9-2. ここにいなくても大丈夫





「……変わらないな」


 覗き込んだ室内の様子は、私の記憶の中と瓜二つだった。テレビやテーブル、ソファの配置もまったく変わっていない。変わったことと言えば、本棚から絵本が消えたことと――仏壇が増えていたことくらいだ。

 仏壇の上には家族と一緒に写っている私の写真が飾られていた。やはりと言うべきかなんというべきか、私はどうやら死んでしまっていることに間違いはないらしい。


(生きていれば……このまま何もなかったように帰りたかったんだがな)


 ほんのちょっぴり、実はこの世界では七年前に私は死んでないんじゃないか、なんて期待をしていたのだが、その期待はたった今、木っ端微塵に打ち砕かれた。

 窓枠にしがみついて崩れ落ちるのを何とか耐えていたが、奥のキッチンから二人がお盆に何やら色々と乗せて戻ってくるのが見えて、慌てて頭を引っ込める。やがてカチャカチャと皿を置く音、そしてマッチらしい何かを擦る音がして、程なく線香の匂いが漂ってきた。

 チン、と場を静まり返らせるりん・・の音色。それ以外の物音はたちまち消え、風に揺らされたカーテンだけが頭の上で微かな音を立てた。


「もう……七年、か。早いなぁ」


 愛しい人のつぶやきに、私は膝を抱えて耳を傾ける。


「桃が大好きだったんだよね? お供えした桃、食べてくれてるかなぁ?」

「うん、食べてくれてるよ、きっと。他の果物はあまり食べなかったけど、桃だけはすぐなくなってたしね」


 ああ、そうだ。果物は全体に好きでも嫌いでもないが桃だけは別で、貰ったりするとすぐに食べてしまっていたな。夫婦となる前からの長い付き合いだったとはいえ、死んで七年経ってもこうして覚えてくれているのは素直に嬉しい。勝手に顔がほころんで、ついつい笑い声が漏れそうになってしまう。

 それからしばし沈黙が流れた。立ち上がった気配もないからたぶんまだ仏壇の前にいるんだろうが、何を思い何を感じているのだろうか。

 客観的に考えても私は激動と言える人生を過ごしてきたが、それでも家族の事は常に頭の片隅に残り続けていた。

 愛しい人は朝が苦手だったが、私がいなくてもきちんと毎朝起きれてるだろうか。食事はちゃんとできているだろうか。幼い娘と突然二人きりになって、苦しさに押しつぶされていないだろうか。心配はまったく尽きなかったが実際は果たして、どうだったのだろうか。


「……ねぇ、ちょっと二人にしてもらっていいかな?」

「うん、いいよ。ゆっくりお話してね」


 最愛の人がそう促すと、素直に従って娘は別の部屋に移動していった。

 残されたのは誰よりも大切な人と、私だけ。しばらくの間言葉を発せず、私に沈黙だけが届けられ続けていたが、やがて穏やかな口調で仏壇の私に語りかけ始めた。


「――あなたがいなくなって、七年。もうそんなに経つんだね。

 あなたが死んだって聞かされた時は目の前が真っ暗になって、あの子と二人きり残されて絶望しかなかった。とても苦しかったよ。あなたが死んでしまったように……日常も同じように死んでしまった。そんな日々でした。今だから正直に言ってしまうけれど……あなたのところにあの子と一緒に行ってしまおうか。しばらくはそんなことばかり考えてたよ」


 聞こえてくる声は穏やか。だが、その告白に私の胸もひどく締め付けられたような心持ちになる。

 残してしまって、ゴメン。今すぐに飛び出していって抱きしめてあげたい衝動に駆られる。けれど私はもう、ここにはいない存在だ。その事実がひどく私を縛り、気持ちが制御できなくて呼吸さえ上手くできなくなってしまう。


「ホント……辛かったなぁ」つぶやくような声が湿った。「けれど……辛かったけれど、何とか一日を必死に生き延びたんだ。夜、布団に入る度にあの娘の寝顔を眺めて、それからその日を生き延びた事を自分で褒めて。あの子と一緒に毎日を生きていることでいっぱいになりながら生きて生きて、生きて。

 そのうちに段々とあなたのいない苦しさを思い出す頻度も少なくなっていった。四六時中寂しさで満たされてたのに、それが一日おきになって、一週間おきになって、一月に数回になって……いつの間にか、はっきりとあなたを思い出すのは命日にだけになっていったんだ。

 ごめんね、別にあなたのことを忘れてしまったわけじゃないし、今でも大切に思ってる。それは本当だよ? ただ、あなたのことだからね。天国でもきっと色々と心配してるんだろうなって思って。世話焼きで気配りができて、何より……とても愛してくれたのを知ってるからさ」


 気配りができていたかは分からない。きっと当時の私は至らないところだらけだったと思う。よくケンカもしてたし。それでも私の想いを、愛情をきちんと受け止めてくれていたのだと教えてくれたのが、とても嬉しかった。


「心配性の寂しがり屋さん。そんなあなただからちゃんと伝えないといけないと思ったんだ。

 今もあなたのこと、心から愛しています。あの子と二人きりの生活は苦しいことも多かった。けれど、ちゃんとここまで生きてきました。そして――」


 すぅ、と一度大きく息を吸って。それから私に教えてくれた。


「今日も、これからもあの子と一緒にしっかりと前を向いて生きていきます」


 だから、心配しないで大丈夫だよ。私が愛した人は、ハッキリとそう伝えてくれた。

 その言葉が胸に染み込んでいく。言葉が温もりを生んで心の奥底にまで達して、そうして死んだ当時のまま頑なに凍っていた私の心を優しく溶かしていった。

 ポタリ、と雫が膝の上に落ちた。それは私の涙だ。熱を持ったそれが次から次へとあふれてくる。けれど、それは寂しさや苦しさから来るものじゃあない。

 それは心からの安堵がもたらしたものだとすぐに気がついた。すると、座り込んでいた私の体から光が漏れ出して、この世界に戻ってきた時と同じように私を包み込んだ。


(――ああ、そうか)


 フワリと体が浮かび上がってアパートが少しずつ遠ざかっていく。愛しい家族が暮らしている家が離れていく。だけれど、もう私が手を伸ばすことはない。


(分かったよ。どうして、DXMが七年後の世界へ私を飛ばしたのか)


 私は過去を変えたかったんじゃない。ただ見届けたかったんだ。私がいなくても家族が元気にやっているかを知りたかったんだ。

 私が愛した人は前を向いていた。胸を張って今を生きていた。私の事を想ってくれながら、寂しいと感じてくれながら、それでも立ち止まらずに前へと進んでくれていた。苦しみと悲しみを乗り越えていける強さを持っていた。それが……私には嬉しくて堪らなかった。


(もう……私はここにいなくて大丈夫だ)


 この世界に私は必要ない。そう悟った瞬間に体が空へ向かって加速していく。

 さようなら。そして、ありがとう。家族たちに手を振ると、私の視界はまばゆい光で満ちていった。

 やがて光が収まっていって私がたどり着いた場所は、景色がマーブル模様ににじんだ、DXMが作り出したあの空間だった。手足を見下ろせば腕も脚も細く短い。どうやらまたアーシェ・シェヴェロウスキーとして私は戻ってきたらしかった。


(帰って……きてしまったな)


 けれどもう思い残すことはない。家族たちは私がいなくても確かに前に進んでいたし、あのクソッタレの神どもももういない。一度過去へと飛んだ人間が戻ってきた場合にどうなるかはしらんが、このままDXMが導くまま何処かの世界の何処かの時代に流れ着くのも悪くないだろう。


(アレクセイ、カミル、アレッサンドロ、そして――ニーナ……)


 ふと私を見送った彼らと彼女の顔が頭に浮かんだ。もう、アイツらには会えないだろうな。私が選択したことだからそれを後悔したりだとかそんな感情はないが、どうしても寂しさはある。


(できることなら――)


 最後は笑顔でニーナと別れたかったが……言っても仕方あるまい。それに笑顔じゃなくってもあれだけ真っ直ぐに私のことで泣いてくれたんだ。であればその想いを胸に抱いて、このまま誰も知らない人生を歩んでいこうじゃないか。たとえ魂喰いとして永久に近い命であっても。それが、私に課せられた罰なんだから。


(それで、良いのですか?)


 不意に声が聞こえた。いつの間にか閉じていたまぶたを開けると、優しく微笑む女性が一人立っていた。


「クロノス……!? お前――」


 幻覚か実像か。他の神々と一緒に消えていったはずのクロノスがどうしてだかそこにいた。


(貴女はそれで良いのですか?)


 私が答えずにいると機械のようにもう一度尋ねてきた。本物のクロノスなのか、それとも私の願望が作り出した幻なのか、はたまた私を騙そうという悪魔が何処からともなくやってきたのか。

 まあ、いいさ。どうせ失うものなんてないし、仮に騙されたって構うものか。


「ああ、別に構わんさ。やりたいことはすべてやった。心残りはない。まあ強いて言えば――」


 ニーナたちとまた一緒に過ごしたい。泣いて、笑って共に時間を歩みたい。

 それが本音だが、散々好き勝手やった私である。いまさらそれが叶うなんて信じられるはずもないし、そんな都合の良いこと許されるはずもない。

 心残りないとか言いつつ未練タラタラだな、とついつい自嘲しながら顔を上げる。

 すると目の前にクロノスがいた。息が掛かりそうなほどのそばで微笑みながら、私の目を覗き込んでくる。

 私の頬を暖かい手のひらが包み込んだ。驚く私にもう一度無言のまま微笑んで、そして彼女が口づけた。

 いったい、何を。そう叫ぼうとした次の瞬間、私の体が一気に押し飛ばされた。


(アーシェ……貴女にも幸あらんことを)

「クロノスッ!!」


 何処かへと墜ちていきながら叫ぶ。次第に姿が小さく、そして薄れていく中でクロノスは笑顔で手を振っていた。

 やがて彼女の姿がまったく見えなくなり、それに伴って青白い景色が白く染まっていく。それがこの世界の出口だと気づいたが、その時には私の意識は景色と同じように真っ白に塗りつぶされていた。

 果たして、クロノスは私をどうしたかったのだろうか。幸あらんことを、などと言っていたが私はもう十分幸せだ。これ以上幸せになっても良いのだろうか。


(幸せなんて、多ければ多いほど良いに決まってるじゃないですかっ)


 頭の中でニーナが笑った。そっか、そうだよな。お前の言うとおりだ。幸せなんて、たくさんある方が良いに決まってる。

 体が、暖かさの海の中に溶けていくのを感じる。今度こそ、私は世界へと墜ちていく。

 憎しみではなく、幸せを掴むために――






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本日は最終話も更新しております。

最後までどうぞお付き合いくださいませ。

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