を問題視するどころか、積極的に暴力団員を煽り立てるような指示を飛ばしさえした。あの事件の後その関係者の中で、注意処分だの何だのを実際に受けた局員がいただろうか。いやいなかったはずだ。彼らは責任を取ることを要求されず、まさしくその事件を踏み台にすることによって順調に出世していき、今ではこの日本の報道業界、いやテレビ業界全体を動かしている。もしここから事態が少しばかり派手に過ぎる状態になって、血が流れ、目を覆うような事態(BPOの連中はこう言うだろう)になったとしても、私がそれで詰め腹を切らされるようなことにはならないのではないだろうか。ものの道理に合わないことなんか、私は許さない。私は曲がったことが大嫌いなんだ。私は出世の階段を順調に上ってしかるべき人間なんだ。あいつら、自分達は昔好き勝手しやがったくせして、あの自殺しやがった奴の事件に関しては私にすべて責任をなすりつけようとし、謹慎処分なんて物騒な決定を下しやがった。しかしあの詐欺師がリンチされて殺された事件では、当時みんな社内では評価の対象となったじゃないか。今回だって同じような展開が、いくらでも期待できるんじゃないだろうか。それにこのチンピラ(それともヤンキーと呼べばいいのか、半グレと呼べばいいのか)どもをある程度好き勝手動き回らせておいて、危なくなってきたところで状況を微調整するというやり方だって考えられる。まあとにかく、面白い画が撮れるんだったらこれに越したことはない。

 「みなさん、わかりました。家の中に踏み込みましょう。」

 私は冷静な態度を装って呼びかける。あくまでも私は事態を俯瞰で見ることができる、こいつらよりも一段高い位置に留まっていなければいけない。

 家の中に踏み込みましょう、彼らに社会的な義務を遂行させましょう、しかしそのためにはまず私を先頭に立たせていただきたい、そしてみなさんどうか、穏やかにお願いいたします、結局は警察に引き渡さなければならないのですから、物騒なことだけはしないで下さい、それだけお願いです、法的な責任については大丈夫です、ずっと前に引きこもりの少年の部屋に突入した時もこれと同じような手法をとりました、法的には一切問題ありません、しかし念のため、くれぐれも口外だけはしないで下さい。

 知ったことかという感じだろう。こいつらは「法的な問題」なんて言葉には無縁だし、「倫理的な問題」という言葉にも無縁だ。そんなものには何の関心もない。しかし一応親切心から言っておいてやる。そして背中を優しく押してやる。

 チンピラや青年団の連中はなおも私の指示を無視した血みどろの実力行使を主張していたが、「先輩」がにらみをきかせてそれを押しとどめた。おそらく彼もことが必要以上に大きくなってしまった場合、私と同じように責任を取らなくてはならないような事態に陥るのかもしれない(しかしさっきまではこいつもリンチの提案にうんうんとうなずいていたくせに、どういう風の吹き回しだろう)。チンピラ達はしゅんとした顔で人混みの後ろへとのそのそ下がっていった。青年団の連中は納得できないという不満顔で周囲を威嚇するように体を揺らしていたが、それでもそのうちの一人が「先輩」に軽く小突かれると、途端に焦ったような表情になって一斉に背中を丸めるのだった。

 これでまた私の制御がきくようになってきたかもしれない。なんだかんだで私はまだ相手を思い通りに動かせるテクニックを行使していると言えるのかもしれない。これからが正念場だ。

 ついてこい野郎ども。私が本物の仕事ってやつを、これからとっくりと見せてやる。

 ただくれぐれも邪魔だけはするんじゃない。どうにかお前達も私に協力してくれていないと、もうどうにもできなくなってしまうかもしれない。



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