第2話 花
いくら目覚めをの良い朝を迎えようと、夜、気分悪く眠りにつけば、どうしてその日がいい日だったと考えることができようか。今晩、掛け布団の中で決算書に書き連ねる数字は真っ赤に違いない。
住職の退屈な
わざわざ自分から自殺してしまおうとは思わない。――が、自分が皆ほど「生」に執着がないがないことも、また事実だと思う。もし今ここで、この四肢が命とともに爆散しても別に構わない。当然、痛みを伴わない死に方があるのならば、そちらを選びたいとは思う。だが、どうせ死んでしまうのだから、一瞬の痛みなど恐れるに足らないことだ。
夢がない。約束された将来もない。生きている理由がない。だが、死ぬ理由もない。死にたいか、と聞かれれば迷わず首を横に振るが、その根拠は答えられない。強いて言うなら、一度きりの命を簡単に捨てるのが勿体ないから、だろうか。
もし、どこかの宗教のように、
つまらないことを長々と考えてしまっていたが、我が家にいるうちは、特に深く考えごとをする必要はない。要領のいい父が買っておいた今日の分の弁当を取りに部屋を出る。一番上にあった海苔弁当を手に取った時、母と目が合った。ほほ笑んだ。僕に心配をかけぬように、その上僕の不安を和らげようと。クシャっと顔をつぶして、たるんだ肌も相まって、それでも赤くなった目は隠れ切れていなかったが。「わかってる。私も、あなたも、大丈夫だよ。」と、そう僕に伝えたかったのだろう。ごめんなさい。母が僕の胸の
夕日が地平線と喧嘩を始める前に家を出た。自分の礼服は持っていないから、通夜には高校の制服を着て参加する。固い首元が
開始時間が近づき、母の隣の席に腰を下ろした。騙しているようで居心地が悪い。住職が入場し、それから程なくして通夜が始まった。読経が始まり、住職、祖母、父、母、そして僕の順で焼香台の前に立つ。浄土真宗では、
父は席には戻らず、入場口の傍に立ち、
予定通り、読経は終わらない。仕方がない。心の中で花祭壇の花を一輪ずつ順に枯らしていく。読経に法話と、相当の時間を要すのが分かっているから、一輪一輪繊細にに枯らす。渇きがパステルカラーを濁らせ、花びらを落とさせる。ゆっくりと、エアコンの微風に舞いながら着地する。これだけ丁寧であれば、読経も法話もやり過ごせよう。
決して楽しめるわけでも、命の果てる瞬間に美を感じられるわけでもない。それでも、理解し得ない文字の羅列に挑戦するより、いくらか楽だろう。飽きが来るのも分かった上で続けた。
しかし、花を数え始めてから、妙な背徳感を胸にしている。人一倍不謹慎な僕でも、いざ通夜当日になれば、心を入れ替えるものなのかと感心した。だが、すぐに理解する。今日が通夜であることなど、僕が気に留めるはずもない。ただ、自分の手で命を奪う、花を枯らせることに抵抗があるだけだった。それもそうだろう。ブラジルで未知の病気が蔓延し、100万人が犠牲になった、とニュースで聞かされても、口にするのはせいぜい「恐ろしいなあ。」「可哀想に。」くらいのものだ。しかし、目の前のスイッチを押せば、
大方塗り終わった頃、住職の声が止んだ。読経は終わったみたいだ。透かさず、住職は話を始める。聞き耳を立てるつもりはない。まだ美しい花を塗りつぶしていく。しかし、このままでは法話が終わる前に、すべて塗り終えてしまうのではないだろうかと不安に思う。それでも塗りつぶし続ける。だが、やはり。足掻くように、床に落ちた枯れた花びらにも筆を向ける。しかし、健闘虚しく、法話は終わりの色を見せなかった。
諦めて、聞きたくもない住職の話に耳を貸そうか。いや、宗教などには興味がない。両親がいなければ、この通夜、明日の葬儀に参加することもなかったろう。下らない儀式だと思う。死者に人権はない。配慮する必要もない。亡くなった方を冒涜してはならないのは、遺族が悲しむからであり、亡くなった当人のためではない。その当人は悲しまない。悲しむ心が機能停止した脳のどこにあると言うのだ。命果てたあと、広がるのは無だろう。死後の世界があると妄信する人は、なぜそう思うのかが理解できない。永遠の眠り、という表現があるが、まさにそのようなものだろうと思う。どうして、あんな――。
気が付けば、黒い花祭壇の前から住職はいなくなっていた。
脱色 羽生蓮歌 @RD_Patorice
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