第26話
1年生の男子トイレ。
普段使われているそのトイレは、いつにも増してひどい臭気を放っているような気がした。
いや、その臭気を感じるぐらいここに長居をしたことがないからかもしれない。
目の前の一条を見てそう思う。いつもの2人の姿はない。
「どういうことなんだよ!」
感情的な声がトイレに響き渡る。興奮しているのか、彼の顔は赤くなり、少し息切れをしている。
「何がですか?」
「何がじゃねーよ!」
伝わらないことにイライラしているのか、さらに取り乱す。
明らかにいつもの彼とは違う。ペースが乱れている。
「推薦の件だよ」
「ああ、はい」
生返事で返す。「お前!」一条が胸ぐらをつかんでくる
これは作戦だった。
図書館での休憩室。翔子は楽しそうに笑う。
「え?怒らせる!?」
「そう! 怒らせるの」
その情景を思い浮かべているのだろうか、彼女は本当に楽しそうだ。
「でも怒らせたら、なにかされるんじゃないですか?」
不安になって聞き返す。
いつも違った角度でアドバイスをする彼女だが、今回ばかりは心配になった。
「怒ったら、そうだね。トイレとかに連れて行かれるかもね。漫画とかってだいたいそうなんだよ」
他人事(ひとごと)。使ったことのない単語だった。
人との関わりが少ない自分には使うことがないと思っていたが、まさかこんなところで使うことになるとは。
「漫画ですよね。何かあったらどうするんですか?」
「なにかって何?」
彼女の笑いが止まり、まっすぐ目を見つめてくる。彼女の目は僕ではなく、僕の向こうのなにかを見据えている目。そんな気がした。
「何って殴られるとか」
「殴られるぐらいでしょ」
「え?」
「命を失うわけじゃないし。はじめくんに必要なのは経験だよ」
命を失うわけじゃない。「命」これもあまり考えたことがなかった。
小学校3年生のとき、近所のおばさんが亡くなった。交通事故だった。下校中に泣いている人たちを見たが、なぜそんなに悲しいのかあまり分からなかった。人がいなくなるだけ。
それが橘はじめの命に対する印象である。
「そっか。そうだよね」
命を失うわけじゃない。自分がいなくなるわけでもない。
何かが自分の中で湧き上がってくるものを感じる。
「それに殴られたら殴り返せばいいんだよ」
「え?!」
彼女の発言にかなりの違和感を感じる。
自分にも殴る権利がある。そんな選択肢を与えられたのは生まれてはじめてだった。
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