第5・6章

 彼は気分が悪くなった。沼地の臭気にさらされたせいではない。郵便局長という肩書きを一時的に捨て、一人の町民として放り出されなければならないということが、彼にとってはこれ以上耐えられないほど精神的につらかった。

 それも平日の昼間に! 郵便局のあの冷房の効いたオフィスにいないなんて!

 彼が天下の大将でいられるあの箱庭から飛びだして、蛙やイモリといった得体の知れない有象無象がうじゃうじゃいるこの沼地に足を伸ばしたことを、彼ははやくも後悔し始めた。確かに彼には自身にかけられた殺人の嫌疑を晴らすという重要な使命があったし、彼が心の底では死ぬほど軽蔑していたあの小僧がどのように死んだのか、少しばかりその現場を覗いてみたいという願望もあった。しかし彼にはどうすればよいのかわからなかった。若者二人の家へ、忍び込むべきだろうか。それはリスクが高すぎるだろうか。しかしそうでもしなければ彼が得ようとしている証拠品に手を伸ばすことはできないだろう。彼はこれまでに観た刑事ドラマや推理小説の記憶を辿って、必死になって頭の中に行動のフローチャートを作ろうとした。扉を叩いてみようか。応答がなかったらどうしよう。いや、応答がない方が、都合がいいかもしれない。しかし家に誰もいなかった場合、中に忍び込みでもしなければわざわざやって来た理由がなくなってしまう。そして眼前に広がるこの沼地。彼らの家だけでなく、沼地のほうも少しばかり漁ってみなければならないだろうか。こんなことになるんだったら、畑仕事用の作業着でも着てこればよかった……

 そんなことを考えているうちに、彼はいつのまにか沼地の家が見える場所にまでさしかかっていた。土を敷き詰めただけの何の変哲もないはずの道が、異様にぬかるんでいる。

 あーあ、靴が汚れちまった、と局長はつぶやいた。

 こうなったら、ちゃっちゃと証拠を集めて早いところ郵便局へ帰ろう。警察の連中は無能だしここへは捜査が及んでいないようだから、見つけようと思えば血痕のついた石とかそんなものは簡単に見つかるだろう。

 彼は自分が優秀な郵便局長であるという、自堕落な意識にしがみついていた。彼もあの子供と同じく、自分のしようとしていることについて深く考えるというようなことをしていないのだった。

 (無論仕事の時は話が別だ。彼は書類を一枚処理するにも考えに考え抜き、一番効率よく部下を虐めて弄べるような手管を編み出して日々楽しんでいるのだった)

 彼は家の前に立つ。こんな汚い掘っ立て小屋に住むなんて私はごめんだ、と彼は思う。彼は目を細めて家の外観を観察し、持ち主の社会的なステータスを推し量ろうとする。こんな家なら月々の家賃なんかもほとんどかからないだろう。買うにしても二束三文で手に入ってしまうはずだ。彼は軽蔑を露骨に口の端に表すと、嫌で嫌で仕方がないといった様子でゆっくりと腕を伸ばし、土埃の付着したインターフォンを深く奥まで押し込んだ。

 家の中で音がした。柔らかい足の裏が、半ば腐ったような床板をぺたぺたと叩く音。

 住人が出てくるというのは当然想定していたことだ。しかし実際にこの家の住人と相対しなければならないと思うと、彼は心臓に重しを何個もかけられたような、そんな息苦しさにもう少しで声を上げそうになった。ここは彼がいつも権力を振りかざしている郵便局のオフィスではない。自分より年下で社会的地位の低い相手にだって、何をされるかわかったものではないのだ。しかし自分は郵便局長としてこの町の名士としての地位をいわば“欲しいまま”にしているわけだから、こちらが毅然とした態度で押し通してやればあちらだって無駄に抵抗するようなことはないだろう、と彼は思った。

 扉にはめられた薄いすりガラスの向こうで、何かがうごめいた。局長にはそれが一瞬、人間でも動物でもない、何か得体の知れない禍々しいもののように見えた。

 扉がいとも簡単に開く。そこには局長が今まで顔を合わせたことのない、彼が普段オフィスでねちねちと虐め倒しているあの大学出の若造と同じような年頃の男が、局長を見下ろすようにして立っていた。局長は内心の憤懣を隠し通すことができなかった。彼は男の身長の高さと、客のことなんかこれっぽちも考えていないと言わんばかりの無表情で白けた顔に、神経を逆なでされるような思いだった。何故私はこんなどこの馬の骨ともしれない、“どこの誰でもないような”奴に、こんな風にばかにされなければいけないんだ!

 「ああどうも、ここに住んでる人だね。」

 冷静にならなければいけない、と気張れば気張るほどに彼の体は重くなった。その重くなった体に引きずられて彼の精神そのものもとめどなく下降していくようで、際限なく若い男との身長差が開いていくようだった。局長はその屈辱にはとてもじゃないが耐えられなかった。しかし冷静にならなければ、大切な証拠をみすみす逃してしまうということにもなりかねない。しかしそれ以前に、局長はこれから自分が手に入れようとしている証拠なるものが一体全体どのようなものか、何のイメージも脳裏に浮かべてはいなかった。仕事をしているときの彼ではとても考えられないが、実際のところ局長はただ焦りと興奮に駆られてこの沼地までやって来たのである。

 「何も、何も喋らなくていい! 喋らなくていいんだ!」

 つけいる隙を与えてはならなかった。そうすれば局長は精神的な優位に立てなくなり、仕事で東京の本社に呼び出されたときのように落ち着きを失い、恐怖でなにもかも台無しになってしまうだろう。

 「何も喋らなくていい! お前が何をやったのかはわかっている! よそ者が! 白状しろ! 警察に出頭するんだ!」

 警察に出頭せよと叫んだところで、相手がばか正直にそれに従うような結末には当然ならないだろう。しかし間髪入れずに相手を怒鳴りつけることで局長は精神的な優位を保っていたし、この郵便局長という地位とそれに付随する威厳を最大限に活用すれば、もしかしたらこの若造は震え上がって自分から警察に名乗り出るかもしれない、と微かな期待が局長の胸中で囁いていたのだ。

 「お前がやったことはみんな、みんな知っている! みんなお前が犯人だって言っている! 白状しろ、もうすべておしまいなんだ!」

 若い男の表情は変わらなかった。尚もその両生類のように濁った目で局長を見下ろしている。

 「何を、おっしゃってるんです。」

 若い男の口から、こんな言葉が少しばかりの吐息と一緒に漏れた。丁寧な口調だったが、局長はそれを慇懃無礼な調子をわざと作ったんだと解釈した。

 「おい! 何だその口の利き方は!」

 激高した局長はもうなりふり構ってはいられなかった。なんとしてでもこいつを踏んづかまえて、警察署まで連行していかなくてはならない。今すぐ行動に踏み切らなければ結局自分が取り調べのために任意同行を迫られ、社内での信用が完全に失墜してしまうことになる。

 「私は郵便局の局長だ! お前みたいなプー太郎が、年上の私に何を言ってる!」

 局長はそう叫ぶと、両手を無茶苦茶に振り回しながら戸口の段差を昇り、何とか男の首筋を掴んで制圧してやろうと怖ろしい表情を作って男に迫った。しかし次の瞬間制圧されてしまったのは局長のほうだった。男の腕は局長の思っていたよりもさらに太く、局長は全く抵抗を許されないままに両腕をねじ上げられ、家の前のぬかるみにいきおいよく叩き落とされていた。

 「お、お前なんか! 最低の評価をつけてやる! くびだ、お前なんかくびだよ!」

 男は扉を閉めて家の中に引っ込みながら、溢れ出る微笑を抑えることができなかった。彼は郵便局に勤めてなどいない。局長とは赤の他人なのだ。局長は反射的に放ったこの一言―最低の評価をつけてやる!―が最大限の攻撃になると思っていたようだが、そんなものはナンセンスだ。扉が閉まってその場に自分一人になってしまった後、局長もそのことに遅ればせながら気づいた。

 彼は恥ずかしい気持ちだった。こんな感情に陥ることがあるなんて、郵便局長という自分の肩書き(説明するまでもなく管理職のものだ)に照らし合わせて考えると、なんだかさっきの自分の発言以上に不条理だという気がした。スーツは泥で無残に汚れてしまっている。家に帰って着替えなければ、今日はもう郵便局に出勤することはできないだろう。

 局長は立ち上がった。屈辱で一瞬気がくじけそうになったが、次いで湧き上がった憤怒の気持ちが再び彼の行動力に火をつけた。局長は体中にへばりついた泥の塊を両手ではたき落としながら、大声を上げてその悪魔の家に向っていくと、壁板を足で蹴りつけながら家の周囲をぐるぐると野良犬のように回り始めた。

 「出て来い! 出て来いよ! お前らがやったってことはわかってる! みんなわかってるんだよ! 白状しろ、白状しろよおいいいいいいっ!」

 彼の足もとで土煙が上がり、沼地に溜まったどろどろした液体がぴしゃぴしゃと局長のスーツに染みを作った。もし私の部下がこんなことを私にしてきたなら、その時は最低評価じゃあ済まされない。パワハラだって言われてもいい、セクハラだって言われてもいい、だが会社の人間、そして世間の連中はこの私に同情して声を上げてくれるだろう。オフィスで何度が抱いたことのあるそんな確信で頭がいっぱいになった彼はもう見境がすっかり無くなってしまい、いつライターでこの家に放火しようとしても不思議がないほどだった。目が血走り、唾が飛んだ。彼はもはや彼の思うような正義の執行者ではなく、わめき声を上げながら小さな虫や蟻を踏みつぶす幼稚園児だった。

 もうこうなると彼をとめるものはない。彼は両手の拳を振り上げて家の裏手の窓ガラスをいきおいよく叩き、何とかして相手に打撃を与えてやろうともがいた。その埃の被った窓ガラスはすぐに割れてしまったが、彼は意に介さなかった。なんだ、人殺しの住んでる家のガラスなんか、どうなったって構いはしないさ! どう見たって法律はこの私に味方してくれているし、この町の連中も私に味方してくれる。そうだ、この家の窓ガラスをみんな割ってやれ、そうすればあの男は怒って外にまた出てくるだろう、そうなったらもうこっちのもんだ、あいつを無理矢理にでも警察署に引きずっていくか、あいつが怒りのあまり我を失ってぼろを出すか、どちらかの状況に持っていくことができる。そうと決まればもう迷うことはない、私はやる、私はやるぞ、これもみんな正義のためなんだ、正義のために戦うんだ!

 さらに一枚、二枚と割っていく。彼は尚も唾を飛ばしながら喚き散らしているが、心の中では楽しくて楽しくて仕方がなかった。早く出て来い、早く出て来るんだ、さもないと窓を全部割っちまって、お前の家に入っちまうぞ、そうしたらお前が囲っているあの女、あの女に私が何をするか、お前にもわからないわけじゃないだろう……

 興奮しすぎた局長の意識が少しもうろうとし始めた頃、正面の扉が開いてあの若い女が姿を現した。その時裏手で息を切らしていた局長は扉を開く音を聞き、歯を食いしばりながらどたどたと走って行ったが、出てきたのが女だと知って虚を突かれ、今までの勢いが一遍にかき消えてしまったようだった。彼は自分の攻撃性をどうにか抑え、また違った戦法で責めてみることにした。これでも局長は女性の歓心を買うことにかけては自信を持っていた。彼は脳裏で瞬間的に、これまでの人生で自分に告白してきた三人の女性の姿形を思い浮かべた。目の前にいる女は過去の女達と比べてこれといって容姿の優れている方ではなかったが、局長はその内面の知れない無表情な顔が生み出すなんとも言えない色気を感じ、彼女に気づかれないくらい微かに身を震わせた。

 「いい加減に、諦めなさい。お嬢さん。」

 局長の物腰は和らげられたが、まだ自分のほうが位や力は上なんだぞという尊大な様子が強く滲んでいる。しかし女の表情は変わらなかった。その目は水晶のように、透徹に輝いていた。ある日突然現われたこの不作法な訪問者に恐れを見せるようなこともなく、ただ局長の姿をひとつの観察対象のようにしてじっと見ているだけだ。局長はたじろいだ。しかしたじろいでいる自分というものを拒絶するかのように、息を大きく吸い、無意識に体を大きく見せようと胸板を張って威嚇するように目をぐりぐりと丸くした。

 「あなた達がやったことは、すべてわかっているんです。忌まわしい、あまりにも忌まわしいが、何よりも大切なことは自分から罪を認め、自首をするということ。お嬢さんは頭が悪そうには見えないから、私に言われなくてもわかりそうなものだが。」

 局長はこうやって相手をコントロールしているつもりだった。頭を回転させて相手の精神に深くつけいるような文句を編み出し、相手を手玉に取るようにあることないことを語りかけて、完全に屈服させてしまうつもりだった(これは彼がいつも部下に対して使っている手だ)。しかし今回ばかりはそう上手くは行かなかった。

 「日本の警察官は無能な奴ばかりだ。」

 と女がぽつりと言った。

 な、何だこいつは。

 その瞬間、局長は自分を取り巻く空気そのものが完全に変質してしまい、彼に牙をむく毒々しいものになってしまったような気がした。何故だかはわからなかったが、さっきまでは自分の有利に働いていた形勢が一気に逆転してしまい、これから先のことについて考えようとする脳の回路が暴力的に閉じてしまったかのようだ。女の声はとてもその外見のように若い女のそれではなかった。その声はしわがれた老婆の声で、ひび割れた響きが発せられる喉元がまるで女にとりついた寄生生物のようにぶくぶくと動いている。

「私が取調室で彼らの指紋がついたナイフでも差しだしてやれば、目を丸くして驚き、私に平身低頭するだろう……」

 逃げなければと局長は思った。何ということだ、町外れの沼地に住む若い二人組は正気の人間ではなかった。正気の人間でないというだけならまだしも、彼の手には負えない、決して触れてはいけない類いの連中だったに違いない。局長は後ずさりし、ゆっくりと女から視線をそらそうとした。こんなことになるとは思わなかった。後日町の連中を連れて出直さなくてはならないだろう。いやその前に、この二人が住む世にも怖ろしい沼地から少しでもはやく逃げ出さなくては。

「覚えてろ、覚えてろよ……」

 局長は捨て台詞を吐かずにはいられなかった。踵を返し、自分が来た道を戻ろうとする。走り出そう、すぐ走り出すんだ、まず家まで走って逃げ帰り、警察に連絡して、その後郵便局に出勤しよう、午後からの職務をまっとうするんだ、そしてまた自分が思う存分支配力を行使することができるあのオフィスで、今さっき起った出来事の埋め合わせをしようじゃないか、いやなに、サンドバッグなんかいくらでもいる、そんなことは問題じゃない、しかし私はまたここへ戻ってくるぞ、みんなを連れて、戻ってくる、復讐してやる、復讐してやるんだ、

 しかし彼は結局死への旅路を歩いているに過ぎなかった。悪魔の家から数メートルも離れないうちに彼の視界は歪み、足はもつれ、意識がもうろうとなった。彼は自分がどこに進んでいるのかもわからなかったし、頭を働かせなければならないと自分にいくら言い聞かせても、絶え間なく響く心臓の鼓動音が注意をそらしてしまった。とにかく足を動かし続けなければならなかったが、ついにはそれもできなくなった。柔らかく冷たい泥の地面に自分の膝が沈み込んでいくのがわかった。もはや彼には何も見えない。次いで彼に近づいてくる二人分の小さな足音が聞こえ、雷に打たれたかのような悪寒が局長を襲った。

「さんどばっぐなんかいくらでもいる、そんなことはもんだいじゃない……」

 女の声だった。局長の心の内のように虚ろ。

 どうしてしまったんだろう、急に体がこんなに重くなって……。局長は何もかも信じたくなかったが、何もかもを信じざるをえなかった。

 それにしてもどうして、あいつは私が考えていたことを知っているのだろう。

 そして彼もまた、殺人者の手に落ちてしまう。しかしすべてが不可解だった。あの悪魔の家に住む二人は、局長の訪問をとっくの昔から予期していたに違いない。そしておそらくは、何もかもが彼らの予期したとおりに、仕向けたとおりに進んだのだ。彼らは郵便局を一度も訪れたことがなかったにもかかわらず、訪問者が郵便局長であると知っていた。あらかじめすべてを見抜いていたようだった。そして局長は女の言うとおり、生きてあのオフィスの快適な机に戻ることができないまま、顔の右半分を沼地のどろどろした冷たい液体の中に埋めたのである。



 彼らの助けを求める声、彼らの叫び声は片っ端からかき消された。それは町の中心部にはとてもじゃないが届かず、寒気のするような深淵がどこまでも広がる町の周縁をいつまでもぐるぐると回転し続けた。

 しかし彼らの叫びが町の中心部に届いたからといって、それが一体何になるというのだろう。彼らを自滅へと向わせたもの、私達が本当に問題にしなくてはならない彼ら自身の精神の奥に潜むものは、この町の人々が一丸となって、町ぐるみで徐々に構築していったものなのである。

 血の海に溺れながら二つの小さな肺臓がぜいぜいと苦しげな音を出し、町の上空を地獄の鳥のように旋回している。それらは死体を狙う禿鷹のようでもあり、弱々しく救命信号を発する遭難した飛行船のようでもある。

 そして町の人々が真に直面しなくてはならない危機が、訪れるだろう。この後に続く彼らの恐慌や叫喚は、沼地の臭気に与えられたものではなく、沼地が町の人々の精神から引き出したものだった。


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