脱色

羽生蓮歌

第1話 床

 祖父が亡くなった。昨日には「今日か明日が山です。」と聞かされていたので、驚きはなかった。言っていたことがぴたりと的中したのだから、この場合は医者を褒めるべきだろうか。いや、親族として不謹慎だろう。これ以上はやめておこう。――遺産はどうなっているのだろう。祖父の為人ひととなりもよく知らないから、どうせ考えても分からない。孫の僕に相続権はないから、ということにして、もう考えるのはよそう。ああ、これも不謹慎だったか。

 祖父には申し訳なく思う。何も考えなければいいのだろうが、これが難しい。まったく関係のないこと、例えば、一昨日読んだ漫画のこと。今はそれも不謹慎だと言われるだろう。一切の思考を止めようとしても、僕の脳は怠けるつもりがないから仕様がない。祖父の死が、僕の心の余裕を取り上げるようなものではないということだ。十年以上顔を見ていなかったのだから、もう他人のようなものだ。最後に会った時のことすらも覚えていない。

 母の傍らに立ち、祖父の主治医の言葉が耳に入る。医学部を出たような大人が口に出す文章も、興味がなければただの雑音だ。僕が悲しんでいると両親が思えるように顔を俯ける。涙ぐんだ彼らの気持ちも分からなくはないから――。

 父と主治医の話に終わりが見えないので、仕方なく床のタイルの数を数えて暇をつぶす。ひとつずつ、頭の中で黒く塗りつぶしていく。床が真っ黒になったら、今度はタイルの溝を迷路に見立てて、また頭の中でなぞっていく。ゴールはない。スタートは――。

 視界から黒い革靴が消えていったので、きっと話は終わったのだろう。顔を上げようとすると、父が右肩に手を置く。今度はそれに呼応するように、母が僕の頭をゆっくりと撫でる。仕方がないからもう少しだけ、悲しんでいるふりを続けることにしよう。


 シートベルトを締めて顔を上げた。いつからか、バックミラー越しに母と目が合うのが嫌になった。窓枠に右肘を乗せて頬杖を突き、窓の外をじっと眺める。16年も住んだ街だ。今更新しい発見なんてあるはずもない。それでも、ただ眺める。こうやって景色を見るのは嫌いじゃない。深く考えずに時間を進めることができる。そうして、気付けばもう家に着く。


 帰りに寄った店で父が買ってきた鮭弁当を左手に持ち、そそくさと自分の部屋に入る。母は少し驚いたような顔をしていたが冗談じゃない。テーブルクロスの模様を数えて楽しめるような子供ではない。

 部屋の電気はつけない。スマホの明かりを頼りに鮭弁当の箱を開く。箸を進めながら画面を見る。友人から4件の連絡が来ているが、返事はあとにする。インターネットで焼香の手順を一通り調べて、大きく溜め息をつく。憂鬱だ。ココロ語を直訳してみると、「算数は嫌いだ。」と。解釈を加えて意訳するなら、この子は明日の通夜をサボってしまいたいらしい。なんと不躾ぶしつけな子に育ってしまったのだろう。翻訳機が故障してしまったのなら仕方ないだろうが、どこにも異常は見つからない。僕の優秀な脳と違って、彼は怠け者なのだと認めよう。明日また、彼に算数の問題を解かせなくてはならないのは、どうしても気が乗らない。せめて、今日はもうゆっくりと休ませてやろう。

 

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