弱くても、彼女の人生は続く

 赤かったはずの視界が、真っ暗になった。

 全身の感覚が消えた。そう思ったが、すぐにそれが復活した。視界は晴れていた。ぼくは死んだはずなので、訳がわからなかった。

 ぼくは家の台所で『灯里』に馬乗りになっていたのだ。そして、右手の包丁が『灯里』の身体を滅多刺しにしていた。

「クソ!この里香め、俺をけなしやがって!」と、無意識にぼくが『灯里』に向かって怒鳴った。灯里ではなく、里香と。そして、また無意識に、包丁を丁寧に洗った。

 そして、さっきの声から、ぼくは何故かは知らないが、父に乗り移ってしまったことを悟った。

 とりあえず、男の身体を体験しようと思ったら、今度は意識的に声が出た。ネットで得た知識を使い、この身体で遊び終わり、元に戻そう。そう思っただけで、手足の感覚が消えた。だが、視界はクリアなままだ。

「なんで俺が灯里に?」更に、ぼくが父を乗っ取っているとき、父の精神は『ぼく』に乗り移っていたらしい。


「はあ?何やってんの、アンタ」ママが見つめる先には、『ぼく』の死体があった。

 あれから数日が経ち、音信不通になった『ぼく』を探してここに来たらしい。

「見た通りだ。俺が灯里を殺した。通報したいなら、勝手にどうぞ」

「分かった」そう言ってママは携帯電話片手に外へ出た。警察を呼ぶらしい。それから数分としない間に、ママは戻ってきた。

「さあこれでアンタは罪人だ。じゃあこれで、私は帰るわ」

「なあ、警察が来るまでに、最後の一回、いいだろ」父が、ママの手を強く握った。

「もうアンタとはシないって決めたから」それから、ぼくの感覚が全て消えた。

 それからしばらくして、ヒールがコンクリートに当たる音とパトカーのサイレンが、ぼくの耳に飛び込んできた。目を開けるとまた、目線の高さが違った。今度の視界も良好だ。ぼくが『うつむかされる』と、見えるはずの靴が見えなかった。

「…なんであの子を産んだんだろ」人気ひとけが少なくなるとすぐ、その人がが呟いた。声でママだとわかった。

「新しい旦那との子どもだけで十分なのに、なんで中絶しなかったんだろ。でも、灯里も『殺してくれてありがとう』って思ってるかもな。家は居心地悪かっただろうし」たしかに家に帰るのはとても憂鬱だった。だが別に、死は望んでなかった。学校はとても楽しいし。

「いやあ、アイツに灯里を殺して欲しいことを暗にほのめかしといてよかったわ」その言葉が決め手だった。ぼくがママを一生乗っ取って、ママの精神を殺そうと。


 そして、それは成功した。これで、ママの精神はずっと『ぼく』の身体に封印されることになる。きっと千の風になって、パパとぼくを見守っていることだろう。ママが反抗でもしてぼくから肉体を奪い返さない限り、この身体はずっとぼくのものだ。まあ、風なんかにそれができるはずないと思うけど。

 急に歳をとるのは嫌だが、死ぬよりマシだ。子どもたちや旦那、近所の人との付き合いをしっかりこなさないといけないのはダルいけど。

 第二の人生はしがらみの多いものだが、ちゃんと謳歌しようと思う。『親の都合』というくだらない理由で消え去った第一の人生の分まで。

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弱者〜Her life goes on〜 深谷田 壮 @NOT_FUKAYADA

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