第43話 独りにするもんか

 ……………………

 ………………

 …………


「──ちゃん。美狐乃ちゃん」


 声がする。気味が悪くて、ねっとりした声だ。

 ゆっくり目を開けると、ぼやけた視界が晴れてきて……


「おはよう」

「ひっ!!!」


 私は思わず悲鳴をあげた。

 私は今、ストーカーに壁に迫られている。

 彼の顔が、息が顔にかかるくらい近くにあり、その息の生臭さが鼻について今にも嗚咽が出そうだ。

 そして、彼の表情は……


「どうして……どうして……」


 怒りに満ちていた。

 まさか私に怒りを向けている理由って……。


「くそぉぉぉぉ!!!!」

「ったぃ……。離して……」


 男は私の手首を思い切り掴んで、身体を余計に近づける。

 膝を私の両足の間に寄せると、男は更に息を荒らげた。


「……す……けて……」


 私はバレないようにポケットから携帯電話を取り出して、即座に着信履歴を開いて指を近づける。

 上二つを除けば、あとはほとんど……。だから指さえ触れれば……。


(……よし)


 なんとか指が触れた。おそらく私のやろうとしたことは上手くいっただろう。

 あとは……。


「……けて、たす……けて……」


 声が出ないけれども、なんとか助けを求めた。

 だけど……


「やめろぉ!!!」


 男は携帯電話を取り上げた。

 そして更に力を出して、更に近寄ってくる。

 圧がすごい。今にも心が潰されそうだ。

 けれどその後、男は……


「このやろぉぉぉぉ!!!!」

「きゃっ!!!!」


 私を容赦なく投げ飛ばした。

 痛い。コンクリートに思い切り身体をぶつけられた痛みはもちろん、高熱を出したときに走る関節の痛みまで感じて、身体を起こすことすらあたわない。


「はぁ……はぁ……」


 男は私の身体の上で四つん這いになる。

 これでもう身動きがとれない。

 さっきより強い圧と恐怖を感じ、私の目から涙が零れた。

 なにもできず、一方的に蹂躙じゅうりんされているだけの自分への悔しさ情けなさが憎くて悲しくて──。


「どうして……僕はダメで、アイツはいいんだよ!!」

「そ、それは……」

「なんで僕みたいな陰キャがダメで!あの男はいいんだよ!!!」

「か、彼は……」

「元カレなんだろ? あの日、話を聞いてすぐわかったよ」


 そう言うと、男は身体を起こして高笑いした。


「そりゃそーだよな! だってアイツは美狐乃ちゃんの運命の人じゃないから!! そりゃお前たちは別れるよ!! 神様はしっかりわかってらっしゃる!!」


 まるで自分と私が結ばれるのは当然、と言わんばかりの傲慢な態度だ。ひどく醜く、憎たらしくて、今すぐにナイフを突きつけて脅してやりたいくらい。

 だけど私は今、ナイフを持っていない。


「いやっ!! やめて!!!」

「はーぁ、はーぁぁ…………」


 何も抵抗できず、私のシャツのボタンが外されていく。

 この私が、こんな男に……。

 私は叫んで、涙を流すことしかできなかった。


「いたい!!」


 男は私の片手首をまた強く握り締める。さっきよりも強く。骨を折りそうな勢いで……。


「はぁ……はぁ……」


 そしてこの後の行動に、私は息を詰まらせた。

 男はなんと、私が持っているナイフと同じものを取り出して、振りかぶった。


「これは復讐だ。ホントはあの男を殺してやろうと思ったけど……、まずは君を、めちゃくちゃにしてやる……」


 怒りに染まった鼻息がどんどん下卑たものになっていく。

 男は頬を染めている。まさか、私を……。


「いや……やめて……」


 私は目を瞑った。

 もう終わりだ。これ以上、この男の顔を、めちゃくちゃになる自分を見たくないから。


「たす……けて……」


 だけど心は正直。私の口は、まだ一縷の希望を求めて助けを求めていた。


「はぁ、はぁ……、これで美狐乃ちゃんをめちゃくちゃにして、られもない姿をネットに晒してやる!!」

「……いや」


 助けて。助けて。誰か、助けて…………。

 無謀ながらも助けを求めながら、私は恐怖から逃れるために意識を他所に向けた。


 目を開けたら、アイドル月夜凜々つくよりりは死ぬんだろうな…………。


 ごめんね、翼くん。みんな……。

 一人でなんでもできると過信していた、バカな私で……。

 

 ……………………………………………

 ………………………………………

 …………………………………



「お、おい、やめろ! 離せ!!」


 えっ……。


「お前こそ、月坂から離れろ!!!」


 翼……くん? どうして……。


 目を開けると、翼くんがナイフを持つ男の手首を両手で抑えていた。


「に……げて……」


 翼くんを、その男から遠ざけなきゃ……。

 私は翼くんを助けるよりも先に、翼くんが傷つかないようにすることを望んだ。

 だけど──。


「こんなところで、お前を独りにするもんか!!」


 声を震わせながら、翼くんは言った。

 臆病で情けなくて、弱虫で──だから彼もこの状況に怯えているはず。

 それなのに彼は一歩も引かなかった。


「やめて! これは私の問題……だから!!」


 それでも私の口から「助けて」という言葉が出ない。

 電話で翼くんに助けを求めたくせに、翼くんに「助けて」と言えないなんて、なんたる矛盾だろうか……。


「こんな状況で……、どうやって解決すんだよ……」

「それは……」

「一方的にめちゃくちゃにされて、それをネットに晒されて……。そんな結末を、ウザイくらい完璧主義なお前が求めるのかよ!!」

「!!!」


 翼くんの言葉で目が覚めた。

『トップアイドルを超える存在になること』を望んでアイドルを始めた私が残念な姿になるのを求めるなんて……嫌だ!!


「じゃあ……助けてよ……」


 だから私は声を絞り出す。


「じゃあ、この男から……早く私を助けなさい!!」


「こんなところで、アイドルとして死んでたまるか」という気持ちを乗せて、思いっきり叫んだ。


「……遅せぇよ」


 ほんと。翼くんの言う通りだ。

 こんなにも勇気を出して私を助けてくれるんだったら、一人で解決しようとせずに、最初から翼くんに助けを求めればよかった。


 私は、本当にバカだ。改めて思った。


「理不尽だ。理不尽だ!! なんでお前みたいな陰キャが付き合えて、俺はダメなんだよ!! 俺は美狐乃ちゃんと、運命の糸で結ばれてると思ったのに……」

「運命の糸だ? その運命の糸で結ばれた相手に、こんなマネをするクズが……何言ってんだよ!!」

「うるさい! これは復讐だ!! もう恋なんてしないと心に決めた、僕の覚悟だ!!」

「だからって……」

「なぁ、教えてくれよ。なんで同じような陰キャなのに、お前は良くて俺はダメなんだよ……」


 男の声が弱くなっていく。

 今にも泣き出しそうな、悲痛な声だ。


「なんだよ……陰キャ陰キャ言いやがって……」


 そんな彼に何一つ同情することなく、翼くんは男に怒りをぶつけた。


「誰かを好きになることに、陰キャも陽キャもあるもんか!! 陰キャと陽キャ……、ましてや学園のアイドル様と陰キャが釣り合う釣り合わないとか、勝手に言ってろって話だ!」


 どんどん声に力が入るのが伝わってくる。

 そうか。あなたはこんなにも本気で誰かに立ち向かえるんだね。


「それに、陰キャだからとか……そんな理由だけで選ばれる選ばれないばかりじゃない……。性格とか趣味が合ったりとか、いろんなことがあって……、それで……」


 そして翼くんは言った。


「月坂はお前を選ばなかった!! それだけだろ!!!」


「……そ、そんな」


 翼くんのトドメの一撃を受け、男は無気力になった。


「いたぞ!!」


 そこで警察官が駆けつけ、翼くんと共に男を取り押さえた。

 これにて、私の身に襲いかかっていた恐怖の時間は終わりを迎えた。


「もう、大丈夫だよ」

「うぅっ……」


 警察官の優しい声が聞こえて、私はわかった。

 月坂美狐乃も、アイドル月夜凜々も生きている。


「……うわぁぁぁぁぁぁぁん!!!!」


 私は泣き叫んだ。

 自分らしさとか忘れて、さっきまで抱いていたいろんな感情を吐き出すように。

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