6-4. 救えない豚だな

――Bystander






「ひぃ、はぁ、はぁ、ひぃ……!」


 転びそうになりながらカルロ・ビアンキ中佐は人気の無い暗い廊下を走っていた。

 脂肪に塗れた腹をこれでもかとばかりに突き出し、自身の重さに耐えるのがやっとの脚は一歩踏み出すたびに座屈して膝から崩れ落ちてしまいそうである。

 そもそも、彼が走るという行為に及んだのはどれくらいぶりだろうか。走ることを忘れていた軍人らしからぬシルエットの彼がこれほど急いでいるのには理由があった。

 一介の中佐には豪奢に過ぎる執務室でのんびりワインを傾けていた時に突如としてもたらされた報告。彼にとってはまさに凶報。

 曰く――グートハイルが行方不明になり、監禁していた少年たちが保護された、と。

 それが何を意味するか、決して頭が回るとはいえない彼であっても理解できた。

 故に彼は走った。


「は、早く……早く、ひぃ、あのガキを――」


 一刻も早く殺してしまわなければ。ビアンキは溢れ出る油塗れの汗を懸命に拭いながら走り続けていたが、もうすでに限界に近かった脚は角を曲がった際にもつれて激しく転がった。


「ひぃ、ふぅ……まだ、まだ大丈夫、大丈夫だ……」


 呼吸をなんとか整え、冷えていく汗を感じながら自身に言い聞かせていく。

 グートハイルがもし逮捕されていたとしたらすべてが白日のもとにさらされてしまうであろう。だが、現実はそうはなっておらずあくまで行方不明の状態だ。少年たちは保護されたが何も事情は知らない。真相はまだ闇の中のままに違いない。

 ところが、この事がアベルの耳に入ってしまえば話は変わってくる。彼も真相こそ知らされていないが、襲撃の指示をした人間など色々とまずい事情も当然ながら知っているからだ。

 兄弟たちの命という枷が外れてしまえば、黙秘し犯人だと言い張り続ける理由もなくなる。そうなればあの忌々しい女隊長が黙ってはいまいし、ビアンキたちにも類が及んでしまうかもしれない。それだけはなんとしても避けなければならなかった。

 だから今のうちに殺してしまわなければ。そうすれば当初の思惑通りすべては藪の中。疑念は色々と残るだろうが、少々の疑いなど握りつぶしてしまえばいい。

 ビアンキは重い体を起こしてまた走り始めた。当然、今度は少しペースを落として。

 そうして彼はアベルのいる拘置所にたどり着いた。夜半での突然の来訪に戸惑う看守を怒鳴りつけて追い出し、静まり返った拘置所へ脚を踏み入れる。


「……」


 息を飲む。彼と言えどもにわかに緊張が這い寄ってきて、地下の空気が一層ひんやりしたものに感じられて体を震わせた。

 軍靴の音を響かせながら奥へ進み、ほどなく彼は目的の牢屋を見つけた。中を覗き込めば、まだ夜は浅い方だがアベルは汚れた毛布を被って寝ているようだった。他の牢屋にも犯罪者がいるはずだが物音一つしない。やることもないとさっさと寝てしまうものなのだな。そんな風に思いながらビアンキは鼻を鳴らした。

 ポケットから鍵を取り出し、そっと穴へ差し込む。控えめに鳴ったカチッという音があまりにも物音のない空間に響きビアンキは顔をしかめた。だがベッドの主は深く寝入っているのか反応はせず、ホッと胸をなでおろした。

 忍び足でベッド脇へにじり寄る。ベッドの上の人物はくすんだ金髪を毛布の裾から覗かせ、壁を向いたまま気づいた様子はない。ビアンキはほくそ笑んだ。

 懐から短剣を取り出す。天窓からわずかに注ぐ月明かりが反射し、きらめく。柄を両手で握ると刃先を下に向けて大きく振り上げ――ためらいなく毛布へ向かって突き刺した。

 狙いは心臓。そして狙い通りに突き刺さり一瞬で命を刈り取ったつもりのビアンキは口をにやつかせ、しかしすぐに感触のおかしさに気づき慌てて毛布をめくった。


「なっ……!?」


 そこにいたのはアベル――ではなく、単なる人間サイズの人形だった。布と綿でできた体に、金色のかつらをかぶせただけの、何度見たって到底人間には見えない雑な人形。ゴロリと転がって仰向けになった顔にはイディオートまぬけの文字。


「ビアンキ中佐」


 呆然として立ち尽くすばかりだったビアンキの名前が突如として呼ばれ、驚いた鈍重な体が飛び上がった。


「ずいぶんと驚いているようだが、何かいけない事でもしていたのかね?」

「お、王子……」


 振り向いたビアンキの先。隠密行動用の術式が解けて声の主の姿が露わになる。

 狭い牢屋の隅に立っていたのは誰であろう、マティアスだった。彼の両脇にはアレクセイとアベル、そして彼らの前にはアーシェが立っており、アベルは自身を殺そうとしたビアンキを泣きはらした目で睨みつけ、口元を震わせていた。


「ぜひ聞かせてもらいたいところだね。こんな夜半にその短剣を人形に突き刺して、いったい誰をどうするつもりだったのか。まあ想像には難くないが」

「ま、ま、ま、まさか……」

「別に隠す必要はないから伝えておこう、ビアンキ中佐。君の行動はすべて筒抜けだよ。なにせ、グートハイルが消えたのは一昨日の話だからね」

「んなっ……!?」

「正直、君に情報を与えてからの行動があまりにも予想通りすぎて笑ってしまったな。軍人としても貴族としても失格だが、どうだろう、コメディアンとしてなら才能があるかもしれないぞ?」

「ダメだ、マティアス。アドリブの一つも効かせられないコイツには笑いなど取れるわけないじゃないか」

「それもそうか」


 マティアスとアーシェがくだらない会話をしているが、ビアンキの耳には届いていなかった。

 すべてを、見られていた。その衝撃がビアンキを支配していた。目撃されていたのが他の人間であればまだ何とかなったかもしれない。だが王子という権力の及ばない相手に自身の凶行を間近で見られてしまった以上、もう言い逃れはできない。

 ゆっくりとした思考の中でそこまで思い至ると、ビアンキの体が急に震えだした。一歩、一歩と勝手に体が後ずさり、しかしすぐに壁にぶち当たる。逃げ場は、どこにもなかった。


「さて」アーシェが呆れを含んだため息を漏らした。「答えてもらおうじゃあありませんか、ビアンキ中佐。いったい誰がマティアスを、アベルを殺す計画を立てたんです?」

「な、ななな、な、なんの話かな?」

「とぼけなくて結構。貴様ごとき豚にこんな大それた計画を立てる能力もなければ度胸もないことくらい分かっています」

「っ……!」


 アーシェの馬鹿にした言い草に、それまで冷や汗ばかりを流していたビアンキの顔色が変わった。

 小心者でありながらビアンキは異常にプライドが高い。自身より上級の貴族や王族には頭が上がらずごまを擦り媚びへつらうが、逆に自身より格下と思っている相手、まして女に馬鹿にされるのには耐えられなかった。

 加えて彼は非常に気が短い。さきほどまではどうやって言い逃れしようかとばかりを考えていたが、今やあっという間に怒りで頭の中が沸騰せんばかりになっていた。


「マティアス、アベルを頼む。弟たちに会わせてやれ」

「分かった。確か病院だったな?」

「病院!? 怪我してるのか!?」

「心配するな、アベル。少し衰弱してたから念の為入院してるだけだ。お前に会えるのを今か今かと待っている」

「ほ、本当か? 本当だよな?」

「嘘を言ってどうする。アレクセイ、病院への護衛を任せた」


 もはや取るに足らない相手だと思っているのか、完全にアーシェたちはビアンキのことを無視して会話を続けている。それがますます彼の神経を逆撫でした。


(たかが女、子ども風情が……!)


 自分を、貴族たる自分を侮辱するなどありえない。自身のしたことを棚に上げて、ビアンキは怒りで頭がいっぱいだった。

 そんな彼の目に、床に落ちた短剣が映った。

 それは先ほどアベルを殺そうとした剣だ。ビアンキは横目でチラリとアーシェの様子を伺う。彼女は背を向けてマティアスたちを見送っていて、ビアンキには相変わらず目もくれていない。

 静かに手を伸ばし、剣を握る。興奮で鼻息が荒くなり、それを必死になって抑える。まもなくマティアスたちが牢屋を離れ、アーシェと二人きりになった。

 その瞬間、ビアンキは彼女の背中目掛けて踊りかかった。


「死ぃぃぃぃねぇぇぇぇぇぇっっっっっっ!!」


 鈍重な体で驚くべき敏捷性を発揮して飛び上がり、絶叫しながら無防備なアーシェの背中に切っ先が突き立てられる――ことはなかった。

 目の前でアーシェの姿が消え、彼女の拳が脂肪で膨らんだビアンキの頬にめり込む。頬骨が砕ける音が頭蓋に響き、それが痛いと自覚するよりも早く彼の体は牢屋の壁へと叩きつけられていた。


「が……あ、あぁ、お……!?」

「つくづく救えない豚だな。アスペルマイヤーと同類、いや、それ以下か」


 心の底から冷え切った視線をアーシェは向けた。壁にもたれて怯えた目を向けるビアンキへ向かってゆっくりと歩いていく。


「貴様のような人間がこの世で一番害悪だ」


 国のためにも働くでもなく、誰かのために働くでもない。あるのは肥大した私欲ばかり。何かを発展させる能力もなければ単なる労働者でもない。家柄とプライドばかりにこだわり、誰かを不幸にすることに躊躇もない。まったく救いようがなくて、実に――腐った美味そうな魂にアーシェは我慢がならなかった。


「き、きさ、貴様……私を、殴ったなっ……!? ど、どうなるか分かっているのかっ……!?」

「心配して頂かなくとも結構。もう貴様が気にするような未来はないからな」


 獰猛に歪むアーシェの口元。鋭い犬歯が覗き、その迫力にビアンキは自身の命運を嫌でも悟らずにはいられなかった。


「わ、分かってるのか!? 私をこ、殺せば何も分からなくなるぞ……?」


 そう言ってビアンキは震えながら笑ってみせた。

 アーシェたちが知りたいのは自身の更に後ろにいる黒幕の存在のはずだ。その人には世話になったが自身の命運に勝るものなどない。ここでひとまずは時間を稼ぎ、その後は上手く情報を交渉のカードに使って生き延びる。ビアンキはそう算段を立てた。

 が。


「だから?」

「……だ、だから? だから、だと? は、はは、ははは! やはり愚鈍な平民で女だ。そんな事も分からないとはな。いいか? 私にとある御方の指示を受けて行動しているのだ。その『とある御方』について知りたいだろう? こう見えても私はいろいろな情報を知っている。生かしておけば役に立つとは――」

「要らん」

「そうだろう? 要らんだ……え? は? 要ら、ない……?」

「言ったとおりだ。賢くはないが貴様ほど馬鹿じゃないんだ、私は。わざわざ言い直さんでも言いたいことは理解している。聞かされずとも貴様を喰らって・・・・しまえば私が知りたいことはすべて分かるからな」

「ど、ど、どういう……?」

「つまりだ――貴様を生かしておく価値など、その禿頭の細い毛穴ほどもないんだよ」


 月明かりによって作られた影がビアンキを覆う。見上げた先にある小柄な黒い影の中で、瞳だけがハッキリと金色に輝いていた。


「最後に教えておいてやる。家柄もプライドも金も権力も、私の臓腑の中じゃすべてが等しく無価値だ」

「あ、あ……や、やめ……!」

「カルロ・ビアンキ。貴様に残された唯一の価値。それはな――私の栄養となる、ただその一点のみだ」


 じゃあな。感情のない声でそう言ってアーシェが口を大きく開き。

 ビアンキは、自身の頭蓋がその口に噛み砕かれる音を最後に聞いて、人生を終了したのだった。

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