一章 月と太陽と

第13話 日向さんと距離が縮まった件

『ピピピピ……』


 目覚まし時計の音が朝7時を告げる。

 俺は即座にボタンを押して目覚まし時計の音を止めて、ベッドから身体をゆっくりと起こす。


「はぁぁ、腰痛てぇ……」


 起き上がってすぐ、腰ににぶい痛みを感じた。その痛みに憂鬱を感じたのか、今日はやけに身体が重い。


「昨日の初仕事に疲れたんだな……」


 いや……月坂美狐乃のマネージャーじゃなければ、こんな絶望的な疲れを感じるはずなどなかったはずだ!!


 もし他のアイドルが相手ならば、異性の美少女相手に緊張して疲れるかもしれないが、アイドルとしての仕事をこなす彼女の可愛い姿に癒されることは間違いない。だから昨日ほどの疲れは感じないはず。

 だが月坂といると、イライラが溢れるばかりで心は癒えない。おかげで頭は痛いし、気分は最悪。


 まったく、なんてクソバイトなんだ。


「って言っても、解決しねぇよな……」


 そうだ。このバイトは辞められないのだ。

 なんでも、父の面子が潰れるんだそうで。父なんかどうでもいいと、身勝手ながらもバイトを辞めてやろうとは思うが、父の仕事関係で面子が潰れると、藍川家の経済が危うくなるかもしれない。


「はぁ……そろそろ起きるか……」


 俺は重い身体をベッドから出して、そのまま洗面所、それから台所へ向かった。

 食パンを一枚取り出して、オーブンで温める。


 俺は今、1Kの部屋で一人暮らしをしている。

 洋室は六畳。俺としてはちょうどいいのだが、お金持ちの学校に通う俺だから、こんな部屋をクラスメイトが見たら鼻で笑われるだろう。日向さんが笑ってくれないことは切に願いたいが……。


『プルルルル……』


 食パンの焼き上がりを告げるオーブンの甲高い『チーン』という音が鳴るより先に、携帯電話が鳴った。

 電話を出て、相手が黒川さんだとわかるとすぐに俺は背筋を伸ばした。

 それと同時に、オーブンから甲高い音が聞こえた。

 電話を耳と肩で挟みながら、片手でオーブンから食パンをそっと取り出してから口を開く。


「あっ、はい! おぉっ、お疲れ様でふっ!!」

「ん? あぁ、おはよう」


 しまった。なにパニクってんの、俺……。

 俺の言葉に苦笑する黒川さんの声が聞こえて、俺は顔を赤くした。


「どうだった? 初仕事は」

「あっ、まぁ、ぼちぼちです」


 月坂との仕事は最悪だった。だけどそんなことが直接言えず、返答に困った俺は、万能の返答術『ぼちぼち』で切り抜けた。

 すると彼女から「あはは……」という声が出たのが、電話越しに聞こえた。


「えっと、御用件は?」

「あー、昨日の初仕事の感想を聞きたかっただけ〜。てことで明日も頑張ってね〜」

「えっ、あっ、はい……」


 通話が切れた。

「えっ? それだけ?」とは戸惑ったが、通話が終わると肩の荷が降りた。

 やっぱ人と話すの、疲れるわ。



 〇



「なぁなぁお前、月坂さんとどういう関係なの!?」


 教室に着くとすぐ、俺の前に太った体型で、眼鏡をかけた男子生徒が現れた。

 久保田拡樹くぼたひろき──俺のクラスメイトで、最近やたらと俺に絡んできたやつだ。部類は俺と同じ陰キャであろう。だが断じて、友達などではない!


「いや、別に……」

「そういえばお前、転入初日に月坂さんに告ったってマ?」

「いや、あれは……違う」

「なんだよぉー! でも、わかる! だって月坂さん、可愛いもんなぁ〜。だって、学園のアイドルで……おまけに本当にアイドルとして活躍してんだろ!?」

「あっ、あぁ……」


「ツバサ、おはよっ!」


 久保田との会話に割って入るように、明るい挨拶が飛んできた。日向さんの声だ。


「あっ、あぁ、おはよう……」


 つい緊張して、呂律が滑らかに回らない。

 それでも彼女は「キモい」の一つも吐かずに、ニコッと笑ってくれた。

 そのあたりが月坂と違って──おっと、ダメだ。学校では月坂のことを忘れるんだ……。

 そう思ってもやはり、月坂のことがチラついてきて、どうしても日向さんと比べてしまう。

 

「あっ、あの……」

「あぁ、おはよ? えーっと……」

「く、久保田です……」

「あっ、うん。おはよ〜」


 うわー。めちゃくちゃ悔しそう。

 久保田はこめかみに血管を浮かべて、敵意剥き出しで俺を見てくる。

 そして俺の前から姿を消した。


「あっ、あの……」

「ん? なに?」

「あっ、いや。なんでもない……」


 彼女と目が合うが、何も言葉が出なかった。俺はすぐさま、そっぽを向いてしまう。

 彼女の美貌に見とれていたのはもちろんだが、彼女との会話を試みようと思ったのだが、話題が出なかったのだ。


 日向さんと話したい。けれど俺は諦めて、なんとなくファイルの中身から今日提出する書類を取り出した。

 するとだ。話題が見つかった。

 俺が手に取ったのは『進路希望調査』のプリント。

 俺は宝物を見つけた子どものように目を輝かせた。


「あっ、あの、日向さん」

「ん?」

「し、進路希望調査、出した?」

「あー、まだ。それがどうしたの?」

「あっ、いや、その……進路って決まったのかな……って……」

「あー…………それもまだ、かなぁ?」


 何かが歯に詰まったかのような表情を浮かべた日向さん。まだいろいろと悩んでいるのだろう。

 進路の話は不発だったか。そう思った瞬間のことだ。一呼吸置いて、彼女は言った。


「ねぇ、ツバサは? 進路どうするの!?」


 突然、彼女が椅子から身を乗り出して俺に迫ってきた。

 やばっ、近っ! しかもシャンプーのすっげぇ良いニオイする! 心地良すぎるぅ!!


「あっ、ごめん! いきなり……」


 このまま何事もなく話が進むと思いきや、彼女は顔を赤くして、「あはは……」と笑った。

 こういう明るく元気な子がいきなり照れると、こっちとしてはかなりご褒美だ。いいぞ、もっとやれ。


「つっ、ツバサさ……進路、どうするの?」

「あっ、えーっと。大学、行く。国公立の」

「えっ? 嘘! ちょー賢いじゃん!!」

「あっ、ありがと」

「いいなぁ。アタシなんか全然ダメ! まぁ別に将来、学力が必要ないことやりたいからいいんだけどさ。もう成績がやばくて……」


 おっ、これはチャンスなのでは?

 ここで俺は大きな一歩を踏み出そうと思う。

 バクバクした心臓の鼓動を抑えるべく、一度呼吸を整えて──


「あっ、あのさ、俺でよかったら……勉強、教えようか?」


 言えた! 言えたぞ! 大きな一歩を踏み出したぞ!!

 この一言を言うのに、今日一日分のエネルギーを注ぎ込んだ俺はひたすら自画自賛した。


「えっ? マジ!? ありがと!」


 日向さんは更に寄ってきて、ニカッと笑ってくれた。

 かと思えば日向さんはすぐにカバンからメモ帳を取り出した。

 わちゃわちゃしたデザインだが、明るい女の子らしさがよく出た可愛らしいメモ帳だ。


「じゃあさじゃあさ、勉強会しようよ! 明日とかどう??」

「あっ、明日か……」


 自分のメモ帳を見て、思わず口を歪ませた。

 メモ帳には月坂の予定がびっしり。以前まで空白だった予定が、今や隙間が数えるほどしかない。


「あっ、ごめん。その日は歯医者の予約が……」


 仕事の予定──ましてや月坂との予定が入っているなんて言えない。

 俺はいかにもな理由をつけて断った。


「じゃあさ、日曜日は空いてる?」


 予定に空きが少ない俺は、逆に日程を提案した。

 いつも予定を一方的に提案される俺としては初の試みだ。

 あと彼女との会話に慣れてきたからか、呂律がしっかり回っている。唇の震えもない。


「あっ、うん。空いてるよ! 日曜日!!」

「じゃあ、そそっ、その日で……」


 けれどここで『女の子と予定を立てている』ことに気づいて、俺は気恥ずかしくなって呂律がまた回らなくなった。


「じゃあ、場所は……」

「すっ、スタバ!!」


 ついつい調子に乗って、場所まで提案した。

 さすがにこれはまずかったか? 


「それ、採用!」


 けれど彼女は何一つ嫌な顔を見せずに、親指を上に立てた。

 どう反応されるか、身構えた俺は安心して身を少し後ろに退いた。


「それじゃあ楽しみにしてるね? ツバサ先生!」


 そして満面の笑顔、いただきました。

 今日も一日……いや、日曜日まで頑張って生きていけそうです。

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