6-3 それでもっ……!

「っ……!」

「もらったっ……!」


 アーシェの眼前に現れたのは魔法陣だった。ここまでの攻防の最中にリンベルグが密かに仕込んでいた遅滞発動での術式。それが今、発動した。

 が。


「っ……!」


 アーシェの姿がリンベルグの視界から消える。発動した術式は誰もいなくなった虚空を貫き、そして彼の背にアーシェが組み付いた。

 アーシェは腕を首に絡ませ締めていく。リンベルグは苦しそうに顔を歪めてもがくが、ガッチリと絡んだ腕が解けることはない。


「いい加減寝てしまってくださいっ!」


 リンベルグの意識を落とし、その後で強制的にミーミルの泉を吐き出させる。異形化が途中で止まった今ならば、まだ間に合うはずだ。

 アーシェの細い腕に力が込められ、リンベルグの喉にめり込んでいく。彼の口から声すら出てこず、掴まれた腕の力から彼の苦しさが伝わってくるだけだった。

 あと、少し。あと少しで終わる。早く落ちろ、とアーシェは願ってよりいっそう力を込めていった。


「……が、はっ!」


 しかし――先にアーシェの腕から力が抜けた。

 焼きゴテを臓腑に押し付けられたかのような熱。一拍遅れて感じる激痛。胃からは熱いものが逆流し、口を閉じていてもそれが溢れ出してきた。

 リンベルグから体が離れる。苦痛に顔を歪め、よろめきながら彼女は自らの腹を覗き込んだ。

 そこには彼の剣が突き刺さっていた。

 リンベルグがアーシェへと剣を突き立てていた。握っていた剣を自らの腹部へと突き刺し、貫通した剣先がアーシェをも貫く。彼は自らへの苦痛をも無視してなおアーシェへの攻撃を優先したのだった。


「……っ!」

「ぬ、ぅぅんっ……!」


 声を絞り出しながらリンベルグはアーシェを押し飛ばす。その弾みでアーシェから剣が抜け、リンベルグは自らの腹から剣を引き抜くと、自身も血の塊を吐き出しながら苦痛に顔を歪めたアーシェへともう一度剣を構えた。


「シェヴェロウスキー……貴様、この期に及んでなお俺に情けをかけたな?」

「……」

「そうまでして俺を侮辱したいかッ……! 貴様にとって俺は敵だと言うのに……なおもまだ俺を愚弄するのかッ……!」


 痛みも忘れてリンベルグは怒鳴りつけた。心底彼は怒っていた。

 戦って、死ぬ。それは己の生き方であり、そうすることこそが誇りであった。死を覚悟して戦う相手に情けをかけるその行為によって誇りを汚されたことが我慢ならなかった。


「分かっています……」


 そしてそれはアーシェもまた理解していた。自らの行いがどれだけリンベルグのプライドを傷つけるかも。

 それでも。腹を押さえ、口から血を流しながら彼女は苦痛と苦渋に塗れた顔を上げた。


「それでもっ……大佐殿には生きていてほしいんですっ……! たとえ誇りが泥に塗れようともっ……!」


 アーシェの頭に過るマンシュタイン家の人々。理不尽に人としての生を奪われた、暖かな人たちの姿が浮かんでくる。

 彼女が慕う人。その命が失われることなど許容できない。まして、自分の手で奪うことなどできようはずがなかった。


「……生き残ったところでどうなる? 俺にはもう先はない」

「分かっていますッ! 捕まえたところで……死罪は確実です。もう大佐殿に未来はない。けれど、けれど……!」


 アーシェが言葉を絞り、吐き出す。その声にリンベルグは血に塗れた口元を緩め、目を閉じ空を仰いだ。


「……感謝する、シェヴェロウスキー。だが――」


 そして再び激しく咳き込んだ。血反吐を吐き出し全身の筋肉が再度不気味に蠢くと、シルエットが少しずつ異形のものへと変化を始める。

 もう、人としての姿を保っていられる時間が無いのは明らかだった。荒い呼吸をなんとか整えながら彼は疲れた表情で小さく笑うと震える腕で切先をアーシェへ向ける。


「……決着をつけよう」

「……」

「俺が化け物として生き続けるか、それとも人として死ぬか。二つに一つだ」

「大佐殿……」

「だが叶うならば――」


 その続きが言葉になるよりも早く、リンベルグが空を駆けた。

 飛行魔装具の速度に、異形の翼の速度が乗ってさらに加速する。雨を裂き、風を斬ってアーシェへと迫る。

 対するアーシェも無言のまま迎え撃つ。顔を伏せたまま口だけが不格好に歪み、空中に静止したまま魔法陣が浮かび上がっていく。

 飛び出していく術式の数々。それらがリンベルグを傷つけていく。しかしその端から傷口が塞がっていき、致命的なダメージに至らない。

 術式の閃光が瞬く中で剣が振り下ろされた。それを避け、アーシェはリンベルグの背後に回る。

 彼もまたその動きを読んでいたか、背後に術式を展開して応じる。そしてそのまま飛んでいく術式の後を追いかける形でアーシェへと向かっていった。

 再びアーシェの弾幕が彼の視界を覆い尽くしていく。命中し、傷つく。傷はすぐに治る。が、痛みは当然彼を苛む。それでも激痛を無視して、逃げるアーシェを追いかけていった。

 飛来する術式を剣で斬り裂き、異形と化した彼の翔ける速度はアーシェを上回っていた。ジグザグに逃げる彼女との距離を徐々に詰めていき、そして――


「シェヴェロウスキィィィィッッッ!!」


 捉えた。彼には見えた。彼が放った術式にアーシェが弾き飛ばされ、その隙に剣で頭から斬り裂くという未来が。そしてそのとおりに避けきれなくなったアーシェが吹き飛ばされ、無防備な背中をさらした。

 滲む、安堵。成し遂げた満足感を覚えながら、彼は残る力を振り絞り剣を振り下ろした。

 結果、アーシェを頭から真っ二つに斬り裂いて――幻となって霧散した。


「幻影……だとっ……!」


 今まで幻を追いかけていたのか。そうと気づいた時には、すでにアーシェに背後を取られていた。

 背中に衝撃が走り、リンベルグは骨の砕ける音を聞いた。

 思い出したかのように急激にのしかかってくる重力。落下しながらもなんとか振り向くと、目の前は魔法陣で覆い尽くされていた。

 全身の至るところを術式が襲う。衝撃に意識が朦朧とする中、彼は術式の残滓を分け入って迫ってくるアーシェの姿を捉えた。

 あふれる感情を堪えるように口は真一文字に結ばれて大きくなってくるその姿が、しかし一瞬、彼女がためらいを見せて動きが止まったように感じた。

 その瞬間、彼は叫んでいた。


「迷うなっ、シェヴェロウスキィィッッ!」


 弾かれたようにアーシェの双眸が見開かれ、濡れた瞳が覗く。

 顔が歪む。それでも彼女は一度目を閉じると、決意した表情で叫びながら加速した。

 そして――





 地上で二つの影が折り重なっていた。小さな影がまたがる形で時が止まったように静止していたが、やがてゆらりとその影が身動いだ。

 アーシェは無言のまま組み敷いたリンベルグを見下ろした。

 体を大の字にして倒れ、膨れ上がっていた手足はしぼんでいた。背中の翼も崩れ落ちて今は燃え尽きた灰のようにボロボロになって横たわっている。異形ではなく人間の姿を取り戻していた。

 その状態で彼は目を閉じ、静かに眠っていた。呼吸をすることもなく、心臓は鼓動を止めて。

 そしてその顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。満ち足りたとばかりに口元が緩やかな弧を描き、戦いの際に見せていた鬼気迫るものではなく、彼本来の優しげな微笑みがそこにはあった。


「……」


 アーシェは顔を伏せた。小さく体を震わせ、そしてゆっくりと彼の腹に突き刺した左腕を引き抜いていった。

 ぐちゅり、と粘っこい水音が雨音に混じる。血に塗れた握り拳が現れ、土砂降りの雨に洗い流されると緑色に輝く宝石が姿を見せた。

 リンベルグの血に濡れたミーミルの泉。額に張り付いた前髪の隙間からアーシェはリンベルグの死に顔に視線を落とし、再び宝石を握りしめた。

 両手のひらで包み込み、祈るようにして額に押し付ける。


「う……」


 嗚咽が漏れる。誰もいない荒野となった場所で彼女の押し殺した声が静かに響く。そして不意に、彼女はあふれる嗚咽を堪え空を仰いだ。


「神どもッ! 聞こえるかッ!!」


 彼女は叫んだ。憎悪をその幼い顔にみなぎらせ、大きな目をこれでもかと見開いて空に向かって中指を突き立てた。


「貴様らの……貴様らの思い通りには絶対にさせないっ……! クソみたいな思惑がなんでも押し通ると思っているならば絶対に後悔させてやるからなっ!! 絶対に、絶対にだッッッ! 覚えておけっ!!」


 彼女の声が雨雲に吸い込まれていき、当然ながら返事は戻ってこない。涙は雨に紛れて頬を流れ落ち、やがて彼女の奥歯が強く噛み締められる。

 そして。


「う、うぅぅぅぅ……ああああああああああああああぁぁぁぁぁッッッッッ!!」


 激しい戦争の跡地となったその場所で、ついに堪えることのできなかった彼女の慟哭がどこまでも響き渡ったのだった。






――Moving away

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