お花茶屋アイリスの吸血ごはん
戸松秋茄子
▶️
ふはは。
待たせたな。わが眷属たちよ。
今宵は宴。
このお
……って、しんど。寝起きからこのテンション作るのってだるくない? マジで。日付け変わる前から働かせるなんて吸血鬼の労働倫理に反してると思うんだけど。わた――妾、ちょー低血圧の家系じゃし。
すまぬ。取り乱した。気を取り直して、本題じゃ。
妾が西葛西で食べたカレーの話をしよう。
†
「きっともう止めても無駄なんだろうな」
寅彦がそう口にしたとき、プラットホームにアナウンスが流れた。わたしが乗る電車が到着するのだ。
「夢を追うんだもんな。きっと大変だろうさ。それでも恵は行くんだろう? 振り返らずに前へ進むんだろう?」
「寅彦……」わたしは思わずこぼした。
「おいおい、いまさらになって心細くなったなんて言うなよ。俺だって寂しいけどこうして見送りに来たんだ。最後は笑顔で――」
「いや、そうじゃなくて」わたしは言った。「あのさ、大袈裟すぎるよ。引っ越すの同じ二三区だし。あと、言いづらいけど、滑舌悪すぎて半分くらい何言ってるかわかんなかった」
寅彦はむかしから滑舌が悪かった。長い付き合いでも想像で補えないことがある。
「バーロー! 俺は口じゃなく心でしゃべってんだ!」寅彦は人目も憚らずがなった。「それに、荒川越えたら旧江戸市内じゃねえか! 下町とは完全に別世界なんだよ!」
「はいはい」
ほどなくして上り電車が到着した。乗車し、寅彦に別れを告げようとすると、彼が先に口を開いた。
「なあ、恵。お、俺、実はずっと――हसहसंढैर ािहरसहनयोह」
「え、何?」そう聞き返す間もなく、ドアが閉まった。ゆっくりと景色が流れ出す。寅彦の姿はみるみる遠ざかっていった。
あのとき、寅彦が何を言っていたかを知るのは、夢破れて下町に舞い戻ってからのことだった。
†
何? カレーにはにんにくが入ってるけど大丈夫だったのかって?
ふん、吸血鬼が苦手とするのはあくまでにんにくの臭いじゃ。食べて毒になるわけではない。
ただ、ほら、妾ってサービス精神旺盛じゃろう? 求められるなら、ステレオタイプな吸血鬼のロールプレイくらいお安いものじゃ。そんなわけで、しっかりにんにくが入ってないカレーを出す店を見つけたわけよ。
何? また
……ていうか、ロードって何? 吸血鬼より上位の設定ってなんなの? いつ具体的な設定が決まるの? そこがふわっとしたままだといい加減やりづらいんだけど。
って、そこー!
「あやめたん地が出てる」とはなんじゃ! あやめたん言うなし!
いいか、よく聞け。妾は高貴な吸血鬼、お花茶屋アイリス! 断じてあやめたんなどではない!
いいか、絶対に違うからな。
妾は小岩井あやめなんて名前でもなければ、十六歳の女子高生でもないし、アイドルでもなければ、所属事務所の意向でいやいや齢一〇〇歳の吸血鬼を演じてるわけでもない。ときどき口調が変わるのはひとえに低血圧のせいじゃ。
じゃから、
†
決して自信があるわけではなかった。
高校では主演を勤めた劇が県大会の決勝まで進んだけど、それだけでプロへの道が開けるほど甘い世界じゃないことはちゃんとわかっていた。
しかし、はっきりした壁にぶち当たったのは、学校で実践的なレッスンがはじまってからのことだった。
「あなた、本とか読む?」ある日、講師にそんなことを訊かれた。「それと、周りの人を観察してる? 役者はいろんな人を演じないといけない。他人に興味を持って、その内面を推し量れるようにならないと殻を破れないわよ」
それからは意識的に本を読み、バイト先の客を観察するようになった。すべて自分の糧とするためだ。
しかし、レッスンが進み、観察を続けても、まるで手応えが感じられなかった。発声法などは身に付いても、肝心の演技で行き詰まり、幅を広げることができなかったのだ。
いま思えば、わたしに足りなかったのは経験だけではなかったのだ。
想像力。
それが決定的に欠けていたのだと思う。
演劇部では寅彦がわたしに合わせて脚本を書いてくれた。だから、すんなりと役に入り込めたのだと思う。
でも、プロはそうはいかない。わたしが役に合わせることが求められる。同じ役をめぐって何十人もの役者と争い、勝ち残らなければ仕事が得られない。
焦りばかりが募り、気づけばご飯が喉を通らなくなっていた。何を食べても味がせず、飲み込むことが苦痛になった。栄養不足が祟ったのか体調を崩しがちになり、二度三度とレッスンを休むうちに、レッスンに行くこと自体が億劫になった。
けっきょく卒業はできたけど、所属する事務所が見つからず、しばらくバイトを続けた後、実家に戻ることにした。江戸から逃げ出したのだ。
†
さて、汝らの体はどんなときにカレーを欲する?
いまは夏真っ盛り。こんなときにカレーなんてホットなものを食べてられるかという者も多いじゃろう。
しかし待ってほしい。インドと言ったら日本以上に暑い国じゃ。そんな国で生まれた料理じゃぞ? 暑いときにこそカレーなのじゃ。
そんなわけで、本場インドのカレーを食べるべく西葛西まで足を運んだのじゃ。
その夜は特に蒸し暑く、外出するのも億劫じゃったが、これも汝らの期待に応えるためじゃ。
さて、少し入り組んだ場所にある店でな。見つけるのに手間取り、汗が流れたものじゃ。
一刻も早くクーラ――カレーが食べたい。そんな気分じゃった。
そしてとうとう店を見つけたのじゃ。こぢんまりとした、なんとも慎ましやかな店構えで何度か通りすぎていたようじゃ。扉を開くと、ベルが鳴るとともに、妾の体はたちまちクーラ――いや、スパイスの香りに包まれた。
店内は少し薄暗く――そうじゃ、写真を見てくれ。うむ、これでだいたいの雰囲気はわかったじゃろう。
さて、メニューには下調べ通りにんにく抜きのヴィーガンカレーがあった。妾は迷わずそのヴィーガンカレーとサラダ、ナン、ラッシーのセットメニューを注文した。
もちろん、激辛でな。
†
寅彦にランチに連れ出されたのは、実家で引きこもるようになって数ヶ月が経った頃のことだった。
「まあ、とにかく食え」
寅彦は勝手に注文したカレーを示した。
「……わたし、味なんてわかんないんだよ」
「味だけがすべてじゃないだろ」寅彦は自分のカレーをすくいながら言った。「外食するだけだって気分が変わるだろ。ほら見ろよ。ここのカレー
わたしは映えるというカレーを見下ろした。なるほど、それは見慣れたカレーライスとはまるで別物で、プレートを色とりどりの野菜が彩っていた。ライスも玄米で健康志向の一皿であることが見てとれた。
「まあ、一口食ってみろよ。無理なら残りは俺が食うから」
押しに負けて、わたしはカレーを口に運んだ。
「どうだ」
「さらさらして食べやすい」わたしは言った。「鼻に抜ける香りも嫌いじゃない……けど……」
「だよな。味は感じないか」
「違うの」わたしは首を振った。「これ辛くない?」
寅彦は目を丸めた。
「ああ、そっか。辛味は痛覚で感じるんだったな」
わたしは水を喉に流し込んだ。
「辛いのってずっと控えてたんだよね」わたしはコップを置いた。「喉に悪いと思って。でも、そっか。もう気にする必要ないんだね」
「そのことなんだがよ――」寅彦は改まった様子で言った。「あのとき言ったこと覚えてるか。ホームまで見送ったときだよ」
「ああ、よく聞こえなかったやつ」
「って、そうだよな。あのとき噛んだもんな」寅彦はため息をついた。「いいか、特別にもう一度だけ言うぞ。俺、実は声フェチなんだ」
「それは知ってる」
「知ってたのかよ!」寅彦は叫んだ。「いや、それはいいんだ。それでだな、俺、恵の――恵の声が好きなんだよ。なんかこう――鈴を転がすようなっていうのか? 聞いてて癒されるんだ。恵が声優になれてたらファン一号だったのにな」
「恥ずかしいこと言わないで」
「俺だって恥ずかしい。でも、いま言わないとダメなんだ」
「どうして」
「俺、
寅彦は突然スマホを取り出し何かのアプリを立ち上げた。そして、わたしに向かって画面を見せる。
「俺、学校でCGデザインを学んだだろ? そのノウハウを活かして作ったんだ」
そこには、ゴスロリ姿の少女の3Dモデルが映っていた。
「こいつに声を当ててほしい」
†
さて、おまちかねのカレーが登場じゃ。改めて皿を前にすると、その香り高さがわかる。ふふ、写真では香りまでは伝わらないのが残念じゃ。
しかし、カレーは激辛にかぎるの。あのひりつくような辛さ。流れ出る汗。生きている実感が湧いてくる。ラッシーでカプサイシンを中和しながらカレーをかきこみ、あっという間にぺろり。完食じゃ。
味はどうだったかって?
いや、毎回言ってるが吸血鬼に何を期待してるんじゃ。吸血鬼の主食は血液ぞ? 人間的な味覚は退化しているに決まっておろう。
「あやめたん味音痴だからなあ」とはなんじゃ! あやめたんではないと言っておろう! 妾を馬鹿舌な女子高生に仕立てあげようとするでない!
汝らにしたところで、味だけを楽しんでいるわけではなかろう? 店の雰囲気や、料理が孕む情報、ファッション性。それらを賞味しているはずじゃ。
吸血鬼がグルメを名乗って何が悪い。
そうじゃろう? わが眷属たちよ。
今週、眷属の数が十万を突破したのはTwitterでも報告した通りじゃ。これは吸血鬼のー――妾の食レポに一定の需要がある何よりの証拠じゃろう。
さて、あっという間にこんな時間じゃ。夜はまだ長い。今宵も蒸し暑いが、こんなときはカレーでも食べるのがクールというものじゃ。
ああそうそう、チャンネル登録といいねを忘れるでないぞ。
お花茶屋アイリスの吸血ごはん 戸松秋茄子 @Tomatsu_A_Tick
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